郡上市白鳥町前谷『白山神社』

前谷白山神社
長瀧白山神社から国道156号線を北進すると、歩岐島大橋手前の国道156号線から県道314号線との分岐があります、前谷白山神社へは左折して県道314号線を走り、白鳥高原スキー場やウイングヒルズスキー場方向に向かい鎮座地の前谷集落まで約5分程になります。
スキー場の名前もカタカナになり、昔のスキーヤーにはピンと来なくなった。

前谷集落の玄関口にあたり、阿弥陀ヶ瀧から流れ落ちた水は、前谷川となり長良川に注ぎます。
谷筋の傾斜地に水田が作られた緑豊かな環境にあり、鎮座地は前谷川の左岸にあたります。
6月とは思えない強烈な陽射しですが、川や田んぼを吹き抜ける風は心地いい。
写真は鎮座地の大日橋下流から長良川方向の眺め。

大日橋の手前に鎮座する前谷白山神社全景。
境内左に沢山の白い花を付け、恰も雪が積もったようにも見える樹が聳えており、近づくと爽やかな香りが漂っていた。
なんじゃもんじゃの樹に似ていたが、あれから調べて見るも結局分からなかった。

社頭の眺め、県道から一歩入ると石造の明神鳥居があり、右側に白山神社の社標がある。

鳥居から境内の眺め。
社殿は正面の拝殿と奥に一間社流造の本殿、左右に境内社が祀られている他、右側に郡上宝暦義民の一人、助左衛門定次郎の顕彰碑が立てられています。

岐阜県神社庁白山神社解説は以下。
 住所 岐阜県郡上市白鳥町前谷字島反別319番地の2
由緒由来
 養老二年(718)僧泰澄越の白山登山の砌当大字に暫く逗留あり。
折から悪病流行に付き、右病難消除のため当大字小字正ヶ洞白山神社を勧請したりと云ふ。
 嘉永五年(1852)当大字五郎左衛門と云ふ者後刻成就のため当大字字森に山城国稲荷神社を勧請創設したりと云ふ。
大正六年十二月四日右二社を当字に移転合併したり。
 祭礼 8月20日
とある。

こちらの神社も、泰澄が白山開山の際当地に訪れ、当地の病難消除のため阿弥陀ヶ瀧下流の正ヶ洞床並に白山神社を勧請したのがはじまり。
大正6年に集落の島反別に遷宮鎮座し、字森の稲荷社(大鍬社)を合祀。
昭和35年第二室戸台風で本殿を除き下流長良川に流失し、昭和39年に再建されたもの。
社殿を流失させたのは目の前の前谷川の氾濫か、山津波なんだろうか。
現在の社殿は平成17年に再建されたものという。

境内右手の光景。
右手が倉庫で左手に二つの石碑が見える。

郡上宝暦義民の一人、助左衛門定次郎の顕彰碑が立てられています。
上の解説には以下のように解説されています。

「前谷村 定次郎顕彰碑
 郡上宝暦騒動の際、総百姓の若手指導者として切立村喜四郎と共に活躍、駕籠訴(かごそ)五人中の一人。箱訴実行の画策に奔走し、ついにその目的を達成し、宝曆八年十二月二十六日三十一歳の若さで打ち首、翌年正月八幡穀見野に晒し首となった。
 郡上宝暦義民顕彰会 」

下の「郡上八幡穀見ヶ原の刑場跡について」の解説は以下。
「寛文年間(1661)から遠藤、井上、金森、青山の各城主が二百余年の間に亘って領内の罪人を処刑する為の仕置場として使用した所である。
 宝暦年間の農民一揆にあたり、気良村の甚助は城下の店先で突然足軽小頭に捕えられ、徒党の張本人と言うことで牢へつながれた後、罪状の公示もなくその年の十二月十八日の夜七ッ刻(午前四時)にその刑場で打首になったのである。
甚助処刑事件はのちに藩側が幕府の審判に 釈明出来ない過失となり金森家の断絶の一ッの理由となった。
 また、この一揆の首領として前谷村の定次郎、步岐島村の四郎左ェ門、切立村の喜四郎の三名は江戸において処刑され、その首は塩漬にされて郡上まで送り届けられ、穀見ヶ原の処刑場にて曝首にされたのであります。
穀見ヶ原の処刑の跡の石碑の台座になって居る石は 処刑の際、罪人がその上に座り、膝の上に石を抱かせ、 打首をするのに使われたものと伝えられている。」
ここに現れる穀見ヶ原の処刑場は、長良川左岸の八幡町稲成地内の国道左に「穀見野刑場跡」として今も残されています。

手前のには「宝暦の嵐に散り志 若桜義民乃勲 永遠に伝えむ」と刻まれた石碑と奥が定次郎顕彰碑。

顕彰碑から左の本殿域。
手前の手水舎、朱の鳥居は稲荷社、白山神社本殿と続く。

稲荷社。
嘉永5年(1852)に京都伏見神社から勧請、大正6年にこちらに遷したもの。

境内右から見た拝殿。
入母屋鋼板葺の平入で、訪れた時は四方吹き抜けになっていた。

豪雪地帯に建つ拝殿の正面の全景。
大きな屋根を支える柱は平側5間、妻側4間で、四方の壁は全て欄間になっており、炎天下でも風が良く通り涼しく感じます。

拝殿内から本殿方向の眺め。

拝殿左から本殿・稲荷社方向の眺め。

「前谷白山神社の由緒
祭神 伊弉册尊 伊弉諾尊 菊理姫倉稲魂命
 当白山神社の創建は養老二年(西暦七百十八年)に、越前の泰澄大師が白山登拝の時に当地に暫く遠留あり、おりから悪疫流行に付き病難消除の為に、字正ヶ洞床並の鎮守地に白山妙理大権現を勧請し鎮座したのが始まりとされています。
 以来千歳の星霜を氏子中及び石徹白への往来の人々や、白山登拝の道俗衆に崇拝されてきました。
大正六年に集落の字島反別に遷宮鎮座し、また、字森の稲荷社(大銀社)を合祀しました。
 昭和三十五年の第二室戸台風により、拝殿・狛犬・鳥居・力石・立木は流失し境内は一面河原となりましたが、貴いかな妙なるかな本殿、倉庫は流失を免れました。
 境内は整備され拝殿は昭和三十九年に再建されました。
拍大は悲願寺歩危の長良川河原で発見され泰納安置されています。
 近年、本殿の老朽化が激しくなり、氏子中より本殿再建の声が数多あり、建設委員会を結成し再建準備を始めたところ、氏子中及び近卿有縁の多くの方々から浄財をいただき、宿願の本殿が平成十七年六月に完成しました。
ここに神々の和光同塵の霊験を崇め敬慎して記念碑を建てます。 平成十八年八月吉日前谷氏子中 」

稲荷社から見る流造の本殿。

本殿域全景。
鷹の羽紋の入った玉垣の先に一対の狛犬と常夜灯があり、一段上に本殿がある。

本殿域の狛犬、台座には昭和10年とあり、流されたのはこの狛犬と思われます。
彼らが流れ着いた悲願寺は北濃駅の少し上流あたり、ここにも白山神社が鎮座しています。

県道から眺める社殿全景。
炎天下を歩き石徹白を目指す者には拝殿の大きな影や木陰は有難い事だろう。

この境内を河原と化した自然の力は凄まじいものがある。
今、予地できない南海トラフ臨時情報なるものの発表以降、街中のスーパーから特定の商品が姿を消している、神奈川で起きた地震についても、南海トラフとの連動を打ち消すマスコミばかりで、関東大震災震源に今回の震源について言及するメディアは見られなかった。
自然の振舞いは予知できない、マスコミに煽られて過剰に買い溜めする必要はない、備えは日々行うもの。
喜ぶのは便乗して利ザヤを稼ごうとする者くらいだろう。

それにしてもこの白い花を付けるこの樹はなんじゃ、今はこちらの方が知りたい。


前谷 白山神社
創建 /    養老2年(718)、嘉永5年
祭神 /    伊弉冊尊伊弉諾尊菊理姫命、倉稲魂命
境内社 / 稲荷社
祭礼 / 8月20日
所在地 /  ​​​岐阜県郡上市白鳥町前谷319-2​​
長瀧白山神社から前谷白山神社車アクセス / 国道156号線を北進、歩岐島大橋手前から左折、県道314号線を直進、前谷集落まで約5分。​
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