既に掲載した尾張旭市新居町の多度神社から、南に20分程車を走らせ変貌著しい長久手市西浦に鎮座する「景行天皇社」へ。
社頭は県道60号線沿いに南西向きに社頭を構え、駐車場の東と西、社殿に続く石段の前に三つの鳥居が建てられている。
主参道全景。
左に手水舎、中央に石の明神鳥居、右側に社標が建っており、そこから右は長湫公民館。
手水舎。
立派な角を持つ龍がいる。
後方は青いシートに覆われよく分からなかったが神池でもあったのだろうか。
主参道鳥居の扁額。
貫は五七の桐紋が刻まれたもの。
ここから先は社殿に続く石段が上に伸びている。
上
石段登り口、右に長湫地区の戦没者の慰霊を弔う慰霊碑が建てられている。
下
境内は二段に開かれており、中ほどで石段は途切れ広場が現れる。
石段の傍らに神馬像と棒の手碑、「村社景行天皇社」の社号標が建つ。
上
この石段の先が社殿域。
下
景行天皇社記
「祭神 大帯日子淤斯呂和氣命(景行天皇)
例祭 10月15日
由緒
承和4年(837)、斎藤氏が天皇御事蹟の長湫根ノ神に創建。
その後、大久手こおら岐と移り、長久手合戦後の慶長9年(1604)城主の支援を得て此の地に遷座。
天正年間(1573~1592)、徳川家康が戦勝を祈願、葵紋太刀三振を寄進する。
伝統行事として氏子による警固祭 棒の手の奉納がある。
明治5年(1872)村社に列格、戦後宗教法人となる。
昭和30年代より改築・修造が行われた。」
景行天皇は大和朝廷の勢力拡大のため、息子の日本武尊を東国征討に向かわせた、征討を成し遂げた日本武尊は帰路、伊勢国の能褒野で病を患い薨去される。
景行天皇は息子の死後、その息子の足跡を辿るため行幸に出たとされ、その際この地を訪れた。
天皇を歓迎するため岩作の豪族石作大連が斎殿を造ったのが神社始まり。
後の承和4年(837)、その祭殿跡に景行天皇の名を冠した社殿が建立された。
享禄3年(1530)、弘治2年(1556)修復されたようでもある。
創建当初の長湫根ノ神はここから南西の杁ケ池の西に地名が残る。
「こおら岐」は推測でしかないが、ここから南東の「口論義」公園あたりかもしれない。
そして現在地に遷座し400年を経て、旧長湫地区の移り変わりを見続けてきたこの地の氏神さまです。
社殿域の眺め。
上
拝殿、幣殿、本殿。
下
拝殿右の神楽殿、その奥に境内社。
境内左側に社務所の伽藍。
境内左の手水鉢と龍口。
鉢には天に昇り珠を咥えて降りてきた龍の姿がある。
髭や角は控えめですが、珠を咥え清水を注ぐのは無理があるのか清水は注がれていなかった。
社殿全景。
社殿全体は新しいもので拝殿は入母屋銅板葺の平入で唐破風向拝が付く、後方で幣殿と繋がり、流造の本殿と続く。
本殿の棟には5本の鰹木、外削ぎの置き千木が施されている。
全体に柿渋?が塗られ茶褐色で統一され落ち着いた印象を受ける。
左後方の建屋は社務所。
拝殿前の狛犬は昭和27年(1952)の寄進。
唐破風鬼や破風飾りに橘の紋が付き、西日に照らされて金色に輝いている。
拝殿額。
上
向拝柱の彫飾り、建屋の外観同様に派手な装飾や彩色を避けたもの。
下
参拝。
拝殿から幣殿の眺め、大きな鏡の両脇に金色の狛犬の姿がある。
神楽殿。
入母屋妻入りで唯一の瓦葺。
四方に縁と高欄が付く立派な神楽殿だ。
向拝柱の梁には龍の透彫りや木鼻に獏の飾りが施されている。
境内社。
左から白山社(流造)、津島社(流造)、神明社(神明造)が整然と纏められている。
拝殿西側から社殿を眺める。
社殿は小高い丘の頂に鎮座する事から、これ以上高い場所もなく白塀の先の本殿域は見渡す事が出来なかった。
景行天皇社を訪れてみて、お洒落な街に変貌したこの地に相応しい綺麗に纏まったシックな神社の印象を受けた。
本殿の棟の眺め、流麗な屋根の曲線と嫌みのない金の飾り金具が綺麗だ。
上
竣工記念碑は「平成9年(1997)」とある。
下
境内から一ノ鳥居を見下ろす。
ちょっと前のダンプが走り回っていた当時の道は様相を変え面影もなくなり、抜け道だったものが以前の記憶で走っていると迷路のようになってしまった、ナビに従うしかないようだ。
明るいうちに帰るとしよう。
景行天皇社
創建 / 承和4年(837)
祭神 / 大帯日子淤淤斯呂和氣命
境内社 / 白山社、津島社、神明社
所在地 / 愛知県長久手市西浦401
参拝日 / 2023/01/10
車アクセス / 多度神社から南へ20分程
公共交通機関 / 地下鉄東山線藤ヶ丘👉東部丘陵線リニモ「はなみずき通」駅下車徒歩5~6分
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