『南院遺跡』(川越市小仙波町)

星野山 無量寿寺 中院を後にして北に1~2分程歩くと東照宮中院通りの交差点に至ります。
住宅が立ち並んだ交差点の角に墓石や地蔵、石塔が無造作に置かれた一画があります。

川越の街にあって宅地にされることなく、墓じまいされた墓石の一時保管場所なのかと思い込み一度は通り過ぎ、目の前の仙波東照宮に足を運ぶも、看板も掲げられており気になって再び戻ってみました。

民家なら余裕で二軒は建てられる広い空き地に、ひと際存在感のある石碑が立っている。
碑には「閻魔堂記念」とあり喜多院僧の揮毫によるもので昭和4年に寄進された碑。
道路際には塔婆が立てられており、そこには南院の文字と歴代和尚の文字が見える。

ここは平安時代初期に建立された喜多院と中院とともに、寺勢を誇っていた南院が鎮座していた一角で、神仏分離により破却され、境内の一部を保存し南院にあった墓石や地蔵をここに集め遺跡として残されたもの。

遺跡と云っても礎石らしいものが残されている訳でもなく、何気に通っていてもただの一時置場にしか見えない遺跡である。
そして左側をよく見ると手毬歌の「あんたがとどこさ」の発祥の地が川越である旨の解説と下の2枚の解説が立てられていた。

ひとつは「天台宗星野山無量寿寺 多聞院南刹 南院遺跡 明治2年神仏分離勅令以、廃仏毀釈之乱由廃絶」と彫られた木札。
手作り感満載の手彫りのもので川越愛に満ちている。

そしてもう一枚が「武蔵国川越仙波喜多院東照宮中院之図。
そこには中院(左下)・東照宮(その右上)・喜多院(中央)が俯瞰図で描かれ、東照宮の随神門の真向かいに南院の山門、現在の遺跡周辺には塔頭寺院や坊らしき姿が描かれている。
以下はそこに書かれていた解説。
天台宗星野山無量寿寺は中院(仏地院)・北院(喜多院)・南院(多聞院)の三院があり、中院が関東天台の総代でした。
北院の院代天界僧正は徳川の庇護のもと北院を喜多院と改称し家康の法会を行い寛永十年(1633)中院を現在の地に移築、仙波東照宮を建立しました。
南院は多聞院という名刹でしたが、明治二年神仏分離勅令と廃仏毀釈に遭遇し遺跡のみとなっている」


また、大正時代に出版された「三芳野名勝図会」から中院・北院・南院の姿を探して見たが、ここに掲げられている俯瞰図が一番よくできていた。
しかし2001年に作られ、南院の姿を留めた俯瞰図も退色により読み取りにくくなっていた。
小江戸川越として観光客で賑わう町の歴史を伝えるこうしたものは自治体でできるんじゃないだろうか。

目の前の仙波東照宮
かつて南院の伽藍が広がっていた道路右手は今は宅地化され、面影は残っていない。
廃仏毀釈以降現在まで、南院遺跡として残されているが、この先いつまで宅地化されず遺跡として残されるものか疑問が残る。

日々散歩していると店舗が突然整地され、以前そこになにがあったか記憶すらないことが多い。
人の記憶は簡単にクリアされていくだけに、この一角がなくなると南院も記憶から消去されていくんだろうなぁ。

南院遺跡
所在地 / 埼玉県川越市小仙波町5-12
中院から南院遺跡 / ​北へ徒歩1~2分程
訪問日 / 2023/9/25
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