『根津神社』文京区根津

湯島天満宮から不忍池の西側を北上した文京区根津に鎮座する根津神社
湯島天満宮から徒歩で約2㌔、時間にして約30分程で社頭に辿り着けます
千代田線利用なら湯島駅から乗車し、根津駅で降車すれば20分程だろう

根津神社社頭
3月30日から4月30日の間、境内ではつつじ祭りが開催され、国内外の参拝客で賑わっていました
通常は落ち着いた雰囲気の神社も、この期間中は混雑しており、自由に歩くのが難しい状況でした


左に社号標は「准勅祭社 根津神社」とあります
准勅祭社とは、全国に鎮座する16社の勅祭社に準ずる社格として、明治元年に東京近郊の12社が指定されました
明治3年にその制度は廃止され、これらの神社は府県社や郷社となりました
直前に参拝した神田神社もそのひとつになります

朱色の明神鳥居の額は根津神社

鳥居をくぐり、境内のつつじと楼門の眺め

有料でつつじ苑に入れますが、入るにも列ができており諦めました
鑑賞するには離れて見ていた方がいいのかもしれない

このつつじ苑、戦災で被災した社殿の修復後、荒れていたこの丘に、花期や種類の違う3000株のつつじが植えられたことにはじまるそうです
色とりどりに咲き移る3000株のつつじ、これだけ纏まると圧巻の美しさがある

神橋と楼門

神橋から楼門・拝殿方向の眺め
根津神社の由緒は古く
日本武尊の東夷征定の際に、須佐之男命の御神徳を仰ぎ千駄木の地に創祀したことにはじまると伝わります
その後も文明年間(1469~87)には太田道灌が社殿を奉建しています

楼門
瓦葺の入母屋造で、全体は朱で塗られ、組物など色鮮やかに彩色された三間一戸の楼門で左右の間に随神が安置されています
文化庁DBによれば江戸時代の宝永3年(1706)当時のもので、戦災や震災から免れ、江戸内の神社の楼門では唯一残っているものという

楼門の額

左右の間に安置されている随神
制作時期など詳細は分かりませんが、右側の像は徳川光圀(水戸黄門)の姿と言われています

上は根津神社社殿全景
由緒は古く、日本武尊が東夷征定の際に、須佐之男命の御神徳を仰ぎ千駄木の地に創祀したと伝わり、文明年間(1469~87)には太田道灌が社殿を奉建しています
神仏習合時は根津権現社と呼ばれ、神素盞烏尊(十一面観音菩薩)、相殿に山王大権現(薬師如来)、八幡大菩薩(阿弥陀如来)を祀る根津三社大権現と呼ばれていたようです

現在地は江戸時代、徳川綱重の山手屋敷であり、のちに六代将軍綱豊(家宣)の生誕の地で、五代将軍徳川綱吉が兄綱重の子綱豊(家宣)を養嗣子に定めると、家宣の産土神である根津権現社に屋敷地を献納、楼門をはじめとした現在の社殿を整備し、宝永3年(1706)に千駄木の旧社地より遷宮したのが現在の根津神社の姿です

境内右の神楽殿
神社HPによれば「文京区の無形文化財の社伝神楽「三座ノ舞」などが奉納さる」とありましたが、建立時期など紹介されておらず、文化庁DBにも載っていなかった

唐門・透塀
宝永3年(1706)建立当初からの建物
唐門は銅瓦葺の一間一戸で妻側に唐破風がある平唐門
以前は天井に墨絵の龍が描かれてあったらしい

両側の銅瓦葺の透塀
社殿全周約200mを取り囲むもので、300年を経た今も傾きや歪のない塀です
HPによれば基礎工事は地中8mの深さまで施されているという
これら社殿の造営には全国の諸大名が関り、各藩の技術が注がれ、天下普請と言われただけのことはある

参拝にはこの列に加わる、左手に手水舎がありますが撮るのを忘れていました

拝殿前の凛々しい狛犬

拝殿全景
社殿は拝殿と後方の幣殿・本殿が一体となった権現造りで建立当初からのもの

千鳥破風・唐破風向拝の連なりの眺め
徳川の権威を示す様に豪華な装飾が施されています
破風飾りなどに見られる卍の紋が神仏習合当時の名残を感じさせます
江戸時代は天台宗の医王山正運寺昌泉院が神宮寺を務めていたとされます

拝殿額
根津神社の揮毫は有栖川宮幟仁親王(1812~86)によるもの

権現造りの社殿側面の眺め
ここから左手の透塀にある西門くぐると境内社の乙女稲荷神社、駒込稲荷に続きます

乙女稲荷神社社頭
鳥居の右側の参道には出店が並び、後方の池を見下ろすように舞台造りの乙女稲荷神社が鎮座します

小池から眺める乙女稲荷神社
社殿に至る参道は奉納鳥居が連なり、信仰の篤さを物語っています

拝所の額は「乙女稲荷社」とあります
乙女稲荷神社
祭神は倉稲魂命
由緒は根津神社遷座時、境内西側の傾斜面(つつじが岡)の中腹に洞が祀られたことにはじまり、当時は穴稲荷と呼ばれていたそうです

社殿の前は参拝する方、ポーズを決めて写真を撮る方でごった返し、参拝のみで写真には収めていません

社殿から北に進むと駒込稲荷に至ります

この辺りにくると写真のような石仏が安置されています
これは庚申塔と呼ばれ、暦の庚申の日の夜に集まり、般若心経を唱え、語らいながら夜を明かす、江戸時代に流行した民間信仰の名残で庚申塔自体、多様な形態があります

庚申塔は道の辻などに塔が建てられ、明治以降は都市化に伴い、根津神社へ遷されてきたものです
解説から一部抜粋
青面金剛・猿・鶏・寛文八戌申(1668)駒込村・施主15名
②観音像・庚申供養・施主12名
③日月瑞雲・青面金剛・鬼・鶏・元禄五壬申(1692)施主26名
④日月・青面金剛・猿・延宝八庚申(1680)願主1名
梵字・庚申供養・寛永九年壬申(1632)・都鳥?(くにがまえに庚)馬米村・施主7名
 区内に現存するものでは最古、都内最古は足立区花畑にある元和9年(1623)のもの
⑥日月・青面金剛・鬼・猿・駒込千駄木町・施主10名、宝永六己丑(1709)

時代の流れから居場所のなくなったものが、背中合わせに纏められ安置されています

庚申塔から先に鎮座する駒込稲荷神社
その前に安置されている狛狐
長いはずの頭や尻尾は欠け落ちてしまい、狐というより猫のフォルムに近いもの

駒込稲荷神社
根津神社千駄木村より遷座する以前、この地が旧甲府藩邸時代の守り神として祀られたもので、本殿の遷座に伴って末社となった

祭神は伊弉諾命、伊弉冊命、倉稲魂命級長津彦命級長戸辺命をお祀りする
乙女稲荷社は混み合っていましたが、駒込稲荷神社を訪れる参拝者は少ないようです

北参道全景
駒込稲荷神社から根津神社本殿後方沿いの参道を東に進んだ先にあり、表参道程の混雑もなく本来の神社らしい落ち着いた佇まいを感じさせる
つつじ祭り期間の混雑を避けるなら、朝一番か夕方に訪れるのがいいかもしれない
静かでしっとりと咲くつつじの姿を見ることができるだろう

祭り期間中の昼間の境内が混むのは当然としても、周辺の飲食店までアトラクション待ちのような長い列ができるのには少々困惑しました

根津神社
創建 / 不詳、現在地遷座は宝永3年(1706)
祭神 / 須佐之男命、大山咋神誉田別命大国主命菅原道真
境内社 / 乙女稲荷社、駒込稲荷神社
例祭 / 9月21日
所在地 / ​東京都文京区根津1-28-9
参拝日 / 2024/04/25
関連記事 /