「上野国一之宮貫前神社と知知夫國総鎮守秩父神社を車中泊で巡る」part2

上野国一之宮貫前神社と知知夫國総鎮守秩父神社車中泊で巡る」part1からの続きとなる群馬県二日目。

道の駅赤城の恵で迎えた二日目。
昨晩は結構車中泊していた車も、既に多くが走り去って行ったようで、爆睡していた我家は出遅れ感があるか。
二日目の最初の目的地は群馬県太田市世良田町に鎮座する「世良田東照宮」を目指します。
その前に、ここから数分先にある吉野家の朝定食を食べて一日がスタートします。

8:16
食事を済ませ、道の駅から通勤時間で混みあう国道17号線を50分程南下。
利根川左岸の田園地帯が広がる世良田町の新田荘歴史資料館の駐車場に到着。
ここに車を停め世良田東照宮と徳川町の東照宮の二社を巡ります。
上は太田市歴史公園マップ。
園内には新田荘歴史資料館、世良田東照宮があり、参拝に訪れ駐車するにはありがたい。
資料館には徳川家と所縁のある「長楽寺」や「世良田東照宮」に伝わる文化財はじめ、新田荘の歴史を伝える資料等が展示されています。
下は資料館前の新田義貞像。
稲村ヶ崎で剣を海に投げ、海の神様に祈願してから、海岸から鎌倉へ侵入して、倒幕をはたした故事に基づく銅像
新田荘歴史資料館
所在地 / 群馬県太田市世良田町3113-9

世良田東照宮小黒門から境内の眺め。

門の前の通りから右を眺めると東照宮別当寺を務めた長楽寺の太鼓楼と三仏堂も近い。

東照宮境内から社殿の眺め。
当日は本殿が修復作業中で全景を見ることが出来ず残念でしたが、さすが東照宮、拝殿に施された左甚五郎の彫飾りや狩野探幽の彩色は見応えがありました。

世良田東照宮 由来
寛永21年(1644)、三代将軍徳川 家光は、世良田が徳川氏の先祖の地ということから、日光東照宮古宮(元和年間造営の奥宮)を移築し、家康公をお祀りしました。
奉斎にあたり家光公から御神領二百石が寄進され、以後、幕府の手厚い保護を受け、徳川家代々礼敬を尽く されました。
東照宮の御鎮座は文化・経済の発展を助長し、世に「お江戸見たけりゃ世良田へござれ・・・」と誘われました。
御祭神
東照大権現とは、東から照らす朝日のように勢い盛んな神の意味です。
配祀
菅原道真公(学問の神) 、倉稲魂命(穀物、商売繁盛の神) 、須佐之男命(愛、農業の神)、大穴牟遲命(招福、医療の神)、誉田別尊(安産、育児の神)、伊弉冉尊(結婚、火防の神)、火産霊命(車、縁結びの神)、建御名方神 (スポーツの神)、豊城入彦神(開運の神)。
祭事
一月元日 初詣
1月4日 除魔神事 午後1時
1月5日 御釿始め式 午後一時
4月第一日曜日葵祭り 午前十時~
4月17日例祭、10月17日春季祭
11月 七五三祝祭

太田市世良田は徳川発祥の地と云われ、町名にも徳川町と残る程徳川家と所縁のある地。
徳川氏の祖は上野国新田郡を支配していた源氏の嫡流新田氏であるとされ、平安時代末期の「後三年の役」の内乱を鎮定した源義家は、東国にその基盤を築き、義家の子義国は関東に下り、その長子義重が「新田の庄」を開き、新田氏の祖となりました。
新田義重は、仁安3年(1168)に世良田などの開拓の地を四男義季に譲りました。
新田義季は上野国新田郡世良田荘徳川郷(太田市尾島町)に住んで徳川(得川)を称し、徳川義季と名乗りました。
これが徳川氏発祥の始まりと言われています。
その後、義季の子孫である親氏は、父有親とともに諸国を放浪し、三河松平郷(愛知県豊田市)に住んで松平を称し、松平親氏と名乗りました、その松平親氏の子孫が松平家康で、後に徳川氏を名乗り徳川家康となります。
そうしたことから世良田東照宮は歴代の将軍から厚遇されてきました。

大鉄燈籠。
上野国総社藩主の秋元長朝が明暦4年(1658)に寄進した鉄燈籠で、他にも宝暦から天保元号が刻まれた石灯籠が見られます。

世良田東照宮
創建 / 寛永21年(1644)
祭神 / 東照大権現
境内社 / 稲荷社、日枝社
拝観料・開場 / 300円・9:00から
道の駅赤城の恵から車移動で世良田東照宮 / 移動時間50分程
所在地 / 群馬県太田市世良田町3119-1

これだけゆっくりと参拝し拝観料は300円とは懐に優しい。
時間が10:00という事もあるのか、意外に参拝者は少なく、何より大陸からの団体客に出会わなかった。

次はここから南西の徳川町に鎮座するもう一つの東照宮に向かいます。
世良田東照宮から徒歩で20分程という事なので見渡す限りの葱畑が続く道を歩き出しますが、あまりに単調で日差しを遮るものもなく、道半ばで引き返して車で向かいました。

10:05
駐車場から徳川町東照宮までは車で5分程、永徳寺前の縁切寺万徳寺遺跡駐車場に駐車し社頭までは徒歩2分程、最初っから車移動だったか。

徳川東照宮社頭全景。
利根川支流の早川右岸に鎮座し、社地左は資材置場、右は小さな公園に挟まれています。
公園の脇に家康が描かれた尾島かるたが掲げられていました。

「徳川氏発祥の地尾島町
江戸幕府将軍徳川氏の先祖は尾島町にはじまるといわれています。
新田義重の子の義季は世良田周辺地域を領地とし、世良田氏・徳川氏の祖となりました。
義季から八代目の親氏が各地を流浪したすえ、三河国松平郷(現愛知県豊田市松平町)の豪族の女婿になり、その九代目の家康が名字を松平から徳川にかえたということです。」とあります。


社頭から見る社殿は神社と云うより寺の雰囲気が漂う。
左の石標には「徳川義孝公館址」とあり、右の社標には「●●東照宮」と刻まれていました。


かつてのこの辺りは上野国新田郡得川郷と呼ばれる徳川家発祥の地とされ、徳川義孝の館があった場所。
この屋敷址は後に正田家が所有し、そこに建てられたのが徳川東照宮とされ、代々正田家により護られて来たようですが、明治政府の神社合祀令により東照宮の社地は正田家から徳川郷に移り、郷内の神社は世良田東照宮に合祀されたようです。
現在の入母屋瓦葺の拝殿は、車を停めた向かいに鎮座する永徳寺から大正3年(1924)に権現堂を移築し拝殿としたものとされます。
世良田東照宮と徳川東照宮は葱畑を隔てお互いに見える距離にありながら、随分と境遇は違うようです。
御朱印は世良田東照宮で頂けるようです。

徳川東照宮
創建 / 天正19年(1591)
祭神 / 東照大権現
所在地 / 群馬県太田市徳川町387-1
世良田東照宮からアクセス / ​徒歩20分​、​車で5分
10:30
群馬県の徳川東照宮を後に最終目的地埼玉県の「父父夫國総鎮守 秩父神社」の最寄りある「道の駅ちちぶ」へ向かいます。
​移動時間は約70分程。

道の駅へはほゞ12:00到着。
ここで一息入れ、売店で土産を探し求めながら、こちらの名物?豚みそ丼本舗で昼食を予定していました。
ところが歩き足りなかったのか、かみさんの御楽しみだった豚みそ丼はとても食べられる状態ではなく、軽く蕎麦を食べる事に変更。

「道の駅ちちぶ」周辺には商業施設もあり、車中泊には便利かもしれないが、目の前を国道140号線が走るので夜はどうなんだろう?

駐車場脇の「ちちぶの水」、昼寝の時間も迫りボンヤリしてきた意識を秩父の冷たい湧水がリフレッシュしてくれる。PET容器持参で汲みにこられるようです。

そば処入船。
道の駅から秩父鉄道秩父駅方面に向かい、秩父神社社頭を通り過ぎて約10分歩きます。
左手の風情ある佇まいの通りに面し「そば処入船」がある。
既に開店しており、第一陣が入店した後なんだろう、店舗前に列は見られずラッキーと喜んだ。
しかしウェイングリストを見ると結構待ちがあるようで、取り敢えず記名を済ませ店舗前で座っていると、次から次に客が訪れ始め、長椅子では足りず立って待つ状態に。
30分程して店内の奥の座敷に通され山くるみそば¥900とまいたけ天ぷら¥800、くるみ天ざるそば¥1700をオーダー。
30分程して、山くるみそばとまいたけ天ぷらが出て来た。
やくみの下のくるみだれにたっぷり蕎麦を絡ませ味わう、口の中は出汁の効いた濃厚な胡桃と蕎麦の風味が広がり、なかなかいける蕎麦、くるみだれに蕎麦湯を入れても胡桃の風味は負けていない。
舞茸の天ぷらもカラッと揚げられサクサクした食感で美味しかった。

趣のある入船の店舗は「登録有形文化財秩父銘仙出張所二」として登録されています。

大正時代から昭和時代初期にかけて、この地は秩父銘仙の取引で賑わい、近在近郷の織物工場の製品取引をするための出張所が建ち並んでいた。
木造2階建、切妻造、瓦葺、平入、建築面積88平方メートルで、正面2階軒を出桁造、1階は下屋を設ける。
正面は真壁造で外観は左右対称の2戸1棟形式で、当時の商業地区の景観の一端を今に伝えている。」

秩父銘仙とは、崇神天皇の御代に知々夫彦命が住民に養蚕と機織の技術を伝えたことが起源とされ、山に囲まれた秩父の地形は、稲作に適さないことから養蚕業が盛んとなり、商品にならない繭を使い「太織」と呼ばれる野良着を生産、それが評判となり鬼秩父秩父銘仙と呼ばれるようになり、庶民の普段着として重宝され、往事は住民の7割近くが繊維業界に携わっていたようです、番場町にはこうした出張所は3棟現存するようです。

そば処入船

所在地 / ​埼玉県秩父市番場町1001
13:40
多少時間を費やしてしまったが最後の目的地秩父神社に戻る事に。

父父夫國総鎮守 秩父神社社頭全景。
秩父鉄道秩父駅から徒歩10分ほどの秩父市番場町1に鎮座する古社。

秩父神社の創建は、平安初期の典籍『先代旧事紀国造本紀』によると、第10代崇神天皇の御代、知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされ、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。

上は栞にある境内マップ。
現存する権現造の社殿は、天正20年(1592)に徳川家康が寄進したもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めていることから、埼玉県の有形文化財に指定されています。
毎年12月3日に行われる例祭は秩父夜祭として、国の重要無形民俗文化財と重要有形民俗文化財に指定され、京都祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられる。
訪れた時は本殿北側の壁面が装飾の補修中で職人により漆の剥離作業が行われていました。


神門から拝殿の眺め。
参拝客は多いが途切れるのを待っていれば人の映り込みの少ない写真も撮れなくもない。

拝殿正面全景。
入母屋銅葺屋根で千鳥破風と唐破風向拝が施された拝殿。
秩父神社は永禄12年(1569)に戦火で焼失、家康により天正20年(1592)に再建されますが、社殿全周に施されている彫刻とその彩色の美しさが見所といってもいい。
拝殿正面の四面に描かれた虎の彫刻「子宝 子育ての虎」は、左甚五郎が家康の威厳と祭神を守護する神使として彫ったものとされます。

拝殿両側面の装飾。

左甚五郎による繋ぎの龍、子育ての虎、お元気三猿などの彫りもの一つ〃に物語があり、それら見ているだけでも時間は過ぎていきます。

父父夫國総鎮守 秩父神社
創建 / 崇神天皇10年
祭神 / 八意思兼命(政治・学問・工業・開運の祖神)、知知夫彦命(秩父地方開拓の祖神)、天之御中主神(北辰妙見として鎌倉時代に合祀)、秩父宮雍仁親王(昭和28年に合祀)
所在地 / ​埼玉県秩父市番場町1-3

秩父神社を14:30に後にして「道の駅ちちぶ」で鬼胡桃などの買い物を済ませ350㌔の帰路につく。

世良田東照宮(右)と父父夫國総鎮守 秩父神社御朱印

名古屋にはとっぷり日が暮れてしまうが、帰りも付かず離れず法定速度+10km/hの定速運転でひた走る。二日間の全走行距離790㌔、使用燃料80literと年代物の車ながら上出来の結果でした。

訪問日 / 2023/05/11~12
二日目走行ルート​ 

関連記事 / 「上野国一之宮貫前神社と知知夫國総鎮守秩父神社車中泊で巡る」part1