『揚輝荘北園・豊彦稲荷社』名古屋市千種区

週間天気予報ではあまりいい予報ではなかったが、4/7日曜日の予報は外れ、暑いくらいの好天となった ならば、満開の桜を愛でに春祭が開催されていた覚王山日泰寺まで出かけてきました


千種区法王町の覚王山日泰寺東側の道路からの眺め、見上げれば快晴の青い空を背景に満開の桜と五重塔 日本らしい春の光景が広がっていました ここから揚輝荘も近い事から覗いてみることに


揚輝荘は松坂屋の初代社長の伊藤次郎左衛門祐民(1878-1940)により昭和初期に建設された郊外別荘 大正から昭和初期にかけ覚王山一帯の1万坪に庭園と建物が造られ、当時の財界や文化人の交流の場となっていました 南園と北園に分けられた敷地内に歴史的建造物に指定される五棟の建物があり、池泉回遊式庭園のある北園は無料(施設内・南園は除く)で入れます この北園の一画に稲荷神社がありますが、これまで縁もなく今回初めて訪れました


園内に入ると右側に池泉庭園があり、芽吹き始めた樹々の緑が綺麗な時期を迎えていました 正面にある建物は三賞亭と呼ばれ、大正7年茶屋町(現在の中区丸の内2)の伊藤家本宅から移築した茶室


伴華楼の右手に鳥居の連なる豊彦稲荷社が鎮座しています


松坂屋初代社長が築いた別荘内に鎮座する豊彦稲荷社の社頭


鳥居から本殿の眺め


財力を示すかのような個人所有の神社


鞘殿全景


豊彦稲荷社由緒 「祭神 宇迦御魂神 御神体 白狐 祭日 初午祭(4月上旬) 由緒 京都仙洞御所に祀られていた豊春御所稲荷を本社とし、宝永5年(1708)京都大火を機に翌年、市井の岡崎の里(現在の京都市左京区岡崎西福ノ川町)へ遷されました それを京都に進出した伊藤屋(松坂屋)が、寛延2年(1749)に豊彦稲荷として仕入れ店内に分祀 その後伊藤屋は、尾張や江戸で繁盛したのは、神慮の然らしめるところと謝し、また万一の粗略を惧れ、天明元年(1781)に豊彦稲荷を岡崎の本社へ遷しました 大正年間に御所稲荷と豊彦稲荷の祭事を兼務していた宮司が没し、後任がいないまま経過したのを憂慮した伊藤家十五代祐民が、社殿・調度品を含めて、揚輝荘内に遷しました 現では、年1回、4月上旬に神職・関係者の参列にて、初午祭が斎行されています 御神徳 五穀豊、商売繁盛、殖産興業、開運招福など 現在では、家内安全・学業成就、縁結び、疫病退散など様々な願いを叶えてくれる神様として信仰を集めています」 伊藤家のルーツは織田信長に仕えていたようで、揚輝荘の南方に城山八幡宮が鎮座しますが、そこには織田信秀が築いた末森城址がありますが、城山八幡宮西側の県道30号線を越えたあたりに信秀を弔うため桃厳寺が建てられ信秀の廟所があったようです


後に桃厳寺は本山交差点から南の四谷通りに遷り、信秀の墓石と五輪塔もそちらに遷されています (上は泉龍山桃厳寺(千種区四谷通2-16)の信秀廟所) 信長に仕えた子孫がこの地に揚輝荘を造ったのも何かの縁だろうか また、由緒には記されていないが揚輝荘に稲荷社が遷座したのは昭和初期の事のようです 


稲荷社と伴華楼は古瓦を使った瓦土塀で隔てられています


鞘殿から鳥居が連なる社頭の眺め


豊彦稲荷社 創建 / 寛延2年(1749) 祭神 / 白狐


白雲橋と三賞亭(有形文化財) 稲荷社社頭の正面の池に架けられた橋 両側に切石の石垣に架けられた緑付き瓦葺きの橋で、北側の入口天井には龍の天井絵や無垢材から削り出した擬宝珠など贅が尽くされている 大正7年(1918)に建てられた白雲橋は修学院離宮の千歳橋を模したものという


入口の龍の天井絵は冠を被った女性の横顔が隠されているようで、それが見つかったのは2012年と最近の話の様で、2012年に新聞でも取り上げられたようです 橋の内部は立ち入り不可なので真下から絵を見上げる事はできません

天井に描かれている女性の横顔 携帯を精一杯手を伸ばし、撮れた龍の写真を天地逆にすると髭の辺りに女性の横顔が現れます

白雲橋と豊彦稲荷社 庭園はモミジが多く見られ、この時期を彩る桜は意外に少ない、紅葉の秋が一番映えるかもしれません 揚輝荘北園 訪問日 / 2024/04/07 所在地 / 名古屋市千種区法王町2-5-21 公共交通機関アクセス / 地下鉄東山線覚王山駅下車、一番出口から​北へ10分以内


それでは日泰寺山門から境内の桜を眺め、山門南で開かれている春祭に向かい食べ歩きを楽しもうか

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・​泉龍山 桃厳寺

​城山八幡宮

見頃を迎える五条川の桜

4月4日
週末の天気を見据え少し早めに岩倉桜まつり(3月29日~4月7日)が行われている五条川を訪れてきました

岩倉駅から徒歩5分程の豊国橋から長瀬橋の間桜を見て廻る
コロナ以前は五条川沿いに屋台が軒を連ね、漫ろ歩きもままならない状況でしたが
5年振りとなる今年は、お祭り広場や東町休憩所・八剱憩いの広場等に屋台が集められた事から、五条川沿いは歩きやすくなっていました

豊国橋から五条川上流の眺め
満開時は枝垂れた桜が五条川の上をピンク一色に染めますが、まだ七分咲きくらいでしょうか
今は堤沿いの菜の花が鮮やかな時期を迎えています
当日はのんぼり洗いも行われていました

陽当たりの良い所で7分咲きくらいでしょうか

まだ〃満開には少し早い様です

大寒のころや岩倉桜まつり期間中、豊国橋袂の川面では鯉のぼりや神社幟などの糊落としを行う「のんぼり洗い」の光景も見られます
桜まつり期間中はライトアップも実施されています
この土日、雨さえ降らなければ花見しがてら食べ歩くにはいいですね
桜のピークは恐らく桜まつりが終わった後ではないでしょうか
土日は車両の交通規制もあり、公共交通機関で訪れるのがお勧めです

また岩倉から二駅先の「布袋」駅で降車し、東に向かった堀尾趾公園の五条川の桜と裁断橋も風情があってお勧めです

五条川桜まつり
期間 / 3月29日~4月7日
イベント内容 / 岩倉市令和6年​岩倉桜まつり
名鉄名古屋駅から名鉄犬山線乗車岩倉駅下車 / 豊国橋へは北東へ​徒歩5分
訪問日 / 2024/04/04
関連記事 / 丹羽郡大口町『裁断橋と姥堂

『西中金駅舎・岩倉神社・岩倉神社農村舞台』豊田市中金町平古 

3月7日香嵐渓カタクリを見に出かけた際、国道153号線沿いの西中金駅舎と岩倉神社神社に立ち寄って来ました
今回は名鉄三河線旧西中金駅駅舎とすぐ西側に鎮座する岩倉神社・岩倉神社農村舞台を掲載します

まず上の地図をご覧いただきます
左は昭和34年頃の当地と現在の比較で西中金駅と岩倉神社をマーカーで示してあります
国道153号は古来、伊那街道(塩の道)と呼ばれ、中山道脇街道として尾張三河から信州や美濃地方に塩や海産物を運び、帰りには山の産物を運ぶ重要な街道でした
当時の運搬は主に馬に依存していた事から中馬街道と呼ばれ、街道沿いの宿場町には馬の水飲み場が設けられ、紅葉で知られる香嵐渓のある足助も足助宿として古くから賑わっていました
物流の要衝なので、国道沿いには多くの城址もあります
西中金の北側には織田方の中金城、一山超えた矢作川左岸には広瀬城などがあり戦略的にも重要な地域でしたが1560年には松平元康(家康)により攻め落されています
それらの城の遺構は残っておらず、わざわざ訪れる価値があるかは微妙かも知れません

左の地図には今回取り上げた名鉄三河線と旧西中金駅が描かれています
この路線が廃線になったのは平成16年(2004)と最近の事で、国道沿いや矢作川にかかる橋梁を走る電車の姿を覚えている方は多いかもしれない

その終着駅がここ西中金駅
香嵐渓の玄関口として以前はここからバスで出ていました
現在は駅舎とプラットホーム、線路が残され登録有形文化財として保存されています
紅葉の名所香嵐渓に向かう国道153号線はシーズンともなれば混雑したもので、足助まで路線延長する目論見もあったようですが投資回収が見込めず頓挫したようです

国道から見た駅舎全景
現在の駅舎は手前の歩道整備に伴い曳家で2㍍程プラットホーム側に移動されたようです

改札と待合室を備えた昭和の香り漂う外観です
内部も公開されているようですが、夕方のためか扉は閉じられていました

登録有形文化財
名鉄三河線旧西中金駅駅舎・旧西中金駅プラットホーム
西中金駅は平成16年(2004)の廃線まで名鉄三河線吉良吉田駅から西中川駅間の終着駅
足助まで路線延長計画もあったが用地買収・不況の影響から頓挫
駅舎・プラットホーム・線路は歴史的景観を留めるものとして平成18年に登録有形文化財に指定
昭和5年建設の駅舎は待合室・改札室・改札口があり西側にはバスの発着所があった
平成26年(2014)歩道拡幅工事に伴い駅舎はホーム側に2㍍曳家され、小規模の改変が行われたが開業当時の姿を留めている

駅舎脇の石野めぐりウォーキングマップ
かつての三河線を訪れる7.1㌔のコースもあるようです
駐車スペースは分かりづらいけれど駅舎横に数台分ありました

プラットホーム
線路はこうして今も残されていますが電車が来ることはない
ここから少し先で現在工事中で一部通れませんが、そこから先は線路沿いに力石トンネル(内部進入禁止)までは歩いていけます

プラットホームから目的地「岩倉神社」の眺め
線路の上を西に進み参道に向かいます

国道沿いに建つ「村社 岩倉神社」社標(大正13年寄進)と参道の眺め
社殿は線路を越えた先のこんもり盛り上がった山裾に鎮座します
古い土地柄のこんもりした森と岩倉の社名から磐座をイメージするがそれは妄想だろうか

今は通る事のない名鉄三河線の踏切が横切っています
線路を越えると石段がありその先に石の明神鳥居が立っています

右に「指定村社 岩倉神社」の社標、昭和20年に村社昇格を記念し寄進されたもの
寄進年は未確認ですが、額束に社名は入っておらず、太い柱の鳥居の笠木は先端が意図的に強めに反りを入れたような気もする

鳥居左の建物が岩倉神社農村舞台になり、境内右に一際目立つ存在の楠木が大きく枝を広げています
後方の樹が銘木指定のアカメヤナギで、樹齢は分からないが根の辺りには樹洞が出来ており、なにか潜んでいそうな雰囲気が漂う
境内には他にイチョウの樹も見られ晩秋には境内を黄色に染めるのだろう

境内全景
右から手水舎、社殿、忠魂碑

木造四つ脚切妻屋根の手水舎

手水鉢の龍
三本爪で緑青を身に纏った凛々しい佇まいをしている

拝殿正面全景
一対の狛犬が守護する拝殿は切妻造の妻入で四方吹き抜けのもので、梁間桁行は三間のもの

拝殿左から社殿全景
拝殿の先は石垣が積まれ築地塀と中門で囲い、祭文殿と境内社、一段上がって本殿を収める鞘堂が主な建物で拝殿右から社務所に続く参道がある

拝殿前の狛犬(近年未確認)

拝殿妻壁の額は「岩倉神社」
人目を引く彫飾りは必要最小限に抑えているように見えます
岩倉神社について境内に由緒は見られず、愛知県神社庁に目を通すが祭神・祭礼日の記述だけだった
大正15年に出版された西加茂郡誌を見るが創建に繋がる記述は見られなかった

因みに郡史には「二反二畝6歩除地、例祭10月5日、祭神伊弉諾尊伊弉册尊」と記されてはいたが詳細は不明
ただ、さきの昭和時代の地図を遡ると大正9年には既に鳥居の印は記されていたりで、明治或いは江戸時代まで遡るのかも、そこに結びつく可能性があるのは境内の農村舞台かもしれません

拝殿から中門の眺め
中門は平成12年(2000)に改修を受けたようです

本殿域の瓦葺の築地塀と中門、その先に祭文殿と鞘堂の眺め

祭文殿から本殿の眺め

本殿の手前に右に二社、左に三社の板宮造の社が祀られています
右手の二社は手前から洲原神社と秋葉神社、左の三社は手前から津島神社豊川稲荷
一番奥の社名は蚕と社は見えるのだが注連縄の陰になり全文読み取れなかった、三文字と思われるので蚕霊社と思われます

最上段の岩倉神社本殿
一間社流造で蟇股の龍や木鼻には獏や獅子など装飾が施されています
鞘堂は昭和57年(1982)に再建されたようです

本殿左の忠魂碑

社殿南の入母屋瓦葺の大きな建物が岩倉神社農村舞台
間口8間、奥行5間の大きな舞台で、1間と云われてもピンとこないけれど1.8㍍と考えれば大きさがイメージできるかと思います
現在も石野歌舞伎保存会により農村歌舞伎が行われています
この舞台には回転舞台を備えており、見えないところで地味に人手で舞台が回されます
材木が豊富な土地柄からか、桁や梁に使われる木材は立派なものばかり
この長い桁を1本の無垢材が支えている

その中央に「農村舞台」の額
この地方ではこうした農村舞台が点在しますが、その中でも岩倉神社農村舞台は最大のものといわれています

豊田市指定有形民俗文化財「岩倉神社舞台」
「この舞台は江戸時代後期、文化5年(1808)の建立
間口8間、奥行5間の市内では一番大きな舞台です
舞台の中央部に直径18尺の回転床、いわゆる「廻リ舞台」を備えるのが大きな特徴です
昭和30年代まで歌舞伎や芝居の興行が盛んに行われていた
以降、娯楽の多様化が進み、使用頻度の減少とともに、損傷が激しくなった為、平成13年、周り舞台を含めた大改修をおこなった
平成3年に実施した農村舞台の調査から、農村舞台の遺構を伝える貴重な民俗資料であるとして、平成12年、豊田市の有形民俗文化財に指定された」

文化5年(1808)の棟札が残ることから、岩倉神社の創建も恐らくその時代まで遡りそうです

舞台内部
長い棟木や屋根を支える垂木など建売では見られない贅沢な部材が使われている

昨年の石野地区歌舞伎保存会による講演ポスター
このあたりは室町時代には三河国加茂郡高橋荘中鹿野郷で、明治に入り西加茂郡中金村、中野村大字中金、石野村大字中金、猿投町大字中金、豊田市大字中金と地名が移り変わり、現在の豊田市中金町となりました
南は勘八挟から北は広瀬、東は足助の手前、中切あたりまでが石野地区とされ地区唯一の舞台
毎年10月に開催のされるようなので、国道沿いに幟を見かけたら寄ってみたものです

境内から社頭の国道の眺め
結構交通量もあるので鳥居から左に向い、斜面を降りて線路沿い駅舎に戻れます

まもなく終点西中金駅になります
 
名鉄三河線旧西中金駅駅舎
所在地 / 豊田市中金町前田

岩倉神社
創建 / 不明
祭神 / 伊弉諾尊伊弉册尊
境内社 / 津島社、洲原社、豊川稲荷秋葉社、蚕霊社
例祭 / 10月第2日曜日

氏子地域 / 豊田市中金町

所在地 / 豊田市中金町平古782

岩倉神社農村舞台
建立 / 文化5年(1808)
所在地 / 岩倉神社境内
参拝日 / 2024/03/07
名古屋市役所から車アクセス / 猿投グリーロード力石ICから国道153号線左折​約50分
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豊田市足助町飯盛「カタクリ群生地 開花状況」

『稲荷神社』名古屋市港区辰巳町

熱田区千年2丁目の八幡社から東海通に出て、西の​東海通交差点方向に1.2㌔約20分
港区辰巳町の稲荷神社へ
今日の神社巡りも、昼に大宝二丁目でかみさんと合流予定なので、これが最後の訪問地になりそうです

稲荷神社は東海通の南側の辰巳町30に位置し、小学校や大きなスーパーなどがある住宅地に社頭があります

稲荷神社社頭から境内の眺め
社頭右に「稲荷神社」社標があり、左右に案内板が立てられています

社頭左の祭儀予定、読めそうで読めない

右側の稲荷社解説
 祭神は、倉稲魂神猿田彦命、大宮女命
享和元年(1801)、津金文左衛門胤臣が熱田前新田を干拓し、各地から農民を募り耕作に従事させた
 新田を荒子川以西を西ノ割、中川以東を東ノ割、二つの川の間を中ノ割に区分、各割毎に氏神を祀った
東ノ割の氏神が当社
 秋の例祭(10月第三日曜日)には、現在も辰巳・中ノ組・西ノ組の三台の神楽が町を練り歩く

もともとは現在の東海通り交差点南東角付近に鎮座していました
 平成17年に道路拡張に伴いこの地に移転新築したようです
因みに西ノ割の氏神は善進神明社(港区善進町4)、中ノ割の氏神龍神社(港区本宮町3-2)
 地図を見るとなるほどと頷ける

津金文左衛門は、享保12年(1727)に現在の名古屋市東区平田町に生まれ、寛政3年(1791)熱田奉行兼船奉行となり、新たな土地を開拓することで、当時の藩の財源と農民の生活の糧を得ることができる新田開発に乗り出し、広大な熱田前新田を開拓しました

上は弘化4年(1847)に描かれた熱田前新田の絵図
右側の中川通御留川から右が東ノ割、北側に神明は描かれていますが稲荷としては記されていません
さてさて、新田に割り振られたイからタまでのどこに稲荷神社が位置するものか

鳥居から拝殿の眺め
入母屋妻入りの木造で木の色合いが綺麗な拝殿
手前に常夜灯と陰に隠れていますが一対の狛犬がいます
左の建物は社務所になります

境内右隅に周囲の寄進物と比べ年代が古そうな御宮培?の石標
今こうして改めて見ると、左側面に寄進年が刻まれていたようです
こちらに遷座する以前のものをこちらに持ってきたのかも

境内右の手水舎

二つの手水鉢が置かれ、澄んだ清水を湛えていた
右の手水鉢は盃状穴が見られ、こちらも遷座以前から使われていたものを持ってきたと思われます
盃状穴信仰の起源は古く縄文時代からとも云われ、再生や魔除けを祈願し寄進物に何度も〃石を叩きつけ
結果こうした凹みが出来上がります
時代を越えた多くの人々の願いというか、思いが凹みに込められています
こうした信仰は江戸時代から昭和に入ってからも続いたようです
今のご時世これをやっていると器物損壊になるんだろうなぁ

社殿全景
拝殿後方の渡殿の先は、ひと際高く石垣が積まれた本殿域があり、そこには常夜灯と狛犬の姿があります

こちらは拝殿前の狛犬
やや頭でっかちで肉付きの良い姿、寄進年は見ていません

本殿域
渡殿の両脇に三対の常夜灯と本殿を守護する狛犬が安置されています

随分色白の狛犬、少し陽に当たった方が健康的かも
こちらも寄進年は見ていません

本殿域は狛狐と本殿両脇に二社祀られている

ここまで稲荷感がなかったが、漸く稲荷の実感が湧いてくる

流造の稲荷神社本殿と両脇の社、残念ながら社名札はなかった
祭神は稲荷三座倉稲魂神猿田彦命、大宮女命

流造の本殿
脇障子などには細かな彫が施されています

波限神社の参拝が10:00、4社目の稲荷社参拝を終えた時間が11:40
大宝二丁目で12:00にかみさんと待ち合わせたが残り20分、東海通の西側にも廻りたかったがまたの機会にしよう
東海通りから地下鉄に乗り急ぎ向かう、中華ランチに間に合うか

稲荷神社
創建 / 享和元年(1801)
祭神 / 倉稲魂神猿田彦命、大宮女命
境内社 / 不明社2社
参拝日 / 2024/02/17
所在地 / 名古屋市港区辰巳町30-11
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千年2八幡社から稲荷社 / 東海通りを​東海通交差点方向に1.2㌔約20分

中国四川料理 錦城本店 日比野
お昼のランチメニュー「ハーフミニセット」

真っ黒な肉味噌と真っ赤なラー油がマッチする担々麺に麻婆豆腐、エビチリとサラダ
これとは別におひつで提供される御飯に杏仁豆腐のデザートが付いて1300円とリーズナブル
全体的に濃い目の味付けなので、御飯やビールがすすむこと
ミニセットとは言え、歳を考えると食べ過ぎ、満足のランチでした
所在地 / 名古屋市熱田区一番1-5-12 嶋田ビル1F

さてとお腹も満たされたのでボランティア説明会に行くとするか

『八幡神社』名古屋市熱田区千年2

千年1丁目の八幡神社から旧東海道を南に進み新幹線の高架を過ぎ暫くすると千年2丁目の八幡神社の社頭に至ります
所要時間は徒歩10分程

千年2丁目に鎮座する八幡神社の社地全景
道路沿いにほゞ東向きに社頭を構えます

社頭全景
正面に石造明神鳥居と右側に象形文字で書いたかのように八幡神社の社標がある
社標の文字は鳩をモチーフにして書かれ、少し離れて見ると違和感なく読めてしまう

鳥居の左に八幡神社祭礼の案内板

社頭左の開拓記念碑
碑文は確認しなかったが、この辺りは潮の満ち引きで干潟が現れ、その間に堤を築きながら人と自然が陣取り合戦の様に農地を広げてきた場所です
それに伴い堤は沖に伸び、河口も遠のいていった

鳥居から境内の眺め、正面に石造番塀を構えています

鳥居の額は八幡神社で八は鳩を意識した書体

境内右の全景
正面に忠魂碑があり、常夜灯、本殿末社造営碑、八幡神社由緒が纏められています

千年八幡神社由緒
御祭神 誉田天皇(応神天皇)
境内神社 
多度社 御祭神 天津日子根比命、天目一筒命
秋葉社 御祭神 迦具土
由緒
当神社は もと尾張徳川公の下屋敷の南庭に鎮座 歴代藩主の崇敬が厚かったが天保8年8月11日熱田築地前新開の総鎮守 また熱田全新田の丑寅(北東)の鎮とし 現在地より南方約20間(約36㍍)の処に社殿を建立し 徳川家よりの多くの宝物と共に遷される

安政元年11月 安政地震起こり社殿等倒壊するが有志により復興
安政2年8月 暴風雨の為全面入潮被害多し
万延元年4月 社殿改築遷座を行う
同 5月 烈風暴雨襲い南堤の崩壊により一面に海水氾濫し宝物什器類赴く流失
明治5年7月 村社に列せらる
明治6年9月 再度大暴風雨に襲われた為遂に現在地に遷座
明治18年5月 本殿末社の御造営を行い遷座の式を行う
明治24年10月 濃尾地震により多大の被害あり
明治29年 本殿改築
明治34年 拝殿修復
大正12年 本殿御造営し遷宮式を行う
昭和10年9月 神饌幣帛料供進神社に指定される
同 10月 本殿・渡殿其の他附属建物に至るまで面目を一新し正遷座の厳儀を執行
昭和20年6月 戦災により壊滅
昭和34年9月 伊勢湾台風により損壊
昭和35年10月 本殿御造営
昭和54年5月 本殿末社殿御造替祝詞殿拝殿を再建し正遷座の式を挙行

名古屋市史の八幡神社の記述は当社由緒と同じ内容でした、また愛知県神社庁からも見ましたが内容は神社由緒の足元にも及びもしないいつもの内容

上は八幡社(千年1丁目)で使用した舩方新田と熱田築地前新開絵図
右上に山崎川が描かれており、現在の地図と照らし合わせると、位置的には中央の氏神は千年2の八幡社を示しているのかもしれません
因みに熱田築地前新開の絵図には社は描かれていなかった

現在の道路と照らして合わないのも明治6年に遷っているからだろう
ここから先は由緒を尊重して先に進めよう

さて、由緒にある下屋敷とは、現在の名古屋市東区葵1丁目に残る下屋敷跡を指しており
延宝7年(1679)尾張藩2代藩主徳川光友が築いた屋敷とされ、6万4千坪の広大な敷地に回遊式庭園を持つていたとされます
簡単に6万4千坪と云われても庶民には全く現実味の無い広さ
昔の車のカタログには性能をアピールするため0から400㍍の走行時間を測定したゼロヨンなる表示がされていた
取り締まりの心配のなく、自分の庭でゼロヨンを試すことができた広さだろう
その私邸にあった神社を新田の鎮守として現在の鎮座地から少し南の鬼門に遷座させたという
現在の千年水処理センターあたりと思われます

境内右の百度

境内左に手水舎

手水鉢には天保元号が刻まれています、その下は…12年(1842)と読めるような…

境内左に作良(さくら)堤の石標と境内社

先の絵図にある熱田築地前新開、文久元年(1861)に作良新田に改称され、新田を護っていた堤がこのあたりにあったと云う事でしょう
作良新田は後に舩方新田と合併し千年となりますが、名の由来が当時は一帯に鶴が生息していたそうで、鶴は千年、亀は万年から引用し千年になったそうです

この板宮造りの社、社名札がなく詳細は分かりません
奥の石灯籠を見ていないので、竿に答えが刻まれているかも知れません

八幡神社社殿全景
コンクリート造の入母屋妻入り拝殿で奥に渡殿と繋がっています
大棟の鬼や軒丸瓦、破風飾りには橘の紋が入ります

拝殿前を守護する狛犬、親の背にやんちゃな子供の姿があります
寄進年は見忘れました

拝殿額には「千年八幡神社」で熱田神宮宮司による揮毫
根拠はないけれど千年と付くだけに、先に掲載した千年1の八幡神社はこちらから分祀されたものかもしれません

ここにも橘紋
樽酒かぁ、説明会終えたらかみさん誘って一杯ひっかけて帰るかぁ

拝殿から本殿域の眺め
柱の陰に隠れていますが、本殿域手前に一対の狛犬と本殿両脇に社が祀られています

隠れていた狛犬は年代不明ですが、体の黒ずみや意匠などから、拝殿正面の面々よりキャリアがありそうです

本殿と境内社
大きな社が八幡神社で、左右の社が多度社、秋葉社と思われます
何れも一間社流造で、八幡神社本殿は脇障子をはじめ桁隠し、木鼻などら彫が施され、大棟には金色の橘の紋が施されています
幾度も越水や災害を受けながら、氏子達に支えられ今も鬼門を護る千年2丁目の八幡社
スッキリして明るい神社でした

八幡神社
創建 / 天保8年(1837)
祭神 / 誉田天皇(応神天皇)
境内社 / 多度社、秋葉社、不明社

参拝日 / 2024/02/17
所在地 / 名古屋市熱田区千年2-31-9
千年1八幡神社から千年2八幡社徒歩ルート / ​旧東海道を南下徒歩約10分
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 ・『八幡神社』名古屋市熱田区千年1
 ・『波限神社』名古屋市熱田区

『八幡神社』名古屋市熱田区千年1

波限神社から​​東の国道154号線を越え南東へ徒歩10分弱
 熱田区千年1丁目に鎮座する八幡神社の社頭が左に見えてくる

左に鳥居の姿がある、道は緩やかに上り、その先で堀川堤で突き当りとなり、堤の上に立ち並ぶ住宅の先は堀川が流れている
 白鳥橋から下流の堀川右岸は1676年に作られた南北に長い船方新田が広がっていました
名が示す様に、海運業を営む船頭や船の補修を生業とするものが多く居住したと云われます

 1876年船方新田は作倉新田と合併し千年村字船方になり、その後も合併を繰り返し現在の千年1丁目や千年2丁目に編入されていったようです

波限神社から八幡神社へ来る途中で船方の名が付く交差点や公園を見かけますが、船方新田の元々の位置は堀川右岸沿いの三角屋根が連なる工場の辺りに相当するようです

最初に書きますが、幾つかの地史に目を通しましたが、神社の記述は見付けられず、境内にも由緒に繋がる碑はなく、由来や創建など分からないので地図から見ていくことにしました
 上は明治24年頃の千年1の八幡神社鎮座地とほゞ現在の地図を見ています

当時は現在の大瀬子橋はなく、大瀬子渡しで対岸に渡っていました、ここに橋が架けられるのは明治42年(1909)のことです
 左の地図で、大瀬子渡しに続く赤い道筋は旧東海道で、そこから少し東に入った辺りが神社の鎮座です
明治24年の地図には八幡神社の鎮座地に鳥居の印は見られず、昭和43年(1968)に忽然と鳥居が現れます
 これを持って昭和の創建とはなりません

その理由の一つに、境内寄進物の幾つかに大正の元号が見られることから、規模はともかく大正時代、又はそれ以前から鎮座している事になります
 創建は地史の編纂が進む江戸後期以降、或いは明治に入ってからなのかもしれません

上は年代は不明ですが、船方新田之図になります
 堀川と精進川(新堀川)が交わり熱田湊や船方新田が描かれています
新田北側に「御除地十一丁歩氏神」と中央に「御除地五畝卜氏神」の文字が見えます
 この二社がどこを指すものか、想像を膨らませてみる
北側の氏神は堀川に面しており、先に掲載した波限神社の遷座前の鎮座地、中央が当神社ではないだろうか
 ただ、写真では切れていますがすぐ下に山崎川が描かれており千年2丁目の八幡神社の可能性もあります
それでは境内へ

社頭西側から見る境内

 南南西を向いて社頭を構え、石の明神鳥居とすぐ先に拝殿が建てられています

社頭正面の眺め
 社頭に社標は見られず、壁際に二対の石燈籠がある

鳥居の額は八幡神社、拝殿の鬼には八幡社の名が入っています

境内右側に置かれた手水鉢(寄進年未確認)

境内から社殿全景の眺め
 入母屋妻入りの二段垂木で梁間・桁行三間の四方吹き抜け拝殿で破風飾りに橘の紋が入る
拝殿と本殿の間に一対の狛犬の姿がある

拝殿前から本殿の眺め、左の建物は八幡神社社務所

拝殿から眺める本殿
 石垣で高く積まれた本殿域に本殿の他に両脇に二社祀られているようです

本殿域と狛犬
 この辺りは古くから⽊曽の山奥で切り出された木曽材を⽊曽川を使い、桑名を経て堀川上流に廻漕し名古屋城築城部材として供給した事から、築城後もこの地方で産出された木材の一大集散地となり堀川沿いにはそうした企業が多かった
狛犬の寄進者もそうした団体名のものが見られます

地図上では昭和に入って忽然と記されていた八幡社ですが、この狛犬大正13年に寄進されたもの

本殿域全景
 中央の一間社流造の八幡社、祭神は恐らく応神天皇、左右の社は社名札がなく詳細は不明

境内寄進物の元号は燈籠の竿には大正12年(1923)、狛犬の台座が大正13年(1924)
この神社の創建には堀川周辺で海運業や渡しなど営む方々が大きく寄与しているようです

拝殿から社頭の眺め
 正面の鳥居は大正12年(1923)に寄進されたもの
なにも分からない千年1丁目の八幡社でしたが、10分程南に鎮座する千年2丁目の八幡社でなにか分かるかもしれません

八幡神社
創建 / 不明
祭神 / 応神天皇
境内社 / 不明社2社
例祭日 / 不明
所在地 / 名古屋市熱田区千年1-9-37
参拝日 / 2024/02/17
徒歩アクセス
 ・波限神社から八幡神社 / ​​国道154号線を越え南東へ徒歩10分弱​​

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『波限神社』名古屋市熱田区

2/17、この日は名古屋ウィメンズマラソンのボランティア説明会に朝から参加するかみさんと共に名古屋学院大学 名古屋キャンパスを訪れました
自分は午後の説明会だけなので午前中はフリータイム
と云う事で白鳥公園の南を横切る国道1号線から南の熱田区南部の神社を巡って来ました
普段名城線を主に利用するので、名港線乗り換えもあり、あまり縁のない空白地帯

名古屋キャンパスでかみさんを見送り、そこから南下する事約20分
熱田区2-45に鎮座する波限(なぎり)神社の社頭に到着
南向きに社頭を構え、鳥居の左に社標(1975)が立てられています

鎮座地は正保3年(1646)から慶安2年(1649)にかけて、尾張藩により堀川から庄内川にかけて広範囲の新田開発が行われた地域で、それにより得られた耕地を東から西にかけて33に番割された地域
ここはその一番割にあたり、現在でも番割当時の名残が町名として一部に残っています
現在は農地は姿を消し住宅や工場、ショッピングセンターが多い環境なので、波限(なぎり)神社の社叢は存在感があります

社頭から境内の眺め
左から波限神社社標、熱田史跡「まむし神様」の碑、石造神明鳥居、波限神社由緒碑があります
鳥居はこの社頭の他に境内西側にも石造神明鳥居が建てられています

かつて、まむしが多くいたことに由来する

波限神社由緒略記
「祭神:彦波限建鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎ たけうかやふきあへずのみこと) (神武天皇の父様)
例祭 10月18日
由緒
 この神社は慶長15年(1610)に加藤清正公が名古屋城を築く際、運搬船が度々遭難することを憂いて、堀川河口にあった小島に一宇を建て、日向国鵜戸神宮の御霊代を祀りました
社名は彦波限にちなんで波限神社と名付けられ、海運の守護を祈願し、深く信仰されました
 村民からの敬愛は深く、全村が神社の祐福を願い、平和で幸せな生活を営めるのは、まさに神社の守護の賜ものである
海上安全、交通安全、安産、縁結びの神として、遠方からの参拝者も多い
 小島は現在の千年船方にあり、神社は白鳥橋の旧渡船場から南方300メートルの堀川河畔にありました
昭和14年10月に愛知時計の発展拡張に伴い、現在の地に移転
しかし、昭和20年(1945)3月19日の空襲により、本殿や拝殿などの建造物はすべて焼失
 その後、時間を経て昭和49年(1974)12月にようやく復旧再建され、御本宮の鵜戸神宮(宮崎県日南市)に参宮し、御分霊を受け、昭和50年2月1日に遷座祭が行われた」

名古屋市史の社寺編
 「波限神社は南区千年字船方にあり、境内126坪あり、明治初年の勧請なり、明治35年頃改造遷宮す、今村社に列す
 祭神は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊なり、神殿、槍鳥居 大正元年建設などあり
境内神社は秋葉社 祭神は軻具土神の一所在り
 例祭は8月15日也」と記されていました

熱田区史跡散策コース概説
 「名古屋城を築城の際、加藤清正が資材海運の安全を祈って建立した
本殿は戦災で焼失 し、昭和49年に再建された」とあります
 他に愛知県神社庁に目を通すが得るものはなかった

名古屋市史と神社由緒では創建や遷座の時期が食い違っており頭の整理がつかない
 神社由緒と史跡散策コース概説では清正の下りなど符合しますが、由緒から引用しているのかもしれません
本記事では神社由緒概説を尊重し記述します

 今時、機械を多用した歩道の整備ですら、なんやかんや長い期間やっています
堀川の掘削は1610年から始まり翌年には完成したとされます
 なにもない所から短期間で掘削したものとは思えず、掘削にあたり従来の護岸の整備に石は必要だったと思われます
境内には石垣に加工しようとして楔を打ち込むため開けた屋穴の痕跡が残る岩が複数置かれています

過去の地図から鳥居の姿は確認できず、終戦(1945)直後から5年間に当地を写した航空写真から鎮座地を見て見ました
 当時は既に現在地に移転を終え、熱田空襲で被災し焼け野原になっていた頃
社叢の樹々はなく、現在の社叢はその後植えられたものと思われます
 多くの犠牲者を出した愛知時計のあった辺りでは目立つ建物は見られず、由緒による旧鎮座地は堀川右岸、愛知時計の東端になり、現在の千年プロムナード(黄色の辺り)と思われます

昭和49年12月復旧再建された社殿の多くはコンクリート造りのものが多く、写真の手水舎もそのひとつ
 そこに置かれる手水の寄進年は見忘れましたが、再建以前のものではないだろうか
後方の鳥居が社地西側の鳥居(1975)のもの

拝殿全景
 外観はシャープな印象で、梁間2間、桁行3間の四方吹き抜けのコンクリート
社殿の左に境内社の豊受稲荷大明神、右に熱田社と秋葉社の相殿が祀られています
 波限神社では神社につきものの狛犬の姿は見られなかった
境内は枯れ葉が散乱することもなく清掃が行き届いていました

拝殿内から本殿方向の眺め
 ひょっとして柱はもとは赤だったのかなぁ、壁面の色合いとは少し違うように感じます

祭神の彦波限建鸕鷀草葺不合尊の御神徳は海上安全、交通安全、安産、縁結びとのこと
 まずはこの先の安全を祈願させて頂きます
・・・2月も半ば過ぎてましたが小さな鏡餅が供えられていました

本殿右の境内社は熱田社と秋葉社相殿

板宮造りの社には二枚の社名札が掛けられていますが、文字は脱色し読み取り難かった
 名古屋市史(大正4~5)では「軻具土神の一所」とありますが二社に相違ありません
創建時期由緒概要に記されておらず、市史が編纂された当時が一社だけだったとすると、熱田社や豊受稲荷はその後に遷座したものとなります

波限神社本殿は木造の棟持柱が現れた神明造、棟には外削ぎの千木と4本の鰹木が付くもの

拝殿右から境内社と社殿の眺め

複数の赤い幟がはためく先に豊受稲荷

豊受稲荷全景
 稲荷と云えば狐ですがその姿はなく、社の前に小さな陶製の置物が置かれていました

豊受稲荷の社は一間社流造で軒唐破風が付くもので棟には外削ぎの置き千木と3本の鰹木が施され、
小さな社ながら木鼻や虹梁、蟇股など細かな彫飾りが施されています
シャープな神明造と曲線の流造、どちらも固有の美しさがあります

拝殿から社頭の眺め
そう云えば社頭の「まむし神様」由来は調べていなかったけれど、湿地が多かっただろう土地柄なのでマムシに纏わる言い伝えがあるのだのう、しかし蛇は大嫌いなので、考え出すと境内の大きな楠の枝から落ちてくるんじゃなかろうかなんで妄想が始まる
これ以上深入りしないようにしよう

波限神社
創建 / 慶長15年(1610)
祭神 / 彦波限建鸕鷀草葺不合尊
境内社 / 秋葉神社、熱田社、豊受稲荷大明神
例祭日 / 10月18日
所在地 / 名古屋市熱田区2-45-8
参拝日 / 2024/02/17
公共交通機関アクセス
 ・地下鉄名城線熱田神宮伝馬町駅​から西に1.6㌔・25分前後
 ・地下鉄名港線 ​六番町駅​から東南に1.2㌔・20分前後