『治田神社』奈良県高市郡明日香村

談山神社から県道155号線を西に向かい、御破裂山を超え明日香村方向へ15分程。
石舞台古墳を過ぎたら、そこから右の岡寺が鎮座する高みを目指します。
車は岡寺駐車場に駐車します、治田神社は岡寺の門前に鎮座します。

訪れたのは4月4日、御破裂山の西麓に鎮座する岡寺周辺は新緑が綺麗な時期を迎え、枝垂れ桜は風に吹かれて散りはじめていました。

上は境内で見かけた風土保全地区マップ。
周辺一帯は歴史的風土保全地区に指定され、景観の現状変更が制限された地域。
赤丸が治田神社で右側が岡寺の鎮座地になり、神社と寺が寄り添うように建てられています。
一説によれば治田神社は岡寺の鎮守神だったとも云われます。
神社創建は定かではないようですが、平安時代中期に編纂された延喜式神明帳に延喜式高市郡五十四座【鍬靫】として記録が残ります。
鍬靫とは、祈念祭の際に朝廷から鍬と靫が奉献されていたことを示すもので、朝廷から重視された神社のひとつなのが推測できます。
また、神社は創建当初からこの場に鎮座していたものではなく、現在地より西の麓の明日香村豊浦地区に鎮座していたものを現在地に遷座した、とも云われ沿革は定かではないようです。
いずれにせよ延喜式が編纂された延長5年(927)以前から続く古社である事は確かなようです。

古文書によれば社名の治田が示す様に、元々は治田氏の祖神が祀られていましたが、文安年間(1444〜1448)に一時「大物主命」を祀ったと記されています。
永い歴史のなか、一時期に於て八幡宮と称し応神天皇を祀り現在に至ります。
岡町の鳥居脇の常夜灯には八幡宮と彫られています。

岡寺山門から左手に治田神社境内に脇参道が続いています。
麓の岡に鳥居と常夜灯を構え、岡寺に伸びる参道の左側に割拝殿に続く正参道があります。

脇参道入口。
左に社標があり、その先の常夜灯の竿部分(どちらの常夜灯も寄進年は未確認)にも八幡宮と彫られていました。
参道は直進すると境内、右に進むと駐車場に続いています。
参道の右脇には大きな岩が点在し、その中に大きな石標が立てられています。

駐車場に向かう道は切通しになっており、強い陽射しを遮るように樹々が包み込んでいます。
この時は靑紅葉が綺麗な時期を迎えていました。

参道脇の石標は遥拝所とありますが、それ以上の記載は見当たりません。
神社がほゞ南向き鎮座するのに対し、この遥拝所は向きからすると、ほゞ北方向を遥拝する様に建てられています、この北方向で遥拝する神社とはどこだろう。

治田神社境内の遥拝所が立っている一帯は、往古の岡寺が鎮座していたようで、その痕跡を示す遺構が点在し、発掘調査でも礎石や切石が見つかっている。
その結果を示す史跡岡寺跡解説が掲げられており、内容は以下。
「岡寺(龍蓋寺)は義淵僧正によって建立されたと伝えられる寺院であるが、創建当初の伽藍は仁王門の西方、ここ沼田神社境内地にあったと考えられている。
境内地には礎石がいくつか残っており、拝殿の地覆石には凝灰岩の切石が使われている。
また、古瓦の散布もみられることから、このあたりに古代の建物があったことは間違いない。
昭和57年には橿原考古学研究所によって調査が行なわれており、基壇建物の北端を画したと思われる凝灰岩の切石が4.5㍍ほど並び、その東端に階段があったらしいこともわかっている。
その他の建物や伽藍配置については不明であるが、岡寺所蔵の寛文年間(1661~1672)の絵図には、治田神社付近に金堂や講堂、塔の跡が描かれている。
発掘調査で見つかった建物は、南向きに建つ7間×4間の金堂と推定される」

現在、治田神社と呼ばれるこの神社、絵図が描かれた寛文年間には既に鎮座していたようです。
岡寺の創建が天智天皇2年(663)とされるので、岡寺創建後に豊浦地区に鎮座した神社を鎮守神として遷座したと推測されるのも不思議ではないか、いずれにしても創建時期は不明です。

広い境内を持ちながら、社殿が西寄りなのはそうした経緯もあったようです。

治田神社社殿全景。
右手に本殿、正面奥が社務所、手前が拝所、左に割拝殿があります。

治田神社由緒。
「所在地 奈良県高市郡明日香村大字岡字治田
祭神 応神天皇素戔嗚尊、大物主命
行事 元旦祭(1月)、早苗饗(6月)、豊穣講(9月)、秋祭(10月)、新穀祭(12月)
由緒沿革
当社の創建は明らかではないが、延喜式巻十の延喜神名帳式内社とされているので、平安時代(十世紀)には社があったことがわかる。
さらに当境内地からは凝灰岩の基壇や礎石、瓦が出土することから、八世紀初頭の岡寺(龍蓋寺)創建伽藍が あったと推測されており、寺の鎮守神として、境内地に祀られていた可能性がある。
この鎮守神を祀ったのが、後に治田神社になったとも考えられる。
元々は治田氏の祖神が奉祀されていた。
文安年間(1444~1448)に一時大国主命の和魂である大物主命を奉祀されたことが古書にある。
さらに社名を八幡宮と称して応神天皇を奉祀し今日に至っている。」

割拝殿の横に船形の大きな手水鉢。
正面に文字が刻まれているようですが識別できず。

ここにも由緒が。
「治田神社
祭神
例祭 10月10日、豊穣講 9月15日、新嘗祭 12月中旬
由緒沿革
当社の創立は其の年代祥からざれども、延喜式内社なれば平安朝以前の社である事が分かる。
もと治田氏の神々を奉祀され、文安時代に一時大国主命の和魂である大物主命を奉祀されたことが古書にあります。
更に社名を八幡宮と称して品陀別天皇を奉祭し岡村字城山の八坂神社を併合し今日に至っている。」
当神社の祭礼は飛鳥坐神社が執り行うようです。

拝所。
桟瓦葺の切妻で四方吹き抜け。
後方が割拝殿で、ここから割拝殿の下に戻ってみた。

割拝殿入口から参道を見下ろす、岡寺参道まで石段が続いています。

割拝殿全景。
桟瓦葺の切妻造の割拝殿で入口左に二宮金次郎の像が安置されています。
最近あまり見ることがなく、神社の社地でお目にかかるのは随分久し振りかもしれない。

台座に「拝殿改築記念 昭和24年5月 」とある。

割拝殿から本殿方向の眺め。

拝所に掲げられている扁額。

拝所から見る本殿域、石造の神明鳥居の先は中門があり、玉垣が本殿を取り囲んでいます。
ここまで狛犬の姿はありませんが、玉垣の先に一対の狛犬の姿が見られます。
これ以上近寄れず、狛犬や鳥居の柱を写真に収めるのは諦めました。

境内右から本殿域の眺め。
本殿は銅葺屋根の三間社流造で千鳥破風と軒唐破風が施され、棟に二本の鰹木と外削ぎの置き千木が乗り、棟飾りや鰹木に左三つ巴の紋が入る。

千鳥破風と軒唐破風。
こうして見る限り、本殿に目だった傷みもなく落ち着いた佇まいをしています。
割拝殿が昭和24年(1949)とあるので、それと同時期かそれ以降に補修の手が入っているのかもしれません。
岡の集落から車でヒョイと岡寺駐車場にきてしまったが、一ノ鳥居から歩き石段を上って訪れるべきだったのかもしれない。

治田神社
創建 / 不明
祭神 / 素戔嗚尊
所在地 / 奈良県高市郡明日香村岡964
談山神社から治田神社車アクセス / ​県道155号線を西に15分程
関連記事 /