新潟県十日町市小出『清津薬師堂』

7月19日新潟県清津峡を訪れた際、清津峡の入口付近で見かけた清津峡薬師堂を紹介します。

名古屋から新潟県清津峡までは距離にして450㌔、高速を使用しても片道で約5時間はかかる。
制限速度を無視すれば更に短縮できるのだろうが、取り締まりの目もあり無駄に速度超過はしないに限る。
私達は近くのキャンプ場に二泊してこちらを訪れました。

清津峡の観光用トンネル「清津峡渓谷トンネル」は、SNSなどのフォトスポットとして御存知の方は多い。
特に第四見晴所からのこの写真はネット上に溢れています。
開坑時間直後に訪れれば、水面に写り込む柱状節理の荒々しい清津峡の写真を撮る事ができます。
観光客が増えると水面は乱れ、思い描いた世界とは違うかもしれませんが、見晴所から眺める清津川と柱状節理のV字谷は見応えがあります。

今回掲載する清津峡薬師堂は、トンネルに向かう遊歩道沿いの「日本秘湯を守る会」の提灯が吊るされた宿のすぐ先に写真の参道と解説板が立っています。

清津薬師堂の由来
曹洞宗「雲洞庵」は旧・塩沢町(現・南魚沼市)雲洞にあり、奈良時代初期の創庵。
 戦闘の武将上杉謙信公の帰依厚く、拾万石の格式と越後四ヶ道場の一つに数えられる越後屈指の名剤である。
第四十世東海百川大和尚は、謙信公縁りの「薬師如来像」を清津郷の守りとして安置せられ、以来この地に鎮座し現在に至っている。」
 曹洞宗「雲洞庵」は、ここから東の峠を越えた魚野川右岸の谷筋に鎮座し、藤原房前が母親の蘇我娼子の菩提を弔うため、養老元年(701)に創建された尼寺から始まる寺。
その後の室町時代関東管領・上杉憲実公が藤原家末裔の因縁で庵をうけ、曹洞宗雲洞護国禅庵を開創以降、北陸無双の大禅道場として栄えてきた名刹
 十三世通天存達和尚は、幼少期の上杉景勝直江兼続らを雲洞庵で引き取り、教養や中国古典などを教育したという。
清津郷の守り神「薬師如来像」はそちらから移されたようです。

薬師堂の前には朱の鳥居が建てられており、神社のような趣き。
左に○○神社と彫られた石標があります。
薬師堂の由来は入口のものしかなく、薬師堂や雲洞庵などから調べて見たが分からなかった、頭二文字が読めず○○神社としたが、それが分かるともう少し情報も出てくるかもしれないが、読めないだけに何ともならない。

鳥居から境内の眺め。
一対の常夜灯と狛犬の姿がある。

堂の全景。
そこそこ高い基礎の上に切妻妻入りの堂が建てられています。

どうみても神社の趣が漂いますが、すべての生物を救うため、仏が仮の姿の神として現れる本地垂迹思想の流れを汲んでのものだろうか。
由来には薬師堂の創建時期は記されていないが、雲洞庵第四十世からその時期も分かってくるだろう。

暗い堂内、コントラストを変えると厨子の中に安置された像の姿と鏡が浮き出てきた。
温泉の存在自体は古くから知られており、上杉謙信薬師如来像のお告げにより掘り当てられたとされる温泉を利用した清津峡温泉や、清津峡渓谷トンネルが整備されたのは昭和に入ってからの事。
この清津薬師堂も清津峡温泉の整備とともに歩んできたものだろう。

それ以前はまさに隠し湯・秘湯の湯治場だったことだろう。
今では舗装された道路で繋がり、日帰りで手軽に訪れることができるようになり、秘湯の温泉宿の趣は随分と薄くなり、各地で秘湯を守る会の提灯を吊るさなくなった宿も少なくない。
清津峡渓谷トンネルは盛期には事前予約がないと入れません。
薬師如来のお告げで湧出した温泉宿に泊り、開坑時間の清津峡渓谷トンネルから自然が創ったアートが見られればいいのですが、宿泊者も同様の扱いになります。

薬師堂の前の柱状節理のV字谷を早い流れの清津川が流れ下っており、早瀬の渡渉にてこずるカモシカの姿が見られました。
自然は大きく変わっていないだろうが、大きく変わったのは対岸の大勢の人影と観光バスのエンジン音と排気熱、てこずっていた訳ではなく躊躇したのだろう。
…熊もそうあって欲しいものだが

清津薬師堂
創建 / 不明
本尊 / 薬師如来
所在地 / ​新潟県十日町市小出2126-1
参拝日 / 2024/07/19
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