地獄に佇む石祠「伽藍岳噴火口跡」

湯布院から県道617号線、616号線経由で北東に向かう事約30分。
標高1,045mの伽藍岳中腹にある塚原温泉火口乃湯へ到着。
ここで車を降りると風向きにより硫黄臭が漂ってくる。

駐車場には写真の塚原温泉火口乃湯の他、受付事務所、家族湯、露天風呂の建屋が建つ。
因みに専用トイレはなく、この棟の設備を利用する事になります。
入浴はしなかったが、ここに来るまでの道のり、噴気を上げる伽藍岳、もやがかかった山々の景観は秘湯の趣があってとても魅かれる。
この火口乃湯の開湯は、平安時代に源 為朝が湯だまりで傷を癒す鹿の姿を見て温泉を発見したしたのが始まりと伝わります。
その泉質はpH1.9の強酸性で鉄イオンの含有量は全国1位、酸性度、アルミニウムは全国2位の含有量とかで、皮膚炎、切傷、火傷、婦人病、五十肩など様々な症状に有効とされ、日本の三大薬湯(諸説あり)に数えられると云う。
宿泊施設はなく夕刻に施設を閉じる日帰り入浴(内湯500円)のみ。

伽藍岳噴火口跡へは受付事務所で見学料200円を支払い、火口乃湯の建屋後方から続く整備された山道を5分程登っていきます。
樹々に囲まれた山道は最初勾配が緩やかですが、歩き始めてしばらくすると斜度はきつくなり、一息入れたくなるほどのものでした。

やがて樹々は減り前方の視界が広がると、靄の先に伽藍岳の斜面が間近に迫り、硫黄臭を伴う噴気があたり一面を覆う別世界となります。
樹々は明らかに減り、山肌には硫黄の黄色が至る所で目にします。
そして右手に目を転じれば…

そこは地獄。
伽藍岳の約800メートルの中腹に樹々もなく山肌が露わになった一帯が広がる。
火口跡とはあるが、活動が休止したわけでもなく、目立つ噴気だけで三つの噴気孔あり、現在も活発に活動を続けています。
別府の地獄巡り以上の荒々しい地獄の世界が広がっている。

別名硫黄山と呼ばれるようで、名の通りまさに硫黄の山。

鉛色の空の下、吹き上げ続ける白い噴気と荒涼とした景観は圧倒される。

伽藍岳噴火口跡の見学できる範囲は柵で囲われ、それ以外はほぼ立ち入り禁止。
一番手前の噴気孔は写真のように陥没しており、ここには熱水を湛える小池があるようです。
残念ながら訪れた当日は枯れあがり底が露出した状態。
この状態が平時なのか、池があるのが本来の姿なのかは分かりませんが、ここが別府八湯(浜脇、別府、観海寺、堀田、明礬、鉄輪、柴石、亀川)の湯の源だとも云われます。
こうした穴ぼこは泥火山と呼ばれ、形成され始めたのは1995年(気象庁有史以降の火山活動)と最近の事。
現在も活発に活動している証でもある。

最近メディアで湧出量が多いとされる別府や湯布院の一部に湯温低下や蒸気量の減少が現れているという記事を見た。
あるべき池の姿が消えているのを見ると、そうした記事は強ち誇張したものではない気がしてくる。
絶妙の需給バランスで成立する台地の恵みも、過度に人の手が入ると容易に姿を変え警鐘を鳴らす。

写真は展望所右手の一画。
右手の小高い丘の頂まで行きましたが、山の頂付近の裏側に小さな石の祠が祀られていました。

樹々に隠れる様に佇む石の祠。
踏み跡も残り人の出入りはあるようでした。

近付いて見ると祠の先に燈籠もあり、どうやら下から参拝道があったようです。

祠には扉はなく、祠の前にはお供えもあり今も参拝に訪れる方があるようです。

祠の中には三体の地蔵と天照皇大神宮の御札。
御布施の一部が腐食するような環境という事です。

燈籠の竿には享保(1716~1736)の元号が刻まれていました。
伽藍岳噴火口跡は以前は珪石の露天掘りが行われていたそうで、2000年代を迎える前にコスト面で輸入品に対抗できず1990年には廃坑の道を辿ったとされます。
その一端に1995年に出現した噴気を上げる泥火山の影響もあるのだろう。
泥火山が出来る以前は別府白土として地域に潤いをもたらし、人の往来のあった天国だったのかも知れない、歯車の狂った今は人の通わぬ地獄です。
干上がった泥火山は今も少しずつ浸食が進み成長しているとも云われます。
因みに伽藍岳が直近で目覚めたのは貞観9年(867)とされ、少し寝すぎにも思われる。
せめてここから離れるまでは目覚めないで欲しい、そう願いたくなる世界です。

伽藍岳噴火口跡と地蔵堂
所在地 / 町塚原
佛山寺から塚原温泉車移動 / ​県道617号線経由​25分程
訪問日 / 2022/10/28
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