『後醍醐なか刀自媛大神』

鯎川が玉野川(庄内川)と合流する辺りから東にかけての玉野川右岸は、田園地帯が広がっています。
前回はその西外れの御所中明神・高蔵寺第5号墳を訪れました。

今回は田園地帯の東外れに鎮座する「後醍醐なか刀自媛大神」に向かいます。
鎮座地は赤のマーカーになります。

東外れの集落と青田の光景。
目的地まではゆっくり歩いても10分はかからないでしょう。

後醍醐なか刀自媛大神へは集落西側の写真の小径を道なり進みます。

小径はすぐ先で左に向きを変え、目の前に二つの石碑と社が見えてきます。
こちらが後醍醐なか刀自媛大神。

二つの石碑は「玉野町南島 後醍醐なか刀自媛大神を護る会」により、昭和63年(1988)に建てられたもので、背面に刻まれた多くの寄進者により、後醍醐なか刀自媛大神を支えているのが窺われます。

後醍醐なか刀自媛大神側面の眺め。
右手の民家の敷地の一部が社地としてあてがわれたのか、三角形の社地はけっして広くはないけれど、境内は雑草もなく、とても綺麗に手入れされているのには驚いた。
東向きに建てられた社殿の後方に慰霊碑と後醍醐なか刀自媛大神の慰霊碑が立てられ、社地の左に後醍醐なか刀自媛大神の解説が立てられています。

入口から社殿と後醍醐なか刀自媛大神の慰霊碑。
社殿の陰になり写っていませんが、社殿左に、なか媛の随行者で北朝に討たれた28名の名が記された慰霊碑があります。

由来。
「後醍醐「なか媛」様の由来(通称 御所なか様)
元号建武と改められた1330年頃の事です。
忠誠、裏切、勝者、非業の死とすさまじい戦乱乱世の時代(南北朝時代)のことであるとされています。
都を落ちのびて信濃の国への道すがら、玉野の地内に一夜の宿をとった一行(三十五名位)があった。
後醍醐天皇の忠臣達である。
ところが何者かに知られることとなり敵方(足利軍)に密告され一夜のうちに闇討ちの憂き目に合いまし た。
「なか媛」は敵に打たれるより、下臣にと自らの命を断ちました。
他の武士たちは、無念、残念、口惜しいと口走りながら最期の場所となった所が、この地であります。
運よく戦い抜いて玉野川を上り、遠く恵那の地まで逃げのびた者が二名居たとされます。
恵那の地に着いても安住の地はなく、霊を慰める所もなく、再び玉野に戻り百姓に身をやつし「なか嬢」一行の霊を祭ったとされております。」

碑文にある「忠誠、裏切、勝者、非業」
当時の人々は信義を重んじながらもこの時代を生きただろう。
それでも裏切は絶えず、争いは繰り返され、勝者の裏に必ず「敗者」の姿がある。
いつの世も、どちらに付くかで勝者と敗者の道に分かれ、勝者とてやがて敗者となる。
700年の学びの時を経た現代ですら身近にも、国内・世界を見渡してもやっている事はなにも変わらない。
幸せな事に判断を誤っても命までは取られないが、昨今起きている事を思うと重い選択を迫られているような気がしてならない。

後方左には無念の死を遂げた28名の名が記された慰霊碑と一間社流造りの社殿。
右手の「後醍醐なか刀自媛大神霊斎場」の石標も昭和63年(1988)に寄進されたもの。
一行を弔ったとされる2名の下臣達の血筋が、今も玉野に続いているのか定かではないい、有志によりこうして護られ、次の世代に受け継がれていくのだろう。


次の目的地は中央本線を越え玉野町の東外れに向かいます。

後醍醐なか刀自媛大神
創建 / 不明
祭神 / 後醍醐なか刀自媛大神他
所在地 / 春日井市玉野町5
玉川大神から後醍醐なか刀自媛大神まで徒歩ルート / ​東へ約10分程
参拝日 / 2023/07/14
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