春日井市玉野町『御所中明神・高蔵寺第5号墳』

今回掲載する玉野町の御所中明神は、前回掲載した津島神社からだと中央本線を越え約10分程の距離に鎮座します。
下の地図の赤のマーカー部分が鎮座地で、高蔵寺第5号墳と隣接しています。

左は1891年頃の玉野地区、春日井市細野町を源とする鯎川が南に流れ下り、玉野川(庄内川)と合流する辺りから東にかけて、田畑や集落が発達している。

現在でも中央本線を境に南側には田園地帯が広がっています。
かつて集落の南側には渡し場があったと云われますが、場所は定かでなく、今回歩いて見た中でそれらしい遺構は見つけられなかった。

中央本線を越え、南下すると周囲は一面青田が広がる長閑な光景が広がります。
右手に見える小高い山が高座山。
この山は山肌を掘ると水晶が出てくる山で、息子達の自由研究で良く訪れたが、今は小さな欠片くらいしか出てこないと聞きます。
山麗の東側が五社神社の鎮座地になります。

御所中明神の鎮座地は、一面青田が広がる一帯の西外れにあたります。
農道が幾筋もありますが、この日は道路際の草刈り作業が行われ、農作業用の車両の往来もあり、作業の支障になるので路駐は避けたい。
歩いていれば水辺を好む野鳥や蛙、大嫌いな蛇など、車でサッと訪れ立ち去っていては見られない光景に出会える。

田んぼの西外れに鎮座する御所中明神。
パッと目それとは分かり辛いけれど、一本の桜が目印になるだろう。

御所中明神全景。
境内には御所中明神の白い石標と長方形の石碑が立てられています。
高蔵寺第5号墳は写真左側の草むらの中に遺構らしき石組が見られます。

御所中明神の石標(右)と石碑全景。
この時はこの部分は草刈りされていましたが、古墳周辺は草が生い茂っており、直前に蛇(しま蛇)を見かけた事もあり、草むらに分け入る勢いは失せ写真は撮っていません。

御所中明神。
背面に昭和56年(1981)健之と刻まれていました。
右手に解説が掲げられています。

傍らの解説。
南朝 なか媛の最後の地
南北朝時代(1350年頃)、足利尊氏たちの北朝後醍醐天皇南朝に分かれて対立していました。
吉野に逃れた後醍醐天皇の女官「なか嬢」は天皇が亡くなると、南朝に 味方していた人を頼って各地を転々とさまよいました。
その頃、信濃の飯田にいた宗良親王征夷大将軍として南朝を纏めようとしていました。
これを知ったなか媛は三十五名ほどの家来と共に彼のもとに行こうとされ、玉野川(今の庄内川)を船でさかのぼり、途中玉野の南屋敷で一夜を明かすため、旧家に入り込みました。
これをひそかに 見張っていた北朝軍が闇討ちを仕掛け、家来は次々に討ち取られてしまい、なか媛も無念の最期を遂げました。
逃げのびた二人の家来が、その後、玉野に舞いもどり、ひそかに農民になって、なか媛やうたれた家来たちの霊を慰めたといいます。
35名の位牌は大平寺に安置されています。」
とある。
墓はその後荒れ果て、田んぼの中に塚が残るだけでしたが、ある時期に災難が続いた事から、なか媛一行の祟りではということになり、地域の人が碑と社を建て祀ったのが始まりのようです。

この解説から見れば事の起こりは南北朝時代(1350年頃)。
現在の御所中明神の姿は昭和56年(1981)という事か?

左手の碑は玉野地区圃場整備事業竣工記念碑。

今回偶然にも、なか媛伝説に纏わる寺社を巡る事になります。

次回はここから東に鎮座する、なか媛他一行をお祀りする後醍醐なか刀自媛大神になります。

御所中明神
所在地 / 春日井市玉野町
津島神社から徒歩ルート / ​南へ約10分​ 
参拝日 / 2023/07/14
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