多武峰の談山神社から車で石舞台古墳を経由し、明日香村の東光山 真珠院 龍蓋寺までは15分程の距離にある。
西国三十三所観音霊場は、京都、大阪、和歌山、奈良、兵庫、滋賀、岐阜に点在する33か所の観音霊場を巡礼するもので、日本最古の歴史を持つ巡礼行。
なぜ三十三なのかについては、観音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化する事に由来し、これらすべてを巡礼する事で、現世で犯した過ちは消滅し、極楽往生に導いてもらえるという。
そしてこの宝印に従って霊場を定め、徳道上人はこの三十三所巡礼を人々に説いたがあまり流行らず、機が熟すのを待つこととし、摂津国の中山寺に閻魔大王から授かった宝印を納めた。
それから約270年後、花山法皇(968~1008)が紀州国の那智山で参籠していたところ、熊野権現が出現し徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けた。
そして中山寺で宝印を探し出し、性空上人の勧めにより、河内国石川寺の仏眼上人を先達として三十三ヶ所の観音霊場を巡礼したといい、これが今も脈々と続く西国三十三所観音霊場で、万願寺は岐阜県谷汲山の谷汲山華厳時になります。
仁王門。
右に「西国七番霊場岡寺」、「日本最初厄除観音」の石標が立つ。
岡寺のこの仁王門と書院だけという
入母屋瓦葺の三間一戸の門は左右の間に仁王像が安置されています。
昭和42年(1967)~同43年にかけて解体修理が行われ、そのときに仁王門の主要な部材は古材が用いられ、加工されて使用されていた事が判明したといいます。
それらの部材は、文明4年(1472)に倒壊した三重塔の再建に用いるためのもので、塔の再建が頓挫したことからそれが流用されたと云います。
こうして見上げる門の軒下、四隅の白い部分に阿獅子・吽獅子・龍・虎を施した意匠が見られ、転用により作られた表れかもしれない。
アップを撮ったがピンが甘く載せていません。
門の左に大きな岩から彫りあげた石像が安置されていました。
解説の内容は以下。
「東光山真珠院龍蓋寺は俗に岡寺と呼ばれる。
天智天皇の御代(668~672)、義淵僧正により創建とされ、西国三十三所観音霊場り七番札所として信仰される。
本尊如意輪観音像、我国の塑像の中で最大、また胎内仏といわれる金銅半伽像は白鳳時代の様式で、仁王門・書院等と共に重要文化財に指定。
旧寺跡は隣接する治田神社境内と推定され、白鳳時代の葡萄唐草紋軒平瓦などが出土している。」
岡寺は日本最初厄除け霊場としても知られ、創建当初から江戸時代までは義淵僧正が法相宗の祖であったことから法相宗興福寺の末寺で、現在は真言宗豊山派に改宗。
室町時代には興福寺別当が岡寺別当を兼務、江戸時代に入り長谷寺住職法住(1723~1800)が、岡寺に入山して中興第一世となって以来、長谷寺の末寺となり現在に至っています。
深いかかわりのある、興福寺、長谷寺も共に西国札所のひとつ。
仁王門扁額、「龍蓋寺」の揮毫は伝承では弘法大師直筆と云われるようです。
仁王門から境内手水舎を眺める。
左右の間に安置する仁王像、文化財リストに像はリストアップされておらず、年代・作者など詳細は分からなかった。
手水鉢。
昨今は花手水の寺として知られるようで、手水舎や華の池はじめ、境内の小さな鉢などにも花があしらわれ参拝者を迎えてくれます。
この時期はダリア(天竺牡丹)が浮かべられ、遠くから訪れたものには、涼やかで華やかな嬉しい演出。
書院南斜面の庭園。
その水は華の池に注がれます。
華の池の突き当りに弘法大師などの石仏群。
この辺りから石段があり、本堂、開山堂などが建つ一段上の境内に繋がる。
石段から三重塔、大師堂の眺め。
4月4日、境内の桜は落下盛んで石楠花に主役の座を譲ろうとしていた。
以下は岡寺由緒からの抜粋。
境内は仁王門、楼門、本堂、奥之院、三重宝塔、大師堂、鐘楼堂が主な伽藍。
手前の入母屋妻入りの建物は開山堂(納骨・回向堂)。
平成16年(2004)から行われた解体修理で建立年代と思われる寛政9年(1797)の墨書きと移築時の棟札が発見されたという。
もともとは多武峰談山神社の護摩堂とされ、廃仏毀釈により明治3年に岡寺に移築されたという。
堂内には阿弥陀三尊が安置される。
この左に慶長年間(1596~1615)の建立とされる楼門と古書院がありますが、帰り際にと思いながら寄り忘れました。
境内右の鐘楼堂。
建立年代は定かではないようですが、梵鐘には文化5年(1808)と刻まれています。
HPによると本堂と同時期に再建されたものと書かれており、更に鐘の中央付近に7つ穴があいているとの事です。
鐘は自由に撞けます、先客がなければ戦時中の金属供出の材質調査の目的で開けられた7つ穴を探してみては、この鐘は幸運にも供出の難から逃れる事が出来たそうです。
この辺りで咲き始めていた石楠花。
使われた土は、インド、中国、日本の土を使用して弘法大師により造られたといいます。
この大きさから日本三大大仏の一つに数えられと云いいます。
三大大仏とは銅像では東大寺大仏、木造では長谷寺の十一面観世音菩薩、塑像がこの如意輪観音坐像。
見慣れた如意輪観音の姿とは少し様相は違います。
この両脇で不動明王と愛染明王の脇侍が控えています。
右に龍蓋池の石標と左にレリーフ、その奥に小さな社と十三重石塔がある。
レリーフと解説。
「義淵僧正
飛鳥の地を荒らす悪龍を其の法力により石の蓋をもって池に封じ込め、改心させる龍は善龍となり、今もこの池に眠る。
この池を龍蓋池と名付け、龍蓋寺(岡寺)のはじまりとなる」
大和名所図解の挿絵をもとに彫られているようで、龍蓋寺の名の謂れを教えてくれています。
龍蓋池と社。
周囲を石垣に囲まれた龍蓋池、池の中央に注連縄で結界がはられた要石があります。
龍を封じ込めるには随分と浅いが、古来この石に触れると雨が降るとされ、ここで雨乞いの儀式も行われていたとされます。
今は社の下から染み出る地下水が池に注がれています。
この社の詳細は分かりませんが、言い伝えなどから、善龍となった龍神が祀られているのかもしれません。
龍蓋池の左から奥の院に続く参道と境内マップ。
龍蓋池の上に立つ十三重石塔。
ここから上に開祖の義淵僧正の廟塔とされる宝篋印塔がある。
現在は飲適ではないので飲む事は出来ないそうです。
如意稲荷明神社鳥居。
この辺りの石楠花の色合いはまた少し違いがある。
赤い鳥居の方が際立っていますが、石楠花が見頃を迎えると表情もガラッと変わるでしょう。
岡寺鎮守の如意稲荷明神社。
本殿域全体を覆うを大きな覆屋の下に、一対の狛狐が本殿を守護しています。
社殿全景。
この稲荷の創建時期等の詳細は不明。
この石窟斜面にも苔むした石仏が見られる。
山肌に穴が掘られ、入口は大きな石が組まれており、石室の趣が漂う。
石窟入口から見る内部。
窟中は屈んでいなければ頭をぶつけるほどの高さしかありません。
中には照明もあり真っ暗という事はありませんが、屈み続けられさえすれば間近で拝むことも出来ます。
ここから右に続く石楠花の道を進み、義淵僧正廟所、歴代住職の墓所を経て三重塔方向に。
石楠花の道はその名の通り、北垂れの山肌に作られた道の両脇は石楠花が群生し、見頃を迎えると道はピンクに包まれる。
この道から境内を見下ろす。
本堂、開山堂、古書院、楼門の伽藍を一望する事が出来ます。
寺の解説によれば、古来三重宝塔は旧境内地(現治田神社境内)に建っていたという。
文明4年(1472)7月21日の大風により倒壊し、翌年から再建が進められたが、完成をみず、やがて解体転用されることになり、その部材は仁王門、楼門の部材に転用された。
創建当時の塔の詳細は定かではなく、記録によれば鎌倉時代初期には岡寺に三重塔があったと記されていると云います。
塔の西側は展望がきき、明日香集落を見渡す事ができます。
昭和の始めに建立されたもので、弘法大師をお祀りする。
堂の前には稚児大師像(左)と修行大師像(右)が安置されています。 「けさみれば つゆおかでらの にわのこけ さながらるりの ひかりなりけり」
うんざりするほど人で溢れる京都に比べ、奈良は静かで落ち着けるところなのかもしれない。
岡寺
開山 / 義淵僧正
創建 / 天智天皇の御代(668~672)
中興 / 法住
宗派 / 真言宗豊山派
本尊 / 如意輪観音座像
札所 / 西国三十三所観音霊場七番札所
所在地 / 奈良県高市郡明日香村岡806