名古屋市名東区一社3丁目
この辺り、親族が居たこともあり50年ほど前のこの地の記憶が残っています
結論から言うと、郊外の山野を造成し急速に宅地開発を進めていた土地柄で未舗装の道も多く
自然が残る田舎
現在は住宅が広がり、ジャンクションの高架が空を覆う、大きく変貌した地域です
東山通りを北に見下ろす、南の高台にある神蔵寺を訪れました
この辺り、親族が居たこともあり50年ほど前のこの地の記憶が残っています
結論から言うと、郊外の山野を造成し急速に宅地開発を進めていた土地柄で未舗装の道も多く
自然が残る田舎
現在は住宅が広がり、ジャンクションの高架が空を覆う、大きく変貌した地域です
東山通りを北に見下ろす、南の高台にある神蔵寺を訪れました
古くは一色村と下社村が統合、一社村となったもので、それが現在の地名一社に受け継がれています
現在は宅地化されたとはいえ、当時の木々が生い茂った丘陵地の面影は残ります
東山通りを一本南に入り、すぐ東に植田川を見下ろす位置し
周囲は石垣で高く積まれた高台の南向きに寺号標と山門を構えています
現在は宅地化されたとはいえ、当時の木々が生い茂った丘陵地の面影は残ります
東山通りを一本南に入り、すぐ東に植田川を見下ろす位置し
周囲は石垣で高く積まれた高台の南向きに寺号標と山門を構えています
古くは一色村と下社村が統合、一社村となったもので、それが現在の地名一社に受け継がれています
現在は宅地化されたとはいえ、当時の木々が生い茂った丘陵地の面影は残ります
東山通りを一本南に入り、すぐ東に植田川を見下ろす位置し
周囲は石垣で高く積まれた高台の南向きに寺号標と山門を構えています
現在は宅地化されたとはいえ、当時の木々が生い茂った丘陵地の面影は残ります
東山通りを一本南に入り、すぐ東に植田川を見下ろす位置し
周囲は石垣で高く積まれた高台の南向きに寺号標と山門を構えています
石段を登りつめるた先に瓦葺の山門と袖塀が続く
その佇まいは山城の趣が感をさせます
戦国時代、見渡す限りの原野と小高い山が続く土地柄、城を築くには絶好のロケーションです
現在の新蔵寺の少し東には一色城(1494~1584年)があり、1501年(文亀元年)に城主の柴田勝重により創建されます
豊臣VS德川の「小牧・長久手の合戦」では、この新蔵寺周辺でも戦があったそうです
その佇まいは山城の趣が感をさせます
戦国時代、見渡す限りの原野と小高い山が続く土地柄、城を築くには絶好のロケーションです
現在の新蔵寺の少し東には一色城(1494~1584年)があり、1501年(文亀元年)に城主の柴田勝重により創建されます
豊臣VS德川の「小牧・長久手の合戦」では、この新蔵寺周辺でも戦があったそうです
山門右に複数の石仏と左に堂があります
境内から山門を振り返る、幟の位置を見ても高低差があり、門から南には住宅街が見下ろせます
境内全景
正面が本堂、左に薬師堂、右に庫裡とつながり、山門左に鐘楼の伽藍
正面が本堂、左に薬師堂、右に庫裡とつながり、山門左に鐘楼の伽藍
本堂全景
空襲、伊勢湾台風等、幾度も災害に見舞われ、1970年(昭和47)に新築、補修が行われ現在に至る様です
空襲、伊勢湾台風等、幾度も災害に見舞われ、1970年(昭和47)に新築、補修が行われ現在に至る様です
境内鐘楼
薬師堂
東海49薬師霊場27番札所となっており、本尊の石仏は33年ごとに本開帳されるそうです
脇侍に日光菩薩と月光菩薩と十二神将を従えた等身大の木造の薬師如来は区内一の大きさで弘法大師作とも云われるそうです
御開帳、次回は??調べてみます
東海49薬師霊場27番札所となっており、本尊の石仏は33年ごとに本開帳されるそうです
脇侍に日光菩薩と月光菩薩と十二神将を従えた等身大の木造の薬師如来は区内一の大きさで弘法大師作とも云われるそうです
御開帳、次回は??調べてみます
薬師堂左に西国三十三観音が一堂に祀られています
境内にある本堂再建碑と創建500周年碑、ここに歴史が刻まれています
龍華山神蔵寺
創建 / 1501年 (文亀元年)
宗派 / 曹洞宗
本尊 / 聖観世音菩薩
住所 / 名古屋市名東区一社3丁目
アクセス / 市営地下鉄東山線「一社」下車徒歩 東へ徒歩10分程
龍華山神蔵寺
創建 / 1501年 (文亀元年)
宗派 / 曹洞宗
本尊 / 聖観世音菩薩
住所 / 名古屋市名東区一社3丁目
アクセス / 市営地下鉄東山線「一社」下車徒歩 東へ徒歩10分程