『慈雲山 影現寺』知多新四国霊場 番外札所

かみさんの緊急事態解除が発出され、思い出したように知多四国霊場巡り(コストコ巡り)に行くことになった。
朝9時、出勤ラッシュも過ぎた頃を見計らい家を出る、その時間帯の幹線道はいつもの「隙あらば」、「我先に」と闇雲に右往左往して先を急ぐ車の流れとは違い落ち着きを見せる時間帯の様だ、下道を走り知多半島に向け2時間程の快適なドライブ。
名鉄河和線「河和口」駅前を海岸沿いに続く国道247号線
海岸に迫る丘陵地の頂に知多新四国霊場 番外札所 「慈雲山 影現寺」が鎮座します。
ここが今日のかみさんのスタートとなる寺、かみさんはここから徒歩で巡る。

f:id:owari-nagoya55:20210213091702j:plain国道からだと陸側に「時志観音」と書かれた案内板と海岸から丘陵地の頂に続く石段、「時志観音」の石標が目印となるのでしょう。この石段を見てここは一緒にお参りする事にした。

写真の石標の右側に駐車場があります。
「石段登らずに本堂の近くまで車でいけないの」という方向けに、そこから狭くて急な上り坂が上に続いており、途中の中腹にも駐車場、上り切ると境内の広い駐車場とお手軽に辿り着けます。
狭くて急な坂道は一方通行ではありません、対向車が来ることを前提に上ってください。
運よく対向車に出逢わなかったとしても、この石段を見るには自らの足で下り再度上る事になります。
車に戻るのに上りか、下りの選択です。

f:id:owari-nagoya55:20210213091735j:plainこの石段何段あるのか数えていたが、途中でそれも怪しくなり数えるのはやめた、100段は確実に超えていたと思います。
石段も間もなく終わり、その先に境内が広がる。

f:id:owari-nagoya55:20210213091804j:plain慈雲山 影現寺伽藍全景。
正面が観音堂、右手に本堂と庫裡、弘法堂が連なる。
観音堂左に巨大な観音像、参道手前に仁王像と右手に鐘楼の伽藍。
丘陵地の頂とは思えない程広い境内です。

f:id:owari-nagoya55:20210213091826j:plain境内から石段方向を振り返ると、目の前には三河湾を見下ろす事が出来る。
右手の入母屋瓦葺のお堂は手水舎も兼ねているようで、その奥には地蔵と不動明王の石像が安置されている。

f:id:owari-nagoya55:20210213091849j:plain境内左には石塔や石地蔵などが纏められています。

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参道両脇の仁王像はなかなかいいスタイルのイケメンかも知れない。
入母屋瓦葺の鐘楼は大きなものではない、視線を釘付けにする巧みな飾りが施されているわけではないけれど、斜め下から見上げた垂木の並びと軒の反りが綺麗だと感じました。
1922年(大正11)に建立されたこの鐘楼、戦時下は梵鐘は供出され、現在の釣鐘は昭和24年朝鮮の古梵鐘の流れを受け継ぎ鋳造されたものだそうだ。

f:id:owari-nagoya55:20210213091937j:plain参道正面から観音堂全景、1504年(永正元)開創の影現寺。
観音堂に祀られているのは十一面観世音菩薩で「時志観音」と呼ばれます。
十一面観音像は1574年(天正4)、佐久島の漁夫が出漁中に網にかかって現れたとされるそうです。
佐久島の草庵に祀られたその尊像は、ある夜、島守の夢枕に立ち以下のように告げたという。
「我は観音菩薩の化身なり。衆生救済の為に中国より渡れども。時を得ずして海中の藻屑になること幾星霜、願わくば対岸の地に移し祀られよ」

こうして尊像はお示しのとおり対岸の戸岸(現在の時志)へ移されたのだという。
こうした「流れ着いた」とか「網にかかった」等の話は耳にするけれど、「どこから来たの」となると明確に語られないもので、それを考えだすと眠れなくなるものかも知れない。

手前の八角形の屋根の香炉は観音堂内の内陣の厨子八角形の屋根にちなんで作られている。
ご詠歌に「引綱に召され浮かびし観世音、慈雲と共に影現の寺」、「時しらぬ利益はいつも有明の月の光の至らぬはなし」とある。
ここは南知多観音一番、知多西国八番札所。

f:id:owari-nagoya55:20210213092002j:plain観音堂に掲げられた額、達筆すぎてもはや読めない。
賽銭箱には三つ葉葵の紋。
1605年( 慶長10)、尾張徳川初代藩主の徳川義直尾張一円を巡察の途中、当時荒廃していたこの観音堂を訪れ、安産祈願の霊験があらたかで、その由来に感銘し200両を与えて荒廃していた堂宇の修復を命じたとされます。
それは義直自らが子供を授かるタイミングだったからかも知れない。
義直は無事に男子を授かり、それ以降、尾張徳川藩から厚く崇敬され庇護されたようです。
そうした事から、三つ葉葵を寺紋にすることを許されたようで、境内の至る所に三ツ葉葵の紋を目にします。

f:id:owari-nagoya55:20210213092026j:plain境内左から見た伽藍全景。
この観音堂、入母屋瓦葺の妻入りですが、常道であれば妻の部分に向拝が作られるものでしょう。
この建物には向拝はなく、建屋の妻部分の一部を吹き抜けにした造り。
しかも、大棟には横から寄棟の建物が一体となる手が込んだ造りで、外観上のアクセントになっているように思えます。
山の頂は日差しを遮るものが無いので、境内は暖かな日差しで満ち溢れています。

f:id:owari-nagoya55:20210213092049j:plain鐘楼の後方の一画には重興仙嶺大隣和尚の座像と左に猿の座像「座禅猿」がある。
左側には複数の観音像が安置されている。
1900年(明治33)伊藤萬藏氏が奉納されたもので、石の観音像は三十三体あるのだそうだ。
灯篭や狛犬、手水鉢などは名前をよく見かけるけれど、こうした石像も寄進していたようです。

f:id:owari-nagoya55:20210213092112j:plain観音堂の右が本堂。
内陣に釈迦牟尼仏の座像が安置され、両脇には権現様と達磨大師が祀られているという。
先のある巡礼、かみさんは観音堂と下の弘法堂をお参りし本堂はあっさりスルー、全部見て参っていたのでは先に進めない、分かる気がする。
おやじがここを撮り終えた頃、かみさんは手を振って今回のゴール誓海寺に向け石段を下りて行った。

f:id:owari-nagoya55:20210213092135j:plain本堂の手前に建つ入母屋瓦葺で妻入りの弘法堂。
知多八十八カ所霊場の番外札所であり、直伝弘法霊場の三十六番札所でもある。
よく考えると二人で一緒に八十八カ所巡り踏破した事がないかも。
一度は歩かないといけないが、最初の寺からこの差が出ると足手纏いかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20210213092200j:plain「大観音像」
慈雲山 影現寺十二世の重興仙嶺大隣和尚により1981年(昭和51)に建立されたもので、御影石の一枚石から作られた像としては、日本一の大きさとされる。
像の高さは6㍍あるという、影現寺境内で最初に視線が行くのがこの観音像かもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20210213092224j:plain観音像の両脇の狛犬は顔つきが勇ましく、正面から見る姿は今にも飛び掛からんばかりのもの。
青い空を背景に白い大きな観音像と狛犬を仰ぎ見る、視線の先は三河湾に浮かぶ佐久島を眺めているのかな。

f:id:owari-nagoya55:20210213092248j:plain観音堂から石段方向の眺め。
海が綺麗に眺められる寺だ、石段を見下ろすとこの高低差。
前の道路が国道247号線、左へ行けば名鉄河和線河和口駅方向、右に行くと河和駅に繋がります。
陽射し同様に穏やかな海だ、佐久島は・・・・・どれだぁ。
2021/2/8

f:id:owari-nagoya55:20210213092311j:plain慈雲山 影現寺
宗派 /  曹洞宗
本尊 /  釈迦牟尼仏  
開基 /  1504年(永正元年)
札所 / 知多四国霊場 番外札所 /  南知多観音霊場 一番札所 / 南知多七福神 毘沙門尊天

住所 / ​知多郡美浜町大字時志字南平井八十六番地
公共交通機関 アクセス名鉄河和口駅から南へ約1km、
車アクセス /  ​知多半島道路美浜ICから車で10分程