青春18切符を利用し日帰りで京都市内の西国33所札所を巡って来ましたが、ここ17番札所 補陀洛山 六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)をもって今回は終了となります。
鎮座地は鴨川左岸の京都市東山区轆轤町になります。
六波羅蜜寺は西国三十三所第十七番観音霊場、日本最古の都七福神の一つ弁財天の札所として古く人々の信仰を集めています。
1.寿老神 不老長寿 革堂(行願寺) 寺町通竹屋町上ル
2.ゑびす神 商売繁盛 ゑびす神社 大和大路通四条下ル
3.大黒天 開運招福 妙円寺 松ヶ崎東町
4.毘沙門天 七福即生 東寺(教王護国寺) 南区九条町
5.福禄寿神 延寿福楽 赤山禅院 修学院赤山町
6.弁財天 福徳自在 六波羅蜜寺 東山区ロクロ町
7.布袋尊 諸縁吉祥 萬福寺 宇治市五ケ庄三番割
今回の行程に上記七神の内、偶然にも寿老神と弁財天の二神を巡った事になる。
建物は近年修復されたようですが、外陣の上の祥寿院と書かれた扁額は、以前のもののように見受けられます。
内陣には恵愛堂と書かれた額が掛けられており、内陣中央にシャタールを持った福寿弁財天が安置されています。
境内右の重要文化財リスト、こちらに訪れた動機は西国33所札所であるのは勿論ですが、最大の目的は右手の空也上人立像を拝観する事にありました。
CMや書籍などでこの像が取り上げられ御存知の方は多いと思いますが、この目で実物を見ておきたかった。
境内右の手水鉢から北側の本堂・銭洗弁財天の眺め。
六波羅蜜寺の創建は定かではないようですが、醍醐天皇第二皇子 光勝空也上人(903-972)により天暦5年(951)に開創されたと云われます。
当時の京都は疫病が蔓延し、悪疫退散を願う空也上人は、自ら十一面観音像を刻み、観音像を車に安置して都を曵いて廻り、先々で小梅干と結昆布を入れた茶を仏前に献じ、それを病者に授けて病魔を鎮めたという。
現存する空也上人の祈願文には、応和3年8月(963)諸方の名僧600名を招いて、金字大般若経を書き写し、転読し、夜には五大文字を灯じ大萬灯会を行って盛大に諸堂の落慶供養を営んだ。
これが当寺の起こりである。
平安時代末期には平正盛が、付近に阿弥陀堂(現・常光院)を建立して以来平家との繋がりができ、平忠盛が当寺の塔頭に軍勢を駐屯させ、境内の隣に六波羅殿と呼ばれる館が建築され、平清盛によって六波羅蜜寺は平家の屋敷群に取り込まれてしまい、寺の内外一帯に5200棟余りの平家一門の邸館が栄えたという。
しかし、寿永2年(1183)に平家没落の際に炎上し、本堂を除いた伽藍を焼失した。
其の後は源頼朝、足利義詮による再興修復や火災に遭うたびに修復され、豊臣秀吉による修復や徳川歴代将軍から朱印を与えられた。
上の挿絵は花洛名勝図会(1864)に描かれた当寺の伽藍。
現在の当寺と比較すると大きな寺域を誇り、北側の六道之辻に表門を構え、南に向かい参道が続いていたようです。
やがて寺域は縮小、参道は道路となり周辺には民家が建てられ現在の姿となっています。
現在の伽藍は本堂を中心に、左に福寿弁財天、右に銭洗弁財天、本堂後方の令和館が主なもの。
現本堂は貞治2年(1363)の修営で、明治以降荒廃していたが、昭和44年(1969)の開創1,000年を記念して解体修理が行われ、丹の色も鮮やかな外観となっています。
本堂は寄棟瓦葺の平入で、三間の向拝が付くもので本尊は十一面観音。
絢爛豪華に彩色された向拝は、安土桃山時代に関白豊臣秀吉により増設されたもので、いかにも秀吉の好みそうなもの。
外陣は板張りで内陣の中央の厨子に本尊が安置されています。
自分なりに要約すると「人として資質(成長)を高めよ」という事かと勝手に解釈する。
後付けとは思えない向拝ですが、本堂に対し向拝の装飾が浮いているような。
ここから右奥が令和館入口になります。
令和館。
2022年、六波羅蜜寺の宝物を保管展示するために建てられた近代的な建物。
右手に真新しい朱塗りの社が祀られています。
弁天社・地主天王。
挿絵を見るとこの場所に小さな社の姿が描かれていましたが創建・祭神の詳細は不明。
挿絵が描かれた当時の寺域と現状を比較すると、約半分ほどに縮小したように見えます。
令和館の拝観時間は8:30~16:45、拝観料は600円、館内は撮影禁止ですが単眼鏡は可。
館内には平安・鎌倉時代の国宝・重文に指定された薬師如来坐像、鎌倉期の平清盛坐像など17体の仏像や像が拝観できます。
最大の目的、六波羅蜜寺を開創した空也上人像は二階に展示されています。
HPは空也上人について「南無阿弥陀仏を称え、今日ある事を喜び、歓喜躍踊しつつ念仏を唱えた。
上人は常に市民の中にあって伝道に励んだので、人々は親しみを込めて「市の聖」と呼び慣わした。」とあった。
特徴のある鹿の角の杖の経緯も書かれており、「上人が鞍馬山に閑居後、常々心の友としてその鳴声を愛した鹿を、定盛なる猟師が射殺したと知り、大変悲しんでその皮と角を請い受け、皮をかわごろもとし、角を杖頭につけて生涯我が身から離さなかったという。
定盛も自らの殺生を悔いて上人の弟子となり、瓢をたたき、法曲を唱し、寒い夜もいとわず京中を巡行して衆生の能化につとめた。」とある。
この像は運慶の四男康勝の作で胸に金鼓、右手に撞木、左手には友だった鹿の杖をつき、草鞋をはいて、念仏を唱える口から六体の阿弥陀が現れたという伝承を再現したもの。
実に写実的で今にも南無阿弥陀仏と唱える空也上人の声が聞こえてくる。
少しはこの像容の意味が分かった。
館内は椅子がなく、立っての鑑賞になりますが、空也上人像の前でずっと見入っていました。
その他の仏像も時が過ぎるのを忘れるほど見応えがあり、六波羅蜜寺を参拝の際に令和館を拝観される事をお勧めします。
これら仏像のポストカード、当日だけかもしれませんが販売されておらず、そこはやや心残りだが、心の中の迷いや怒りの気持ちで満ち溢れた時には、鈍行列車に乗って空也上人に会いに来ればいいことだ。
・・・長椅子がほしい。
参拝日 / 2024/08/06
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