『八龍神社』

春日井市桜佐町『八龍神社』

f:id:owari-nagoya55:20200616092838j:plain 庄内川が滔々と流れ、堤を隔て周辺には農地と住宅が広がります。
このあたりは釣りやカヌーを漕ぎに昔はよく訪れた場所ですが、眺める景色も若かりし頃とは随分変わったものです。
自然が残る住みやすい環境ですが、穏やかな表情の庄内川もこの時期の大雨では荒々しい表情を見せます。写真は吉根橋下流から密蔵院のある吉根橋方向の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20200616092902j:plain 堤から北を眺めると今も着々と造成が進む光景が広がります。
造成地なので周囲に木々はなく、唯一八龍神社境内の杜だけが島の様に見えています。
熊野町の​熊野神社​から南西方向に徒歩でも​10分程​、街中の住宅地に埋もれた環境ではないので分かりやすい。

f:id:owari-nagoya55:20200616092936j:plain 『八龍神社』はその造成区域に取り残された様に鎮座しています。
神社周辺は工事区域なので現在は車で訪れる事はできません。
現在こんな光景ですが、以前はどうだったのか。

f:id:owari-nagoya55:20200616092958j:plain 右が1947年(昭和22)頃の鎮座地、当時の地図には鳥居の印は見当たりません。
北を流れる内津川と庄内川が合流し、川に挟まれた地域で周囲は見渡す限りの田園風景が広がっています。
印がないから新しいのかとも言い切れません、古くはここから少し下ると渡しがあったとされ、人はそれなりに集まった場所、別の形で古くから龍神さまが祀られていたのかも知れません。

最初に書いておこう、『八龍神社』の沿革は分かりませんでした。

f:id:owari-nagoya55:20200616093022j:plain 造成地の中に取り残された様に鎮座する『八龍神社』。
その外観は鳥居や玉垣、社号標等すべてが新しい。

f:id:owari-nagoya55:20200616093043j:plain 社地の片隅に如意輪観音馬頭観音等の石仏が安置され、写真左奥に庚申塔が纏められています。

f:id:owari-nagoya55:20200616093103j:plain 八龍神社正面全景。
鬱蒼としたものではなく、ご覧の通り風通しも陽当たりも非常にいい。
個人のイメージで、龍神様と聞くとなんとなく木々が生い茂り、薄暗い印象を受けますが、ここは明るい印象を受けます。

f:id:owari-nagoya55:20200616093123j:plain2016年(平成28)に建之された真新しい鳥居と社号標。
鳥居の先に拝殿と周囲を塀で囲まれた本殿域を一望できます、左右に小社が複数あるようです。
神社は目の前の桜佐町とその先の庄内川を向いて鎮座します。

f:id:owari-nagoya55:20200616093143j:plain 拝殿正面全景。
瓦葺の切妻造りで四方は吹き抜け、龍をアピールする飾りや額などは見当たりません。
シンプルで素朴な佇まいです。

f:id:owari-nagoya55:20200616093202j:plain 拝所からは見た本殿域、一対の狛犬が本殿域を守護しています。

f:id:owari-nagoya55:20200616093220j:plain 石の白さが映える鳥居、拝殿も綺麗で新しい、棟札を見ていませんが恐らく同時期に建て替えられた印象を受けます。 

f:id:owari-nagoya55:20200616093241j:plain 拝殿先の本殿域、新たに小高く積まれた石垣、その上に塀や本殿が祀られています。
右手には板宮作りの社が二つ、その後方に複数の石標が建てられています。
その中には1923年(大正12)、1929年(昭和4)の年号が見られます。
1947年(昭和22)の地図では記されていないけれど、祭祀形態は違うにしても、それ以前から桜佐に鎮座していることになります。
桜佐の地名、諸説あるようですが、古くは桜沢と呼ばれていたものが縮まって桜佐となったという説があるようです、1844年(天保15)に編纂された尾張志でも桜佐と記されていました。

f:id:owari-nagoya55:20200616093305j:plain 本殿右の二社を参拝していきます。
こちらは桜佐集落の火伏として祀られた秋葉神社

f:id:owari-nagoya55:20200616093327j:plainその左奥の社は御嶽神社
良くある霊神碑の類をこちらで見かけることはありませんでした。

f:id:owari-nagoya55:20200616093358j:plain 本殿全景。
真新しい石垣、瓦葺の白い塀が周囲を囲っています。
その前を白い狛犬が守護しています。

f:id:owari-nagoya55:20200616093418j:plain 色白の面々、恐らくは再建時に併せて奉納されたものでしょう。

f:id:owari-nagoya55:20200616093438j:plain 玉砂利が敷き詰められた本殿域、中央に神明造りの本殿が見えます。

f:id:owari-nagoya55:20200616093500j:plain 本殿左の小社。
参拝時に社名を確認しメモしたのですが、なくしてしまい忘れてしまいました。
写真から識別できるだろうと甘く考えていましたが大間違いでした。
近くに寄った際にもう一度参拝し、ここに追記とします。

f:id:owari-nagoya55:20200616093522j:plain 本殿の側面に回り込むと5本の鰹木と外削ぎの千木が良くわかります。

f:id:owari-nagoya55:20200616093541j:plain 境内左の保存樹、境内ではひと際目を引く存在です。
天に向かって聳える大きな樹には何かが宿るとも言われます。
目には見えていないがここには桜佐町の田畑を潤し、雷除けの龍神が宿っているのかもしれない。

『八龍神社』
創建 /  不明
祭神 /  不明
境内社 /  秋葉神社御嶽神社、不明社
住所 /   春日井市桜佐町346

関連記事 /  ​熊野神社​  
熊野神社からのアクセス /  南西方向に徒歩でも​10分程
公共交通機関アクセス /  JR中央線「春日井」下車、​徒歩で東へ20分程

上野恩賜公園『五條天神社と花園稲荷神社』

上野恩賜公園の上野山の西にあたり、上野東照宮の南というか上野大佛の南といえばいいのかな、上野山の西垂れの斜面に五條天神社花園稲荷神社が鎮座します。

f:id:owari-nagoya55:20200614083838j:plain 五條天神社花園稲荷神社の南参道は其々の神社の鳥居が左右隣り合わせで建っています。

f:id:owari-nagoya55:20200614083902j:plain 社頭の「賢薬祖神五條天神社」由緒書き
祭神は大己貴命少彦名命、相殿 菅原道真
花園稲荷神社の祭神は倉稲魂命を祀る。
日本武尊が東夷征伐のおりに武蔵忍岡を通りがかり大己貴命少彦名命の二柱を祀った事から始まるといい、それは1890年前に遡る。
相殿に祀られた菅原道真は、1641年(寛永18)に合祀され、歌の道の祖神として俗称下谷天満宮とも云われたようです。
社地は創祀以来、天神山(今の摺鉢山)瀬川屋敷(アメヤ横丁入口)他、幾度か変遷を重ね、1928年(昭和3)に創祀の地に最も近い現在の花園稲荷神社隣りに遷座した。

なので、伽藍の規模を見比べると五條天神社の規模が大きく、花園稲荷神社五條天神社境内社の印象があるけれど、先に鎮座していたのは花園稲荷神社のようです。

f:id:owari-nagoya55:20200614083925j:plain 五條天神社鳥居からの眺め。
石の神明鳥居、よく見ると笠木(鳥居上)と柱の石の色が違うと思います、これは東日本大震災の爪痕です。震災で柱に亀裂が入り、その部分を交換したためにこのように違っています。

鳥居右の彼、マレーシアから一人訪れたと話してくれた。
桜をバックに写真を撮ってほしいと頼まれましたが、その後もずっと桜を見入る彼、綺麗なものに感動するのに国境はないという事です。

f:id:owari-nagoya55:20200614083948j:plain 南参道の鳥居の先の狛犬
骨太のがっしりした体形で、星梅鉢の紋が入った高い台座から鳥居の遥か先を見据えている様に見える。大きくはないけれど頼もしそうだ。

f:id:owari-nagoya55:20200614084012j:plain 七福社
五條天神社境内社で江戸時代には上野の繁栄を願い、上野山の入口各所に祠が祀られたそうです。
七福社もその一つとされています、その名の通り七福神が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20200614084033j:plain 境内右に方型屋根の手水舎。
その頂きには鳳凰が飾られ、屋根を支える柱は八角の柱を八脚に配置し、その中心に蓮の形の手水鉢が置かれています。

f:id:owari-nagoya55:20200614084054j:plain 神楽殿
境内東側にあり、後方は不忍池
手入れされた境内庭園、訪れた2月下旬は丁度梅が見頃を迎えていました。
入母屋銅葺屋根の神楽殿、額には舞殿と記されています。
普段は板扉で囲われていますが、例祭の際は解放され神楽が奉納されるようです。

f:id:owari-nagoya55:20200614084121j:plain 拝殿全景。
入母屋造で銅葺屋根の拝殿、本殿の容姿を捉える事はなかなかできませんでした。
左右の銅製の狛犬が神楽殿を守護しています。
頭の小さく頭身バランスのいいスリムでスタイリッシュな狛犬、そのフォルムは凛々しいものがあります。
賽銭箱には粟穂紋、狛犬などには星梅鉢の紋が見られる。

五條天神社
創建 / 西暦110年頃
祭神 / 大己貴命少彦名命、相殿 菅原道真
住所 / 東京都台東区上野公園4-17

f:id:owari-nagoya55:20200614084148j:plain花園稲荷神社、南参道
五條天神社花園稲荷神社は鳥居こそ分かれていますが、不忍池に向かい傾斜する斜面と並行するように斜面の上が花園稲荷神社境内、その下が五條天神社の境内。
其々の境内は玉垣で区切られているわけではなく石段で二社の境内は繋がっています。

鳥居をくぐると、右手の旧社殿跡に小さな赤い鳥居のある穴稲荷があります。
ここは幕末の上野戦争の舞台となり、1873年(明治6)に周囲が寛永寺の花畑であることから花園稲荷神社と改名され、現在の社殿が整備されたようです。
この参道の先を進むと現社殿へ繋がります。

f:id:owari-nagoya55:20200614084213j:plain 花園稲荷神社参道の穴稲荷の先、額に「神徳惟馨」とあるが、扉が閉じられ詳細は良く分からない。
これは社務所でいいのか?。手水鉢には「盥漱清心魂」とも刻まれています。
特別な御神徳を授かる事ができる、そんな雰囲気を感じさせます。

花園稲荷神社参道は五條天神社の境内より少し上になる事から、この参道からだと五條天神社の本殿が顔を見せます。
外削ぎの千木と鰹木までは見て取れますが鰹木の数、本殿の造までは残念ですが分かりません。

f:id:owari-nagoya55:20200614084239j:plain 花園稲荷神社扁額と拝殿内の眺め、黒っぽい狛狐が守護しています。
御創祀の年月は不祥ですが、古くからこの地に鎮座し、忍岡稲荷が正しい名称という事です。
石窟の上にあった事から俗称、穴稲荷とも云われ、1654年(承応3)、天海大僧正の弟子、本覺院の住僧、晃海僧正が、霊夢に感じ廃絶していたお社を再建し上野の山の守護神としたそうです。

花園稲荷神社
創建 / 不詳
祭神 / 倉稲魂命
住所 / 東京都台東区上野公園4-17

f:id:owari-nagoya55:20200614084306j:plain拝殿から右に進むと小さな石鳥居の先に稲荷鳥居が連なる参道が続きます。
その先は石段となり、それを上ると花園稲荷神社の東鳥居に続きます。
西に向かってこれだけ高低差があり、五條天神社は更に下になります。

f:id:owari-nagoya55:20200614084331j:plain 上野恩賜公園側の花園稲荷神社東参道。
参道口を守護する狛犬は年季が入っているようで、阿形は一部欠損し、容姿も個性的です。

f:id:owari-nagoya55:20200614084355j:plain 花園稲荷神社東鳥居。
社殿は鳥居をくぐり、石段の下になるので上野恩賜公園側から見ると鳥居だけが視界に入ります。

見かけは鳥居だけですが、その先に鎮座する二社は上野の山の守護神ともいえるものです。


公共交通機関アクセス / JR山手線​​上野」下車西に徒歩5分程​ 
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熊野神社 愛知県春日井市

堀ノ内町の神明神社から南西に徒歩15分、町名は変りこのあたりは熊野町になります。
何でしょうね、このあたりの町名の由来はとてもイメージしやすい。
熊野町となれば熊野神社があるの?、期待を裏切る事はなかった。

f:id:owari-nagoya55:20200610090900j:plain本店をはじめ支店や出張所が全国に数千とある熊野神社、さぞかし立派な支店なのだろうと勝手に期待していた、しかし訪れるとそれは過度な期待で出張所的な趣だった。
ここ熊野町には多宝塔で知られる密蔵院もあるが、敢えて熊野と付いたからには何かあるのだろう。
神社は南向きに鳥居を構え、その先に切妻瓦葺の拝殿が見える。

f:id:owari-nagoya55:20200610090926j:plain社号標は社頭右にあり、それには大正と刻まれています、その奥に熊野神社の縁起が建っています。

f:id:owari-nagoya55:20200610090947j:plain熊野神社縁起』
所在 篠木村大字熊野字中間1349番
祭神 速玉男命、伊弉册命、事解男命
例祭日 10月18日
由緒 社伝明らかならず、されど養老2年(718)創建の由言い伝えり。
かくて延長7年(929)社殿を再建し、及び明和5年(1766)11月改築。
明治元年(1867)9月にも社殿の再建が計られた。
宝物 棟札 天和2年丙辰菊月19日 一枚
境内 1145坪
境内神社 伊豆社 祭神 / 火牟須比命、津島社 祭神 / 須佐之男命、白山社 祭神 / 菊理媛命
稲荷社 祭神 / 倉稲魂命神明社 祭神 / 天照大御神、熱田社 祭神 / 熱田大神、富士社 祭神 / 木花之佐久夜毘売命、金刀比羅社 祭神 / 大国主命戸隠神社 祭神 / 天手力雄命、愛宕社 祭神 / 加具槌命

縁起がしっかりと記され、気まぐれに訪れた者にはとても分かりやすい。
慎ましやかな神社の外観から想像できない長い歴史を持つ神社の様です。

f:id:owari-nagoya55:20200610091011j:plain拝殿は切妻瓦葺の四方吹き抜けのこぢんまりしたものです。

f:id:owari-nagoya55:20200610091033j:plain拝殿から本殿。
左右に複数の社が祀られているようです。

f:id:owari-nagoya55:20200610091053j:plain熊野神社と彫られた鬼瓦。

f:id:owari-nagoya55:20200610091115j:plainこぢんまりとした拝殿ですが、妻側に躍動感のある龍の彫飾りが施されています。

f:id:owari-nagoya55:20200610091136j:plain

f:id:owari-nagoya55:20200610091158j:plain拝殿全周に想像上の動物、猪や鼠など彫られています。

f:id:owari-nagoya55:20200610091226j:plain拝殿内から本殿の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20200610091248j:plain苔むした狛犬が守護する本殿域全景。
本殿は銅葺屋根の流造で左右それぞれに2社が並んでいます。
奉納年度が違うのか左右の燈籠は竿の形が違います。

f:id:owari-nagoya55:20200610091313j:plain愛嬌のある狛犬、表情は二タッと笑っているようでもある。

f:id:owari-nagoya55:20200610091336j:plain本殿。
創建 / 718年(養老2)の言い伝え
祭神 / 速玉男命、伊弉册命、事解男命

f:id:owari-nagoya55:20200610091356j:plainパッと見飾り気がないけれどよく見て行くと木鼻や虹梁には龍や獏など飾りが施されています。

f:id:owari-nagoya55:20200610091418j:plain左の二つの社、しっかり社名札が掲げられ悩まなくてすみます。
左の小さな社に愛宕社、戸隠神社、金刀比羅社。
右の社が冨士社、熱田社。

f:id:owari-nagoya55:20200610091442j:plain右の二つの社。
左の社に神明社と稲荷社、右の社に白山社、伊豆社、津島社。

f:id:owari-nagoya55:20200610091506j:plain一番右に小さな石標、初めは石上様かと思っていましたが、随分と時を経て風化していますが、よく見ると地蔵か観音様らしき姿が見える。

由緒にある所在地の篠木村大字熊野字中間旧住所で表記されています。
篠木村はかつての荘園篠木荘からきています、1878年(明治11)近隣の名栗、牛毛、野田の三つの村が合併し、熊野村となったらしく、その際に三つの村の氏神熊野神社から名を取ったようです。
縁起にある1682年(天和2)の棟札が【宝物】と記されているように、古くからこの辺りの人々に受け継がれてきた、その歴史こそ熊野町の宝物なのだろう。
思い描いた立派な趣とは違ったけれど、見た目とかけ離れた強いつながりを感じる熊野神社です。
2020/5/31

熊野神社
創建 / 718年(養老2)の言い伝え
祭神 / 速玉男命、伊弉册命、事解男命
境内社 / 愛宕社、戸隠神社、金刀比羅社、冨士社、熱田社、神明社、稲荷社、白山社、伊豆社、津島社
住所 / 春日井市熊野町1349
公共交通機関アクセス / JR中央線「神領」駅下車南西に徒歩で25分程
関連記事 / 神明神社 密蔵院​ ​高御堂古墳

『高御堂古墳』

高御堂古墳
貴船神社境内から出土した神領銅鐸、その銅鐸を貴船神社に変わり保管するという瑞雲寺から北に徒歩2~3分のところに高御堂公園があります。

f:id:owari-nagoya55:20200608093229j:plain公園北側にこんもり盛り上がって木々が生い茂る一画があります。
緑を残し自然と親しめるいい公園だね、と思っていた。

f:id:owari-nagoya55:20200608093254j:plain公園北側の歩道沿いのフェンスの先に「高御堂古墳」の石標を見付けた。
このこんもりは古墳のようです。
銅鐸ついでにひと回りしてみました。

f:id:owari-nagoya55:20200608093318j:plain公園西側まで来ると春日井市教育委員会の「高御堂古墳」の解説板があった。
それによれば春日井市唯一の前方後円墳だそうな。
その年代は古墳時代(300~700年)に作られ、詳細な年代までは特定できていないようです。
発掘調査から古墳の長さは63㍍で後方の幅が38㍍、高さが約7㍍、前方が幅29㍍高さ約5㍍だったようで、現在の姿は復元されたものらしい。
後方部は3段、前方部は2段の平坦部分があり、そこ壺型の埴輪が置かれていたとされます。
埋葬者や埋葬品は調査されていないので分からないようです。

f:id:owari-nagoya55:20200608093341j:plainこのこんもりは川砂と粘土で盛り上げられ、墳丘斜面に川原石(当然ながら庄内川だろう)を使い葺石として敷き詰めたようで、古墳周囲は溝に囲われていたようです。
解説板あたりから見渡すと奥に向け高くなり、前方後円墳の形状がイメージできます。

f:id:owari-nagoya55:20200608093403j:plain石槨内部は発掘調査がされていないけれど、鏡や玉が埋葬されていると考察されるそうです。
過去を紐解く事業は景気に影響しない、大盤振る舞いの予算もこうした方向にはつかないのだろう。

f:id:owari-nagoya55:20200608093423j:plain後方(東側)に回り込むと周溝の面影を強く留めています。
町名の堀ノ内由来もこうしたところから来ているかもしれません。

気になったのが周辺の「まむしにちゅうい」の看板です。
これを見てしまうと迂闊に近づく気にはなれなくなる、無口な🐍も同じ気持ちだろう。
公園内にこの看板、自然が残っているという事ですが、鉄砲玉の子供達から目を離せないかもしれない。

高御堂古墳
築造時期 / 古墳時代(300~700年)
古墳形式 / 前方後円墳
住所 / ​春日井市堀ノ内町5-11-1(高御堂公園内)
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上野大佛と大佛パゴダ

上野東照宮の参拝を済ませ次の目的地に向かう道すがら、上野恩賜公園の小高い丘に「上野大佛」の案内板が目が止まる。
「大佛」さまと聞くとあの大佛さまを思い描くが、こちらの大佛はそのイメージとはかけ離れたもの。f:id:owari-nagoya55:20200607120826j:plain

公園歩道脇の「上野大佛」の案内板とその先の小高い丘は大仏山と呼ぶそうで、その上に仏塔が建っています。
 

f:id:owari-nagoya55:20200607121037j:plain小高い丘に続く階段を登ると絵馬掛けと祠があり、大仏さまが見えてくる・・・・・そう思い描いていた。見渡してみても仏塔はあれど、それらしきものは見当たらない。

f:id:owari-nagoya55:20200607121058j:plain階段左の祠に視線を向けると、そこには仏様の大きな顔のモニュメントが安置されています。
左に上野大佛とある、これが大佛さまのようだ。
絵馬掛けには「合格大仏」と書かれ、合格を祈願する絵馬が掛けられています。
これだけ多くの願いを叶えなきゃいけない、大仏さまは静かに目を閉じ、優しい表情はしているがさぞかし大変な事だろう。願いが叶った暁はお礼参りもお忘れなく。

それにしても大佛は誇張し過ぎではないかい?
傍らに解説があり、それを読むと何故合格大仏と呼ばれているのか、大佛が誇張ではないことを知ることができる。
 

f:id:owari-nagoya55:20200607121120j:plainそれによれば、発端は1631年(寛永8)に当時の越後の国の村上城主だった堀直寄により、敵味方なく戦乱で亡くなった者の冥福を祈る目的でこの地に粘土を漆喰で固めた釈迦如来像を建てたことから始まる。

漆喰造りの像は1655~60年(明暦~万治)に江戸住民の浄財を基に木食浄雲僧により青銅製の釈迦如来坐像へと改められたそうです。合格大仏の所以の始まりです。
解説によればその高さは6㍍にもなる銅仏で1698年(元禄11)には大仏殿も作られていたという。
その後1841年(天保12)の火災で大仏さま、大仏殿も被災、1843年(天保14)に堀直央が大仏を修復、大仏殿は時の幕府により再建され、その後も天災や火災を繰り返したそうだ。
1873年(明治6)に上野公園造営に伴い大仏殿は解体され大仏は露わになります、そしてあの関東大震災が起きその際に大仏の顔の部分が剥落してしまったようです。
被災した大仏さまは寛永寺で保存され修復の時を待つも時は第二次大戦。
冥福を祈るシンボルは大仏さまの顔以外は全て軍に供出されます、二宮金次郎やお寺から梵鐘が消えた時代です。それら本来の姿から兵器に姿を変えました。
大仏さまの顔は1972年(昭和47)にこの丘に現在の形で安置されるようになった。
幾多の災難、戦禍に巻き込まれながら姿を変え、顔だけになった大仏さま。
「これ以上落ちるところはない」として合格祈願として親しまれるようになったらしい。
 

f:id:owari-nagoya55:20200607121142j:plain感染病で自国第一主義の傾向が少なからずも垣間見られた昨今。
国会のTV中継も減り、痛みを伴わない集団の誰が何を語り、説明もそこそこに、物事進められていく。今の若い衆やその次の世代が迎える世の中を考えると妙に危うさしか感じえない。
大仏さまがこれ以上地に落ちる事無く、穏やかな顔でいつまでもここにいてほしいものだ。

f:id:owari-nagoya55:20200607121203j:plain穏やかな表情の合格大仏、その右に存在感のある仏塔が建っています。
パゴダと呼ばれる仏塔だそうだ、内部に薬師如来、脇侍の左側の月光菩薩、右側の日光菩薩像は旧上野東照宮にあった薬師堂のご本尊とある。
明治政府の発布した神仏分離令により上野東照宮から寛永寺に移管されていたものをパゴダ建立に伴いこちらに安置したものだそうだ。

f:id:owari-nagoya55:20200607121222j:plainこの塔は1923年(大正12)の関東大震災で被災した大仏の跡地を利用し、1967年(昭和42)に上野公園の名所として高さは15㍍のパゴダを建立したもの。
 

f:id:owari-nagoya55:20200607121242j:plainこの内部に旧上野東照宮にあった薬師堂のご本尊薬師如来月光菩薩日光菩薩像が祀られています。
薄暗い内部、正面に薬師如来と脇侍の月光菩薩日光菩薩像を拝むことができます。
この絵、いろいろ加工してみるも姿は現れませんでした。建物は新しいけれど、一見の価値ありです。

2020/2/20

上野大佛
 建立 / 1631年(寛永8)
大佛パゴダ
 建立 / 1967年(昭和42)
本尊 / 薬師瑠璃光如来
脇侍 / 月光菩薩日光菩薩
住所 / 東京都台東区上野公園8
公共交通機関アクセス / JR山手線​​「上野」下車西に徒歩10分程
関連記事 / 上野東照宮

『瑞雲寺』

春日井市神領町1『瑞雲寺』

神領町」この地名、その昔は熱田神宮に仕える神官が暮らす地域、「神の領」から縮まり現在の神領になったとか。特別感満載の地名です。
瑞雲寺は堀ノ内町の「神明神社」に向かう途中、高御堂公園の東にある臨済宗のお寺です。
貴船社境内から出土した銅鐸の一つがこちらで保管されているそうです。

f:id:owari-nagoya55:20200605153342j:plainお寺の敷地はゆとりを感じさせる広く立派な佇まい、東の道路沿いに寺号標が建つ。
そこから眺める伽藍は全体に新しいもので、ひなびたお寺の印象はない。

f:id:owari-nagoya55:20200605153404j:plain 瓦葺の四脚の山門、その左は鐘楼、右が庫裏の様です。
駐車場からスロープが伸び、そこから山門に続いているようです。

f:id:owari-nagoya55:20200605153423j:plain 駐車場の左角に社が祀られています。
左に「熱田皇大神宮」の石碑。
社名札は掲げられていないけれど熱田大神の神札が納められているのだろう。
1986年(昭和61)に改修されたと記されています。

f:id:owari-nagoya55:20200605153443j:plain 山門
こちらも新しい、瓦には五三の桐紋が入ります。

f:id:owari-nagoya55:20200605153503j:plain 山門より境内の眺め。
東海四十九薬師霊場の二十二番札所でもあるようです。
正面は本堂。

f:id:owari-nagoya55:20200605153526j:plain 境内本堂方向の眺め。
左に四脚瓦葺の鐘楼、右手が本堂でその左に小さなお堂が二つあるようです。
外観同様、手入れされた庭は石畳が敷かれた綺麗な庭です。
ところどころにかわいい地蔵や七福神などが置かれています。

f:id:owari-nagoya55:20200605153545j:plain 山門をくぐり、左側を見て下さい。
小さな赤い扉の祠があります、天王社かい?
覗いて見ると中には黒光りした石の男性シンボル(でいいんだろうか)が安置されています。
煩悩まみれのおやじの見立て、違っているかもしれない。
軒下の札に「おさすりさま」とあります、謂れを調べて見るも手掛かりは見つからない。
先端をさすると何かしらの御利益があるようだ。

f:id:owari-nagoya55:20200605153610j:plain 怪しい物体の前に盛砂が盛られ、綺麗に砂紋が描かれています。

f:id:owari-nagoya55:20200605153635j:plain 鐘楼脇の石像群、はっきりしないけれど行者の上に彫られているのは御嶽講のシンボル山丸三かもしれません。

f:id:owari-nagoya55:20200605153658j:plain 盛砂の脇に「瑞雲寺沿革」の碑があります。
弘法大師の頃、仏法盛行となり祠人の一人が仏門に入り僧となったのが寺のはじまりで、西暦765年頃と伝わっています。1438年(永享十)臨済宗妙心寺派僧・雲叔和尚により開山された。
江戸時代は寺領420石を有していた。
尾張長久手の合戦(1584年)で焼失、1625年(寛永2)に大裕休禅師により復興させる。
それも1727年(享保12)に再び焼失するも、翌年13年に再建された。
2002年(平成14)に本堂、庫裡を再建し現在に至る。

420石と云われてもピンとこないけれど、いっこうに届かない10万よりは多そうです。
ざっくり計算で一石(米150kg)、普段買われる10kgの値段で考えると1石が7万前後。
庶民の年間生活費を考えないと分からないけど、結構な寺領です。

f:id:owari-nagoya55:20200605153719j:plain 本堂全景。
入母屋瓦葺、大棟には山号の「龍光山」が施され、ここにも五三の桐紋が施されています。

f:id:owari-nagoya55:20200605153741j:plain 本堂から庫裏方向を眺める。
本堂の額には「瑞雲禅寺」とある、当日は法要があるようで、気になる銅鐸や本堂内など拝観させて頂くのは控えた事もあり銅鐸の所在は分からずです。
瑞雲寺HP(https://zuiunji.com/)で銅鐸ペーパークラフトなるものがシェアされていました。
これでも作ってイメージを膨らませるか。

f:id:owari-nagoya55:20200605153804j:plain 本堂左に小さな堂。

f:id:owari-nagoya55:20200605153828j:plain 額に記されているのは「梅きょう?」と読むのか?、意味は・・・・・分からない。
内部には不動明王、弘法様が祀られていますが、中央の一刀彫の仏像群が気になる。

f:id:owari-nagoya55:20200605153850j:plain
 本堂南の四脚瓦葺の入母屋の鐘楼と梵鐘。

f:id:owari-nagoya55:20200605153912j:plain 墓地入口の方型の堂、内部には鬼の面や不動様、観音様、狸なとが所狭しと安置されています。

f:id:owari-nagoya55:20200605153937j:plain 上
境内の観音菩薩
下は清心行者碑
御嶽信仰の覚明系の清心講(心願講)の始祖、清心行者を称えたものなのでしょう。

f:id:owari-nagoya55:20200605153958j:plain 境内西側に四国巡礼記念に安置されたものでしょう、千手観音、如意輪観音など石仏が安置されています。

貴船神社の「神領銅鐸」お目にかかる事は出来ませんでした。

瑞雲寺
宗派 / 臨済宗妙心寺派 
山号 / 龍光山
開創 / 1429年(永享元)
本尊 / 薬師如来
住所 / 春日井市神領町1-11-4
公共交通機関アクセス / JR中央線「神領」駅から徒歩15分
貴船神社から徒歩アクセス /  ​ 西へ徒歩5分程
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上野東照宮

COVID-19の影が見え始めた2020年2月20.21日、悩んだ末に東京遠征に出かけた。
あれから随分時間も経過し訳も分からなかった頃に比べ付き合い方も分かってきたような。

ずっと控えてきたけれど、今更感満載ですが東京の写真を纏める事にします。

f:id:owari-nagoya55:20200604070243j:plainJR上野駅、出張の時には良く降りた駅、そうした時はつい〃人込みが嫌いなこともあり、出不精になり何処に行っても全く周辺散策せずさっさと名古屋に戻ってきていた。
今回は観光という事でまさにお上りさん、かみさんにお任せだ。

f:id:owari-nagoya55:20200604070310j:plain 目指すはキンキンキラキラの上野東照宮(赤丸)へ拝みに行きます。

f:id:owari-nagoya55:20200604070330j:plain 上野駅の西が上野東照宮が鎮座する上野恩賜公園
チラホラ咲き始めた桜、本来の上野公園はきっと春を待ちわびた人が集う場所。
今年は異様な光景、歩道沿いは規制線が貼られ例年とは違う様相を見せていた。

f:id:owari-nagoya55:20200604070353j:plain 公園に入るとすぐ左手に「おばけ燈籠」が見えてくる。
佐久間勝之が1631年(寛永8)に創建後間もない東照宮に寄進したもの。
その大きさは高さ約6㍍、燈籠の上にある笠石は周囲3.6㍍とまさにお化け灯籠と呼ぶに相応しいもの。
勝之が寄進した南禅寺熱田神宮の大灯篭と共に「日本三大燈籠」に数えられるそうだ。
ここで忖度しておけば悪い方には転がらないか、この先数えきれないほどの燈籠が現れます。

f:id:owari-nagoya55:20200604070416j:plain「石大鳥居」
西尾市出身の酒井忠世が1633年(寛永10)に奉納したもので、備前御影石が使用され、関東大震災でも傾く事のない程の精度で施工された。
鳥居の先に見えるのは「水舎門」。

f:id:owari-nagoya55:20200604070448j:plain「水舎門」
四脚の切妻の門はどことなく手水舎の上屋に見えますが、元は1651年(慶安4)、東照宮の造営奉行の阿部重次が奉納した手水舎そのもので、現在社殿の右にある手水舎の上屋だけを1964年(昭和34)に門として移築したようです。

f:id:owari-nagoya55:20200604070517j:plain

f:id:owari-nagoya55:20200604070531j:plain 「水舎門」
軒下や内部の斗組は手水舎の上屋には見えないほど手が掛けられています。
天井の垂木には無数の千社札が貼られています、過去のものなのか定かではないけれど、貼っていいものなのか?

f:id:owari-nagoya55:20200604073225j:plain水舎門から先の参道には燈籠が立ち並ぶ。年号を見ていたら進めなくなります。 
燈籠の数は200基以上あるとも云われるようですが、大半は今の社殿が建築された1651年(慶安4年)頃の全国の大名から奉納されたものだという。
参道右手に重要文化財の旧寛永寺五重塔が聳える。
建立は1631年(寛永8)で焼失により1639年(寛永16)に再建されたもの、相輪までの高さは約36㍍という木造建築。

f:id:owari-nagoya55:20200604073323j:plain 正面に金ぴかの唐門と社殿が見える。
唐門と社殿は恰も一体になって見える。

f:id:owari-nagoya55:20200604073347j:plainこの時期(2月)境内にはソメイヨシノに先立ちピンク色も艶やかな河津桜が彩りを与えてくれる。

f:id:owari-nagoya55:20200604073410j:plain 参道右の「神楽殿
入母屋造りの三面吹き抜けで1874年(明治7)に建立されたものと云われ、お花見の頃には神楽が奉納される。

f:id:owari-nagoya55:20200604073433j:plain 手水舎は参道右と左に二つ、上は左の手水舎。

f:id:owari-nagoya55:20200604073502j:plain 右の手水舎。
この上屋が水舎門として移築されという、手水鉢に清水は張られていなかったけれど、上から吊るされた巨大な鈴に視線が行く。この先の立派な狛犬を作った酒井八右衛門が寄贈したものというけれど、なぜ鈴だったのか謂れはよく分かりません。

f:id:owari-nagoya55:20200604073531j:plain1914年(大正3)に建立された酒井八右衛門作の狛犬
胸板は厚く、頭は小さめで胸を突き出した容姿は個人的には好きな。

f:id:owari-nagoya55:20200604073555j:plain 上
振り返ると狛犬の先に東京スカイツリーが望める。

唐門右に銅燈籠が連なる、その数は50基、各地方大名より奉納されたもので、竿には奉納者、官職名、奉納年、虎など彫られていて、同じ様に見えるけれど宝珠や火袋など其々特徴のあるものです。
見て行くだけでも面白い。重要文化財

f:id:owari-nagoya55:20200604073657j:plain

f:id:owari-nagoya55:20200604073718j:plain

 唐門両側の銅燈籠は、内側より紀伊、水戸、尾張徳川御三家より寄進されたものです。
手前の銅燈籠群に対し一段と手の込んだ作りが施されています。

f:id:owari-nagoya55:20200604073808j:plain「唐門」
唐破風付きの四脚門、1651年(慶安4)の造営で重要文化財に指定される煌びやかな門。
柱内外の四額面には左甚五郎の手による昇り龍、降り龍の彫が施されています。
この龍は毎夜〃不忍池の水を飲みに蠢くという言い伝えが残ります、それ程の仕上がりという事です。
下を向いている方が昇り龍と呼ばれます。

間違いを認め謝罪の行動すらできないどこぞの人達、賢い人ほど頭を垂れるものです、原稿を読むだけに下を向くのとは訳が違う、少しは見習ったらどうだろう。

f:id:owari-nagoya55:20200604073842j:plain 破風の下には錦鶏、銀鶏鳥の手の込んだ透彫が施され、色彩も鮮やかで美しい。
装飾は木鼻、蟇股等に留まることなく細部まで施されています。
単に黄金色に輝く色合いだけではありません。
創建当時の匠の技を集大成したのが上野東照宮なのかも知れません。

f:id:owari-nagoya55:20200604073910j:plain 唐門の左の御神木。
樹齢600年以上と云われる枝振りが見事な楠木。
幹の太さは8m以上、高さは25㍍を超すとされ、上野公園にあって最大とされ、上野の祖木といわれる御神木です。
上野東照宮が建立される以前からこの地に根を降ろし、この地を見続けている大樹。
まだまだ衰える事無く聳えています。

f:id:owari-nagoya55:20200604073946j:plain 御神木から透塀沿いに石畳を奥に向かいます。
社殿を取り囲む様に「透塀」が施され、菱形の格子の先に社殿が見通せます。
塀の上側には緻密に描かれた植物や動物、下側に海や川の動物が刻まれ、その数は両面で200枚を上回目るともいわれます。 全てが色鮮やかに彩色されています。
それもそのはず平成21年~25年にかけ保存修復工事が行われ、金箔で覆った後でその上から岩絵の具で彩色が施されているそうです。
この透塀も1651年(慶安4)の建立のもので、国の重要文化財に指定されています。 

f:id:owari-nagoya55:20200604074011j:plain 透塀の先に赤い鳥居、その先の社は「栄誉権現社」
親しみを込め御狸様とも呼ばれ、江戸時代に大奥などに安置され先々で災いをもたらしたとされ、 大正に入り上野東照宮に寄贈以降は災いがなくなったといわれます。
「悪行狸他を抜く」という縁起の良さから、強運開祖、受験、就職、必勝にご利益があるとされ、受験シーズンになると合格祈願に訪れる受験生で賑わうそうです。縁起のいい日は5の日だそうです。

f:id:owari-nagoya55:20200604074036j:plain 社全景、内部に照明で照らされ、上を見上げた姿の狸が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20200604074102j:plain 透塀沿いの扉が開けられ、石段から社殿域に入ります。
今年の干支「子」の彫飾りへ導く案内板、それに導かれる様に左に進むことにします。

f:id:owari-nagoya55:20200604074127j:plainとはいえ、目の前に遮るもののない黄金色の社殿が現れる、どうしてもそちらに視線は釘付けとなります。
権現造の金ぴかの社殿、左のこの部分が本殿で、右に幣殿、拝殿と連なります。
1651年(慶安4)造営のもので、国の重要文化財に指定されています、こうして見てくると上野東照宮は戦災や震災の難を免れて今があるようです。
戦時中の空襲で近くに爆弾が投下されたそうですが、不発に終わり難を逃れたとも。
何かを持っているのかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20200604074152j:plain

f:id:owari-nagoya55:20200604074225j:plain
上野東照宮は1627年(寛永4)に上野公園に創建された神社で、徳川家康(東照大権現)を神様として祀った神社。
良く知られる日光や久能山東照宮以外にも全国各地に数多く東照宮があります。
天下統一を成し遂げ長きにわたる江戸幕府の生みの親家康にちなみ、出世、勝利、健康長寿に御利益があるとされ信仰されているという。
訪れた者の目を奪う金ピカの社殿は豪華そのもの、江戸初期の建築として国の重要文化財に指定されるのも当然の事でしょう。
始まりは1616年(元和2)、危篤の徳川家康の枕元に天海僧正藤堂高虎が呼ばれ、「三人一つ処に末永く魂鎮まるところを作って欲しい」と家康から遺言を伝えられたとされ、天海僧正藤堂高虎らの屋敷地であった現在の上野公園の敷地に東叡山寛永寺を開山した事から始まります。
境内の多くの伽藍や子院に加え、1627年(寛永4)に創建した神社「東照社」が上野東照宮の起源とされます。
現在の社殿は1651年(慶安4)に三代将軍の徳川家光が造営替えをしたもので、当時容易に日光までお参りに行くことができない江戸の人々に日光東照宮に準じた豪華な社殿を建立したものと言われています。
参道に立ち並ぶ燈籠はこの造営替えの時に各大名が競って寄贈したもの。
御祭神 / 徳川家康徳川吉宗徳川慶喜

f:id:owari-nagoya55:20200604074314j:plain 透塀に戻り今年の干支を探しに行く、ここまで親切に表示されると探す手間もありません。
透かし彫りのアケビ?の実を背景に、今年の干支の子はすぐに見つけられます。
保存修復工事のおかげで鮮やかな色彩の生き生きした子の姿を見ることができます。

f:id:owari-nagoya55:20200604074342j:plain 社殿域の透塀。
下段にもびっしりと彫が施されています。

f:id:owari-nagoya55:20200604074452j:plain 参道からは唐門と一体となって見えていた拝殿全景。
金色殿とも呼ばれるように黄金色に輝いています。

f:id:owari-nagoya55:20200604074516j:plain 社殿外壁はこれでもかと云わんばかりに豪華な彫刻と彩色が施されている。
家康の遺言に「遺体は駿河久能山に葬り、江戸の増上寺で葬儀を行い、三河大樹寺に位牌を納め、一周忌が過ぎて後、下野の日光山に「小堂」を建て勧請せよ、関八州の鎮守になろう」とあるけれど、日光東照宮はじめキンピカ派手派手の東照宮のイメージはきっと家康の趣味ではないのか知れない。

f:id:owari-nagoya55:20200604074539j:plain 拝殿の彫飾り、鷹も、鳩も、鶴もいる、想像の生きもの鳳凰もいる。
葵の紋もキンピカですね。

f:id:owari-nagoya55:20200604074610j:plain 社殿域から唐門の眺め、こうして見ると四脚なのがよく分かる。

f:id:owari-nagoya55:20200604074644j:plain 内側の透彫に太鼓の周りに尾長鶏のような姿が彫られていますが、諫鼓鳥と呼ぶらしい。
中国の故事に由来し、皇帝が朝廷の門前に太鼓を置き、 政治に誤りがある時は人民にそれを打たせ訴えを聞こうとしたという。
それも善政のため打たれることは無かったことから、「太鼓に鶏が住みつくほど」と言う話に倣い、 天下泰平の願いを込めて彫られたとも云われているそうです。

マスクの方の官邸前に太鼓が置かれたとしたら、鳴り止む事はないのかも?

f:id:owari-nagoya55:20200604074708j:plain豪華絢爛な社殿、その出口に朽ちた1本の木がある、「きささげの木」、社殿の雷除けとして植えられたものらしいが、樹齢は350年以上。
その樹皮は梓白皮と呼ばれ生薬としても使われるそうです。
災いから守られてきたその立役者は意外にこの樹のおかげなのかも。

f:id:owari-nagoya55:20200604074733j:plain 上野東照宮
創建 / 1627年(寛永4)
御祭神 / 徳川家康徳川吉宗徳川慶喜
境内社 / 栄誉権現社
住所 / 東京都台東区上野公園9-88
公共交通機関アクセス / JR山手線​「上野」下車西に徒歩10分程​ 
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