宮本武蔵の遺品や菅原道真の自画像を所蔵する「笠寺天満宮東光院」

笠寺観音として馴染みのある天林山笠覆寺(りゅうふくじ)。
仁王門前を東西に延びる旧東海道を横切り、正面の細い路地を2~3分ほど南へ歩いて行きます。
やがて左側に石垣で一段高く盛られ、濃い緑に包まれた一画が笠寺天満宮東光院
通りの白い幟がなければ、寺の存在は分かり難いかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20210830104105j:plain通りから北を見ています。
真正面に笠寺観音仁王門、左手前が秋葉神社
今回の目的地東光院は右側の白い幟の立つ一画。
この道、道幅が狭く対面通行なので幅寄せや、進路を譲るのが苦手な向きにはお勧めしません。
駐車場は寺の北方向の少し離れたところにあります。

f:id:owari-nagoya55:20210830104125j:plain上は尾張名所図会から天林山笠覆寺の絵図に手を加えて見たもの。
左が笠覆寺で右の黄色の丸部分が笠寺天満宮東光院にあたり、東光院の右下の水色が仁王池。
こうして見ると東光院の通りが門前通りの様に見えてくる、そして仁王池(現在はない)の名も意味あり気だ。
東光院が鎮座する当たりの現在の町名は上新町ですが、秋葉神社のあたりは大門に変わり、仁王と大門のワードからこの辺りに以前は門が存在していたのかも知れない。
茶色に塗った街道沿いには笠覆寺塔頭寺院や宿坊が建ちならぶ。

笠覆寺の始まりは733年(天平5)の天林山小松寺から始まり、幾度も盛衰を繰り返し、930年(延長8)藤原兼平が再建、36坊をつくり名を笠覆寺と改めた。東光院笠覆寺の坊の一つとして創建されています。
笠覆寺はその後も盛衰を重ね、1238年(嘉禎4)に12坊を再興、江戸期には6坊となり、明治に入り独立した寺院として現在に至っている。
神仏習合の名残が色濃く残り、目的の笠寺天満宮東光院の本堂(庫裏)左に鎮座しています。

f:id:owari-nagoya55:20210830104146j:plain東光院山門全景。
出世神酒天満宮書かれた幟が目立つ。
山門をくぐり、まっすく進むと方丈に至ります。

f:id:owari-nagoya55:20210830104208j:plain東光院山号を天林山と称し真言宗智山派の寺院で、不動明王を本尊とします。
創建は定かではありませんが、笠覆寺塔頭寺院という事からかなりの古刹。

f:id:owari-nagoya55:20210830104224j:plain

山門右の袖壁に案内板。
笠覆寺塔頭として創立され1536年(天文5)に再興され今日に至る。
本尊の不動明王伝教大師の作と伝えられ、元々は紀州熊野新宮の本尊。
縁あって1651年(慶安3)に東光院本尊として伝来、厄除け満願不動として崇敬される。
境内に一堂あり、往古当地寺部の城主山口半左エ門所蔵されていたが、豊臣秀吉より東光院に授かる。
お酒を供えると顔面紅くなる言い伝えから「出世神酒天神」として信仰が厚く、尾張徳川家代々崇敬特に厚く、葵紋の御札筥等を寄付されている。
近年学問の神さまとして、学業上達・入試合格祈願の参詣が多い。
また、宮本武蔵が当寺に一時滞在、天満宮に帰依する遺品が現存する、その為、武士道上達・技術上達祈願のご利益多し。
他に源範頼の由緒あり」

範頼の由緒とは
源頼朝の父義朝と平家との戦い「平治の乱」で負け戦となり、義朝は討たれ、頼朝は伊豆國に流されます。戦に参戦しなかった範頼は縁故を辿って一時東光院に隠れ住んでいたとされる。

f:id:owari-nagoya55:20210830104249j:plain東光院が所蔵する宮本武蔵の遺品とは「宮本武蔵自筆の書」、「武蔵画像」、「自作木刀」が所蔵されているようですが現在は一般公開されていないようです。
公開されていないと逆に調べたいもの、「​南区と宮本武蔵のかかわり​」で画像付きで紹介されていました。

f:id:owari-nagoya55:20210830104316j:plain山門をくぐり左に参道が続きその先に見える寄棟の堂が「笠寺天満宮
堂の右に見えている建物は東光院本堂で更に右に方丈。

f:id:owari-nagoya55:20210830104334j:plain参道左に手水鉢
自信はないけれど元号天保と刻まれている様に見えます。

f:id:owari-nagoya55:20210830104350j:plain笠寺天満宮全景
笠寺天満宮の建立年代は定かではない、菅原道真自筆の肖像画を所蔵するとされる。
由緒に星崎城(現在の笠寺小学校)城主、山口半左衛門重勝が所蔵していたものが秀吉、そして東光院に授かるとあるので、創建は室町後期から安土桃山時代なのだろう。

堂の外観はシックな色合いで落ち着いた佇まいをしている、細部の劣化、特に縁などに随分傷みが来ている。

f:id:owari-nagoya55:20210830104412j:plain笠寺天満宮
後方が東光院本堂。

f:id:owari-nagoya55:20210830104428j:plain堂に掲げられた額は「天満宮」とある、額の形がひょうたんに見えなくもない。

f:id:owari-nagoya55:20210830104452j:plain堂内、中央に「天満宮」の額が掛けられ、金色の厨子豊臣秀吉から授かった菅原道真肖像画「出世お神酒天神」を所蔵するようで、厨子の前には小さな狛犬(獅子?)が安置されている。
左には弘法大師の姿もある。

f:id:owari-nagoya55:20210830104509j:plain堂の右に石標がありますが文字は読めませんでした。

f:id:owari-nagoya55:20210830104525j:plain左が笠寺天満宮社標(昭和3年健之) 。
右は山門から真っすぐ参道を進んだ先に立つ石標(詳細不明)。

f:id:owari-nagoya55:20210830104545j:plain本堂左と方丈入口。
参拝時の境内は樹々に包まれ建物の全景は捉えにくい状態でした。
恐らく切妻のようで、南区の案内には江戸中期(1650年頃~1750年)の建立とあった。
こちらに範頼や武蔵が身を寄せた。

f:id:owari-nagoya55:20210830104605j:plain寺号標は昭和9年と健之とあった。
寺町の名残を感じる細い通り、今や住宅が立ち並び絵図の面影は皆無です。
こんもりとした緑に包まれた一画だけは別世界のようにも感じる。

通りに戻れば強烈な日差しと暑さが襲ってくる、目の前の秋葉神社を参拝して引き揚げよう。
2021/8/27

東光院
山号 / 天林山
宗派 / 真言宗智山派
創建 / 不明
本尊 / 不動明王

笠寺天満宮
創建 / 不明
祭神 / 管原道真
所在地 / 名古屋市南区笠寺町上新町47
公共交通機関アクセス / 名鉄名古屋本線「本笠寺」降車、東へ徒歩10分程
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戸隠神告げ温泉 湯行館

戸隠神告げ温泉 湯行館
キャンプしがてら二泊三日で戸隠神社五社巡りの際、滞在中にお世話になった日帰り入浴施設。
 

f:id:owari-nagoya55:20210826195736j:plain

「戸隠神告げ温泉 湯行館」全景

戸隠中社の「蕎麦処うずら家」から車で数分、徒歩でも10分程の距離にあります。
戸隠スキー場中社ゲレンデの麓にありスキーシーズンのアフタースキーには最高かもしれない。
この時期だと神社参拝や登山の帰りなど疲れを癒すには絶好。
駐車場もこれでもかと云わんばかりの広さがある。
 

f:id:owari-nagoya55:20210826195803j:plain入口左側にマスコットのほっかいどう犬の「おたる」
CMのおとうさんと同じ犬種。
この子、とてもおとなしく、見知らぬ者が前を通っても全く動じることなく籠の中で眠っている。
えっ、立ってるやんと思いますよね。
これ、こちらの店主がたった丁度戻られ、ご主人のお出迎えのタイミング。
北海道犬は狩猟犬、我家でも過去にはハスキーなどを飼っていたけれど、狩猟や作業などを目的とした犬種は肝が据わっていて、うまく躾ができるととても飼い主には従順、それ以外の事には動じない(なかった)。
犬は飼い主の足音が分る、それまで丸くなって寝ていたものが、おたるの様にむくっと起き上がり遠吠えをして迎えてくれる。
山に行ってもそうだった、戻ってくるまでじっと待っていたもんだ。そうした相棒に訪れる別れは辛すぎる。
おたるは体格から見て若いけれど、いい育ち方をしているようだ。
 

f:id:owari-nagoya55:20210826195829j:plain館内に入ると、これまた親父をくすぐるアイテムがさり気無く「さわらないで」の看板と共に置いてある。懐かしのモンキー(復刻版)、以下店主の了解を得て撮らしていただいた。
館内には昭和生まれにはたまらないコレクションが飾ってある、全てオーナーの趣味。
 

f:id:owari-nagoya55:20210826195853j:plain入って正面のくつろぎスペース。
館内には食事処もあり、地粉十割の手打ちそばが食べられる食事処「安兵衛」もあります。
 

f:id:owari-nagoya55:20210826195914j:plain入って左に進むとお風呂に続く、その通路にも懐かしいフィギア(マジンガーZ)や車の写真(ケンメリGTR)などが陳列してあったりとこの時代を知る物にはたまらない。
オーナーはジープを乗り継いでいるようで四駆の話も盛り上がりそうです。
その他にも古い清涼飲料のポスターなどがそこかしこに貼ってある。
銭湯というよりプチ昭和博物館。
 

f:id:owari-nagoya55:20210826195938j:plain本題の風呂へ。
ロッカーは有料、先客一名。
最近入浴施設に行って、マスクを外すのを忘れることがよくある。
ボケが始まっている事は全く否定しないけれど、このマスク着用習慣はいつになれば解除されるのだろう。
 

f:id:owari-nagoya55:20210826200002j:plain脱衣所もそうですが、施設は比較的新しく綺麗に保たれています。
 

f:id:owari-nagoya55:20210826200029j:plain内湯。ここからは撮影自粛。
こちらは内湯ひとつのみですが湯船も広く、ガラス窓の外には戸隠の木々か眺められ解放感がある。
 

f:id:owari-nagoya55:20210826200055j:plain泉質は無色透明でいかにも温泉を主張する香りは感じられなかったけれど、その湯は肌がすべすべになり若返った気になる。湯温も長湯が可能な温度。
効能は神経痛、関節痛、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、慢性消化器病、痔症、冷え性などに効能がある単純泉
長時間のドライブ、神社巡りにテント設営、一日の疲れが癒され長湯にもなる。
窓から見える木々は今は緑が鮮やかですが、秋に訪れると紅葉が綺麗かもしれない。
すっかりリラックスし、湯上りのビールはテントに戻ってからだ。
晩御飯と酒盛りの準備せねば。
神告げ温泉、名の由来を聞こうとして忘れてしまった、ボケは全く否定しない。

戸隠神告げ温泉 湯行館
所在地 /  ​長野市戸隠3182
☎026-254-1126 
営業時間 10:00~20:00 (食事処10:00〜17:30)
料金 /  大人600円、3歳~小学生以下300円
定休日 /  年中無休
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名古屋市南区 『白水神社』

名古屋市南区白水町「白水神社」

f:id:owari-nagoya55:20210826112627j:plain上の地図、左は1938年(昭和13)頃の当地で周囲は現在ほど宅地整備が進んでいない。
この辺りは二つの河川に挟まれ、新田開発により陸地を海に広げて誕生した町。
当時はまだ西に少し行けば海岸線で大江川や天白川の河口も近く付近には貯木場も身近にあった。 
この地が急速に変貌を遂げる要因になったのは、1937年(昭和12)大同特殊鋼星崎工場の誕生と共に始まったと云っても過言ではない。
当時はまだ南区鳴尾町の一部で現在の白水町に変更になったのが1948年(昭和23)だという。

f:id:owari-nagoya55:20210826112652j:plain白水神社から南の大同病院方向の眺め、その前を左右に伸びるのが県道36号線、ここから少し東には南北に国道247号線が伸びている。
渋滞の要因だった名鉄常滑線も高架となり随分と道路事情が良くなり、新しい住宅も目立ち街並みも変わってきた。

f:id:owari-nagoya55:20210826112712j:plain白水町の名の由来は当時この辺りには、きれいな用水や小川が流れていたことに由来するという。
なんとも綺麗な町名だこと、そんな白水町は過去に大きな災害に見舞われ多くの人命が失われています。
1959年(昭和34)9月26日にこの地域を襲った台風15号、全国に死者・行方不明者5098名出す大災害を引き起こし、「伊勢湾台風」と呼ばれています。

台風の被害が特に激しかった南区白水地区では、死者・行方不明者1417人の方々が犠牲となり、その大きな引き金になったのは高潮により貯木場の木々が流され被害を拡大させた。

現在の街並みや強固な河川堤防から、そうした事は想像もできないかもしれませんが、それを語り継ぐ慰霊碑や海抜標識が目に留まります。
この白水町辺りでは海抜がマイナスの所も存在する。
白水町となり住居も住民も増えるにつれ、地域の守り神として迎えたのが白水神社。
伊勢湾台風では神社も当然被災しているはずです。

f:id:owari-nagoya55:20210826112733j:plain上は白水町周辺のハザードマップ、赤丸で囲った部分が白水神社周辺、周囲に比べ水が集まる地域。
当時に比べ強固な堤防や揚水施設も充実し環境は改善されているとは言え、近頃の気象は明らかに異常。
こうしたハザードマップに目を通しても損はない。

f:id:owari-nagoya55:20210826112752j:plain白水神社は大同病院から県道36号線を挟んだ北側の住宅街の中に鎮座します。
この広場、遊具等見当たらないけれど「白住どんぐりひろば」という事です。
柵に囲われた広場の西部分の一部を更に囲って本殿が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20210826112811j:plain白住どんぐりひろば北側から白水神社の眺め。
境内へはこの北側から入る事になります。

f:id:owari-nagoya55:20210826112831j:plain西を背に板宮造りの本殿が鎮座し、左右に常夜灯はあるものの、狛犬や社標、由緒等の案内し見当たりません。

f:id:owari-nagoya55:20210826112851j:plain小さな神門の先に白水神社本殿。
本殿と木製の常夜灯、その前の小さな神門が良く合っている。

f:id:owari-nagoya55:20210826112911j:plain参拝は終えたものの、どなたが祀られているのかが分かっていない。
新たな町の神様と考えれば、秋葉社か熱田社、或いは津島社あたりかと思いますが、社名札、御神札が見えないのではっきりできない。

f:id:owari-nagoya55:20210826112929j:plain本殿。
木鼻には象、蟇股には龍の彫が施されている。

f:id:owari-nagoya55:20210826113004j:plainどんぐり広場南側から見る本殿に朝陽が差し込む。

過去に絶望的な自然災害を経験した白水町。
ここに人々が寄り添い発展を続ける限り、心の拠り所として神様は絶えることはない。
2021/08/22

白水神社
創建 / 不明
祭神 / 不明
所在地 / ​名古屋市南区白水町36-196  
公共交通機関アクセス / 名鉄常滑線「柴田」駅から北へ徒歩10分程

「佐屋護国神社・佐屋神社」愛西市須依町

「佐屋護国神社・佐屋神社」
愛西市中央図書館の区画西側に鎮座する、この近隣には愛西市役所、文化会館などの施設が集約され、愛西市の中心といっても過言ではない。

f:id:owari-nagoya55:20210824175900j:plain車の場合は愛西市中央図書館の駐車場に駐車させてもらうのが良いかもしれない。
図書館の西には公園やトイレもある。
写真は駐車場から西の眺め、広々とした公園には遊具もあり子供達の絶好の遊び場かも知れない。

f:id:owari-nagoya55:20210824175932j:plain佐屋護国神社・佐屋神社へは公園南から境内に繋がっていて、そのまま突き抜けると神社西側の正参道に続いています。
ここから改めて境内へ。

f:id:owari-nagoya55:20210824180201j:plain南側から境内の眺め。
左に「佐屋護国神社」、右に「佐屋神社」の社標。
その先に狛犬が守護し神明鳥居、本殿が望める。
境内は一面玉砂利が敷き詰められ、陽光が降り注ぐ明るい境内です。

指定護国神社と、村社に相当する指定外護国神社に分けられる

f:id:owari-nagoya55:20210824180228j:plain護国神社はそれまで、招魂社として地域の英霊を祀っていたものを、1939年(昭和14)に施行された「招魂社ヲ護國神社ト改称スルノ件」(昭和14年内務省令)によって、招魂社から護国神社に改称して成立した神社。
指定護国神社と、村社に相当する指定外護国神社に分けられるそうで、原則各県に指定護国神社は一社で
愛知縣護國神社(名古屋市中区三の丸)がそれにあたります。
広義では国の為に、狭義では間違いなく故郷であり家族の為だったと思う。
ここはそうして亡くなられた多くの郷土の英霊が鎮まる場所。

f:id:owari-nagoya55:20210824180254j:plain鳥居前の狛犬
台座には1938年(昭和13)とある。

f:id:owari-nagoya55:20210824180316j:plain境内全景、真っすぐに伸びる参道の先に本殿。
本殿手前の左右には複数の石標が建つ。

f:id:owari-nagoya55:20210824180339j:plain参道左の手水鉢。

f:id:owari-nagoya55:20210824180400j:plain本殿全景。
手前に狛犬が守護し、一段高く積まれたその上に流造の本殿が建つ。

f:id:owari-nagoya55:20210824180423j:plain本殿手前の狛犬

f:id:owari-nagoya55:20210824180445j:plain五本の鰹木と外削ぎの千木が付く。
参拝。

f:id:owari-nagoya55:20210824180509j:plain本殿西からの眺め、流造の拝殿と後方右の尖がり屋根は愛西市中央図書館。
こちらの神社の由緒は分からなかった。
境内の鳥居や社標、狛犬などの奉納時期は1938年(昭和13)。
この年代以外の年号は見つけられなかった。

f:id:owari-nagoya55:20210824180531j:plain以前から招魂社として鎮座していたものが、省令により新たに創建されたものなのか分からなかった。

f:id:owari-nagoya55:20210824180552j:plain少し前の地図を見て見る。
不思議な事に右のほぼ現在の地図には鳥居が無いが、左の地図には1944年以降鳥居の印が現れる。
それ以前は周囲が田園地帯で鳥居の姿すら記されていない。
佐屋神社として地図上から創建に繋がるものは確認できなかった。
明るい境内に鎮まる英霊たち、故郷の移り変わりに驚き、これからも見守り続けてくれる事だろう。

2021/07/21


佐屋護国神社・佐屋神社
創建 / 不明
祭神 / 不明
佐屋護国神社
創建 / 不明
祭神 / 郷土出身英霊

所在地 / 愛知県愛西市須依町東田面4
一色町八幡社から徒歩ルート / ​北東へ徒歩10分程
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戸隠神社 「火之御子社」

早朝の中社参拝を済ませ、これで三社の参拝を終えました。
これから中社大鳥居から県道36号線沿いに下り、四社目の「火之御子社」に向かいます。

f:id:owari-nagoya55:20210823092746j:plain早朝の県道36号線、本来は人や車が多く活気のある光景が広がるのだろう、コロナ禍の今はそうした賑わいはなく、道路沿いの宿坊も妙に静かだ。

f:id:owari-nagoya55:20210823092816j:plain鳥居から2分程下った左の「親鸞聖人御旧跡」
親鸞聖人が戸隠を訪れた際ここ行勝院(現武井旅館)に百日程滞在したという。
院内にある親鸞堂には明治まで行勝院の本尊だった釈迦如来像や親鸞聖人の木像、その他の寺宝などがに安置されている。
「戸隠三千坊」と呼ばれ、数多くの坊が立ち並び繁栄した「戸隠山勧修院顕光寺」も、神仏分離廃仏毀釈以降姿を変え、それまで寺が守り続けた多くの仏像はこうした形で守り継がれています。

f:id:owari-nagoya55:20210823092833j:plain中社から徒歩10分 某蕎麦屋の駐車場脇に丁石を見かける。
これは五丁石。
この五丁石から県道36号線(戸隠道)を更に5分程下っていき、アルピコ交通の駐車場を過ぎた先にヘアピンカーブが現れます。
その右側に火之御子社へ続く細い人道と看板があるので、それに従い下っていきます。

f:id:owari-nagoya55:20210823092850j:plain上は県道から分かれ数分下った先にある「西行桜」、そこから下ってきた道を眺めています。
正面に見える高い擁壁が県道。

西行桜、種類はオオヤマザクラらしい。
この樹には西行法師にまつわる逸話があるようで、ここまで訪れた西行法師は火之御子社から戸隠山を遥拝し引き返したそうだ。

f:id:owari-nagoya55:20210823092907j:plainその傍らで自生するグミ。
色合いが鮮やかで見るからに美味しそう。
子供の頃、自然からの恵みとしてよく口にしたものです。
人工色素、香料、甘味料にどっぷり染まった今ではそれ程美味しいものではない。

f:id:owari-nagoya55:20210823092925j:plain西行桜から先は火之御子社境内。
ここから一旦左側に進み鳥居に向かいます。

f:id:owari-nagoya55:20210823092941j:plain火之御子社の鳥居。
県道のヘアピンカーブを下るとここに至り、鳥居左に数台分の駐車場もありました。
鳥居から正面の石段を上れば拝殿。

f:id:owari-nagoya55:20210823092957j:plain「火之御子社」由緒
「創建 承徳2年(1098)、御祭神 主祭神 天鈿女命、配祀 高皇産霊命、栲幡千々姫命 、天忍穂耳命
由緒 社伝によれば「天岩戸前にて天鈿女命神楽を舞う」とある。
戸隠が神仏習合の時代にあっても終始神社としての姿を保ってきた。
古来より舞楽芸能の神、縁結びの神として尊崇され、その道を志す人達の信仰が篤い。
境内には有名な西行桜がある。
祭日 例祭8月18日」

f:id:owari-nagoya55:20210823093014j:plain石段を上って境内全景の眺め。
右に西行桜正面が社殿、左の石垣に手水鉢があり、社殿の後方から左にかけて杉の古木が密生しています。

f:id:owari-nagoya55:20210823093030j:plain手水鉢。
龍が注いだ清水は再び山に戻り、それをまた龍が注ぐ。

f:id:owari-nagoya55:20210823093052j:plain社殿。
素木の入母屋妻入で内削ぎの千木が施され、屋根は鉄板が葺かれている。
高欄付きの縁が付きますが外周を囲むものではなく両側面の中ほどで途切れています。
杜に溶け込んだ素朴な佇まい。
戸隠神社にあって神仏分離以前から神社として今に続いています。
創建は由緒にあった承徳2年(1098)、彼是1000年の歴史を持つ。
現在の社殿は1884年(明治17)に建て替えられ、1994年(平成6)に屋根や基礎部分に補修の手が入れられたもの。

f:id:owari-nagoya55:20210823093108j:plain外観と調和したシックな扁額は「火之御子神社」とある。
あの札はどうやって貼っていくのかな。
竿で貼るにしても器用にはれるものだ、千社札を見るといつも思う。

f:id:owari-nagoya55:20210823093125j:plain社殿内、祭神は主祭神・天鈿女命、配祀・高皇産霊命、栲幡千々姫命 、天忍穂耳命を祀る。
天鈿女命は天の岩屋に引き籠ってしまった天照大神を誘い出すため岩戸の前で舞を披露した神様。

f:id:owari-nagoya55:20210823093144j:plain本殿左の結びの杉、夫婦杉とも呼ばれ、中社の三本杉も見事ですが、優劣つけがたい見事な姿。
ねじれる様に上に伸びる二本の杉、地表に現れた根張りなど人の及ばない自然の力を感じ取れる。
その前には注連縄が巻かれた石標と石の祠が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20210823093206j:plain祠の詳細は分かりませんが、こうした自然の力を魅せつけられると、人はそこに何かの存在を感じるものだと思います。

f:id:owari-nagoya55:20210823093227j:plain火之御子社は神職不在のため、御朱印は中社かこれから向かう宝光社で頂くことになります。
これで戸隠五社巡りも四社の参拝を終えました。
夫婦杉から左に続く神道を歩いて宝光社に向かいます。

f:id:owari-nagoya55:20210823093247j:plain神道はこんな表示がいっぱい出てきます、熊除け鈴と足ごしらえは入念に。

「火之御子社」
創建 / 1098年(承徳2)
御祭神  /  主祭神 天鈿女命
配祀 / 高皇産霊命、栲幡千々姫命 、天忍穂耳命
所在地 / 長野県長野市戸隠中社2412
中社から所要時間・歩行ルート / 県道36号線を概ね20分程下る
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春日井市鳥居松町「柏井稲荷神社」

前回掲載「紫金山慈眼寺」の其の2

柏井 稲荷神社は慈眼寺境内西側に鎮座します。

f:id:owari-nagoya55:20210821194836j:plain県道508号線の北側に面した慈眼寺。
その特徴のある山門の西側に赤い大きな鳥居が並んでいます。

f:id:owari-nagoya55:20210821194854j:plain社頭西側からの眺め。
県道から見えるのは真新しい赤い鳥居と社号標で境内は鬱蒼とした杜に包まれ、見通しが効かない。

f:id:owari-nagoya55:20210821194910j:plain慈眼寺参拝者駐車場から柏井稲荷神社社殿の眺め。
杜の中に妻入りの社殿が建つ。
社殿右側は壁面がなく拝所になっています。

f:id:owari-nagoya55:20210821194926j:plain社頭正面からの眺め。
鳥居右に社標「柏井稲荷神社」、綺麗な赤い鳥居の扁額は「柏井稲荷社」。
鳥居前には狛狐が守護しています、その先に赤い社殿が僅かに見えます。

f:id:owari-nagoya55:20210821194944j:plain歩道際で参道を守護する狛狐。
悲壮感のない健康的な容姿をしています。
さて参拝と思いきや、歩道から参道へは狛狐とフェンスがガードして直接入れません。
慈眼寺山門から左に回り込んで鳥居をくぐる事になります。

f:id:owari-nagoya55:20210821195001j:plain慈眼寺境内から柏井稲荷神社の眺め。
ここから鳥居をくぐり拝所に向かいます。
この時期こうした杜はどうしても蚊は避けられない、虫除けは必需品。

f:id:owari-nagoya55:20210821195017j:plain社殿全景。
こちら側は鮮やかな赤で塗られています。

f:id:owari-nagoya55:20210821195034j:plain拝所に掲げられていた写真。
左は1994年(平成6)、いちょう並木通り発展会から鳥居を奉納した際の写真。
社殿を包む杜は今とは随分様子が違うようだ。
右は伏見稲荷

f:id:owari-nagoya55:20210821195048j:plain参拝を終え拝所から本殿域を眺める。
幾つもの狛狐が安置され、右の柱に何か書かれた板があるがここからでは読み取れなかった。
詳細は分からなそうだ。

f:id:owari-nagoya55:20210821195103j:plain拝所に解説が掲げられいた、そこには以下の様に書かれています。

柏井稲荷神社
「 天保7年(1837年)仲春吉辰に慈眼寺鎮守として伏見稲荷より勧請し寺宇に奉安。
大正13年(1924)3月31日に大々祀式に昇格する事を授与。
翌年1月3日に昇格祭を行うと同時に現在の社殿に安置。
後幾星露り間種々の霊験があり、近村は言うに及ばず遠方より多数参拝者あり。
終戦と共に再び復興し、社殿の修復・景観整備をし平成6年(1994)初午祭に全国稲荷社の総本宮伏見稲荷大社と同型の鳥居をいちょう並木通り発展会より奉建。
柏井稲荷は福徳の霊験あらたかで衣食住の大祖神として五穀豊穣・商売繁盛・家内円満は申すまでもなく
人々の生活が満ちたりて幸福であるようにお導き下さる。
慈眼寺境内 柏井稲荷社 」

伏見稲荷から勧請され、かれこれ2世紀この地に幸を授け続け、今も厚く崇敬されているようだ。
ピカピカの鳥居もその表れだね。
地誌から何か探れないものか目を通してみるも記述は見つけられなかった。

f:id:owari-nagoya55:20210821195121j:plain因みに1938年(昭和13)頃の当地とほぼ現在の移り変わりを載せておこう。
青いマーカーが慈眼寺でオレンジの線は下街道。
随分強烈な速さで景色は様変わりしてきたものです、これからも町の移り変わりを見続けていく事だろう。
2021/8/16

柏井 稲荷神社
創建 / 天保7年(1837年)
祭神 / 稲荷大神
所在地 / 春日井市鳥居松町1
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長野県戸隠「蕎麦処 うずら屋」

戸隠蕎麦、日本三大蕎麦(岩手県のわんこ蕎麦、島根県の出雲蕎麦)の一つに数えられるようで、遠方から蕎麦を堪能しに訪れるようだ。
戸隠神社中社周辺にお蕎麦屋さんはたくさんありますが、中でも中社五斎神社拝殿前の「うずらや家」はその立地の良さもあってか開店前から予約の客が絶えない人気店の様です。

f:id:owari-nagoya55:20210820100801j:plain戸隠三本杉の脇に店舗を構え、営業時間は10:30~16:00。
早朝から予約を受け付けているので、スタッフの方に伺えば概ねの時間は教えてくれます。
因みに我が家は中社参拝後8:30に受付に記名、火之御子社と宝光社をゆっくり参拝し、うずら家に戻ってきたら開店時間の10:30頃になりました。
丁度開店のタイミングでスタッフの方が店の前に出て「朝早くから来ていただきありがとうございます、美味しいお蕎麦でお迎えします」と声掛けしてから記名順に店に通してくれる。
些細なことですが、店の前で開店を待つ側から見ると気持ちのいいもてなしです。

f:id:owari-nagoya55:20210820100819j:plain店舗に掲げられた「唯一無二」の看板。
それを感じた蕎麦屋は正直な所それほどない。
しかも日本〇大蕎麦とか呼ばれる地方でもない、味音痴なのかもしれないな。
「唯一無二」楽しみだ。

f:id:owari-nagoya55:20210820100837j:plain通して頂いた席は戸隠三本杉が目の前に見える二階の窓側。
店内はテーブル席、座敷で、室内は梁を露わにした落ち着いた内装。
店の雰囲気やスタッフの対応は、妙にかしこまった雰囲気でないのがいい。
門前の蕎麦屋そのもの。

f:id:owari-nagoya55:20210820100855j:plainガラス越しに中社の三本杉の一つが目の前に聳えている。

f:id:owari-nagoya55:20210820100921j:plainうずら家の御品書き、酒も飲みたいところですが車だとそうもいかない。
酒は我慢し、おやじの狙いは「大盛ざる蕎麦」できまり。
かみさんはいつも決めれない、迷うのも楽しみの一つ、今回は「天ざる蕎麦」と「ざる蕎麦」で悩んだ、結果「ざる蕎麦」と「お野菜いろいろ天ぷら盛り合わせ」、これをシェアすることで決まった。

f:id:owari-nagoya55:20210820100944j:plain「一期一会」開店の際の挨拶もここから来ているのだろう。
最初に配膳される中に「漬物」が出されてきた、これが出たら摘んで酒が飲みたくなる、なんとも酒飲みには罪作りなもてなしだ事。

f:id:owari-nagoya55:20210820101003j:plainやがてオーダーしたものがテーブルに揃う。
奥が普通盛で五つの束が盛られた「ぼっち盛り」、定かではないが戸隠五社を現しているとも。
手前が大盛、こちらは8ぼっち盛ということか。
野菜の天ぷらも結構ボリュームがある。
それでは、いた~だきます。
まずはいかにも蕎麦らしい色合いの蕎麦を何もつけずに一口、主張は弱いけれどいかにも蕎麦の風味が鼻から抜けてくる。
歯応え、喉越しも良く、つけ汁も甘すぎず、辛すぎずで好みの味。
薬味は個人的に戸隠大根のすりおろしが合うような気がする。
これで大盛1,050円ならお得だと思います。
良く大盛なしの普通盛しかなく、講釈の割には高いなと感じるお店と比べれば良心的な価格だと思います。

では、天ぷらを頂く。
これがサクサク、カラット揚げられながら素材の風味も感じられ美味しい。
薄めの衣なんですが、油が違うのか、それとも衣が違うのか絶妙の揚げ加減。
うずら家は蕎麦もおいしいが、絶妙な揚げ加減の天ぷらがお勧めかも、

中社門前の地の利もあり、うずら家を訪れる客が多いのも頷ける。
戸隠蕎麦を食べ歩いた訳ではないけれど、「唯一無二」かと聞かれればどうなんだろう。
立地がとんでもない辺鄙な場所にあったと仮定すると印象は変わるかもしれない。
だとしても一期一会を重んじる店のもてなしは、そんな場所でも訪れたいと思わせるものがある。
「一期一会」久しく聞いていなかった言葉だ。
我家の5点満点評価 蕎麦 : 2.5    天ぷら : 3

蕎麦処 うずら家
所在地 / ​長野県長野市戸隠3229
営業時間 / 10:30~16:00 (品切れ次第閉店)
☎  026-254-2219
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