名古屋市南区元柴田西町『櫻ノ宮竜神』

名古屋市南区元柴田西町
名鉄常滑線「柴田」駅で降車、名鉄の高架をくぐり西へ10分程真っすぐ歩きます

f:id:owari-nagoya55:20191024161526j:plain柴田水処理センター修景施設のある「名古屋市上下水道局柴田水処理センター」、その敷地の一画に『櫻ノ宮龍神社』が鎮座します
大きな入口はあくまでも水処理センターの入口です、そこから境内には入れません
神社へは入口東側の道を左に進んでください

f:id:owari-nagoya55:20191024161542j:plain施設東側のフェンスで囲われた擁壁沿いを南に進みます
擁壁の上に社が見えてきます

f:id:owari-nagoya55:20191024161554j:plain擁壁の一部が開かれ、櫻ノ宮龍神の看板と階段が現れます
ここが境内入口

f:id:owari-nagoya55:20191024161605j:plain神社のある周辺一帯は江戸時代中頃まであゆち潟と呼ばれた遠浅の海
上の地図は柴田駅を中心に1891年頃(左)と現在の地図
左の地図に源兵衛新田とあります、その左の赤丸部分が鎮座地になります
水田と僅かに集落があるのみです
柴田駅の東辺りの源兵衛新田は1706年(宝永3)、大高村(現在の緑区)に住んでいた山口源兵衛により作られた新田で当初入植したのは23戸だったと伝えられています

後の1756年(宝暦6)に柴田屋新兵衛により、柴田新田として開発された一帯が櫻ノ龍神のある地域
当時の西端は現在の臨海鉄道のあたりだと云われます
1785年(天明5)の検地の際に天白川右岸(北側)を北柴田新田、左岸(南側)を南柴田新田として分けられ、嘗ての北柴田新田は名古屋市、南柴田新田は東海市となります

以降も天白川は巨大な堤防が延ばされ、海岸線は後退し、水田から住宅地や工業地帯が共存する土地柄に変わってきます
とはいえ、伊勢湾台風の甚大な被害が示すように、海と天白川はこの地と密接に関わり合う土地柄です
この神社はそうした海や天白川からの災い除けを動機に建てられたものと思われます

f:id:owari-nagoya55:20191024161622j:plain階段を上り境内へ、狛犬や鳥居はありません
北を背にして、天白川方向を向いて祀られた社

f:id:owari-nagoya55:20191024161637j:plain境内右に手水舎、左に櫻ノ宮竜神の石碑
中央に神橋の先に社という伽藍
神橋の下は水が流れていますが、施設の水を循環しているのかも?

f:id:owari-nagoya55:20191024161653j:plain龍はたえ間なく清水を注いでいます

f:id:owari-nagoya55:20191024161703j:plain櫻ノ宮竜神石碑
背面には昭和10年(1935)名古屋市建之とある

f:id:owari-nagoya55:20191024161714j:plain神橋を渡り社へ
左右の灯篭が境内で最も古そう、1922年(大正11)と刻まれている

f:id:owari-nagoya55:20191024161729j:plain社全景
参拝させて頂きます
石積みの台は見るからに新しい

f:id:owari-nagoya55:20191024161740j:plain境内左に右から竜神、庚申と並びます
左の碑は風化が進み、何か彫られているようですが分からない

f:id:owari-nagoya55:20191024161753j:plain境内右に大きな石が配されています

こちらの神社の創建、祭神などを表す由緒書きは見当たりません
創建時期は遡っても柴田新田が開発された1756年以降なのは間違いない訳で

1969年に柴田水処理センターができているので、その一画に綺麗にまとめられた境内と、海や川から少し離れたこの場所に竜神を祀る事から、当初からここにあったのではなく、開発に伴いここに遷座した様に思われます
創建は石灯籠に刻まれた年代あたり、伊勢湾台風が1959年(昭和34)に再建なのかも知れません

f:id:owari-nagoya55:20191024161804j:plain柴田水処理センター修景施設前に猫たちが集う
人見知りしない彼は最初は一匹、次に子猫・・・・・次から次に集まってくる
左の子猫は見知らぬおやじに興味津々、遊ぶ気満々

若い頃、当時華やいでいた柴田で飲みまくり、タクシー代もなく名古屋東部の自宅まで歩いて帰った思い出があります
当時賑やかだった駅前辺りも随分と落ち着いた趣となり、新田同様に時の移り変わりと共に姿を変えています
龍神が見守るこの地で変わらないものは海抜くらいでしょうか
2019/10/23


櫻ノ宮竜神
創建 / 不明
祭神 / 不明
住所 / 名古屋市南区元柴田西町2-30
アクセス / ​名鉄常滑線「柴田」駅下車 西へ10分程

長野県諏訪市『片倉館 千人風呂』

長野県諏訪市湖岸通り「片倉館」
諏訪大社本宮と前宮を参拝し徘徊しただけでほぼ夕方近くになり、一日で四社巡りは諦める事に

この要因は一重におやじに問題がある訳で・・・・・「最悪車中泊」が現実になりました

f:id:owari-nagoya55:20191023085950j:plain かみさんが予め最悪を想定し今夜の宿泊場所の候補を決めていたようです
ご指示の通り辿り着いた諏訪湖湖畔沿いの無料パーキング
夕方のこの時間は、犬の散歩やランニング目的で駐車場はほぼ満車
運良く空いていたスペースへ駐車することができました
寝場所は確保できました

せっかくここまで来たのだから、温泉にも浸かりたい
風呂上りのビールはやっぱり最高だし
サッと出てきたお風呂セット、足湯かと思っていたが、どこかに行くらしい

f:id:owari-nagoya55:20191023090002j:plain重たい足で湖岸沿いを歩く
左側に工場か美術館の様なレトロな建物、ここに行くそうな
「片倉館」といい、国指定文化財日帰り温泉施設

f:id:owari-nagoya55:20191023090012j:plain大正から昭和の初期の日本の輸出総額の約4割は絹製品であったそうで
当時、シルクエンペラーと云われた片倉財閥により、地元住民に厚生と社交の場を供する目的から1928年(昭和3)に建てられた施設
この形の参考になったのが、2代目片倉兼太郎は大正11 年~12 年の北中南米~欧州視察旅行の際に、ヨーロッパ各国の農村に、充実した厚生施設が整っている事に感銘を覚え、我国にもそのような地域住民のための施設を作りたいと願い建設されたと云われます
 特に、当時のチェコスロバキアのカルルスバーグの厚生施設に強く惹かれ、その影響を受けているそうです
夕暮れも迫りレトロな洋館に明かりが灯り、なかなかいい雰囲気です
きっと値段もそれなりにするのか?

f:id:owari-nagoya55:20191023090024j:plain鉄筋コンクリート2階建ての木造洋風建築の建物は会館、浴場、渡廊下の3棟が国の重要文化財に指定されています
この会館は見学が可能で、昭和初期のレトロな雰囲気を味わうことができるようです
当日はお休みで見学はできませんでしたが、普段は一定(5人?)の見学者が集まるとガイド付きで館内を巡ることができます
閉められた扉の前には立派な狛犬が一対置かれています

f:id:owari-nagoya55:20191023090036j:plain会館の前を通り過ぎたところに解説板、プールのような大きな風呂に視線が行きます

f:id:owari-nagoya55:20191023090048j:plain片倉館「千人風呂」外観
なんとも渋い、このレトロな外観、いい感じです

f:id:owari-nagoya55:20191023090059j:plain入口を入り下駄箱に靴を預けて番台でチケットを買い求めます
女湯は番台の左、男湯は右です

f:id:owari-nagoya55:20191023090110j:plain男湯入口
年季の入った扉とガラスの取り合わせが良くマッチしています
こんなデザインガラス、子供の頃に見覚えがあります

f:id:owari-nagoya55:20191023090120j:plain脱衣所の照明も室内の作りとマッチして洋風銭湯の雰囲気を漂わせます
100円ロッカーは使用後返却されます

f:id:owari-nagoya55:20191023090132j:plain千人風呂
さすがに写真は撮れませんのでパンフレットからのトリミングしたものです

昭和の初期に建造され、当時のロマンが漂う天然温泉大浴場
かみさんの感想を聞くと浴槽は男女とも同じ大きさでデザインも同じようでした

千人はとても無理ですが、50人程度なら楽々浸かることができます
天然温泉を湛えたプールの様な湯舟は見た目だけではありません

その深さにも驚きます、1㍍はあるでしょう、底には玉砂利が敷き詰められ、歩行浴では程よい足裏マッサージの効果が得られ、疲れた足に心地いい刺激を与えてくれます、とても気に入りました
(小さなお子ちゃまは目を離さないようご注意を)

歩行浴で疲れれば、浴槽周りの二段の石段に腰掛ければ半身浴、全身浴、もっとリラックスしたければ浴槽周りで横になる事もできます

洗い場にはシャンプーもボティーソープもあり、タオル一本でOKです

浴室内はステンドグラスと壁面に彫刻や装飾が施され、この雰囲気はどこかで見たような・・・・・
後で分かったことですが、二階の無料休憩所に飾られていた阿部寛上戸彩のサイン色紙を見て思い出す
ここは映画テルマエ・ロマエの撮影の場所となったようです

その二階の休憩所に一時間後集合の予定が浴槽周りで寝入ってしまい、ここでも待たせてしまう結果に
「ごめんなさい」です

f:id:owari-nagoya55:20191023090145j:plain脱衣所から左の螺旋階段を上がり休憩所へ

f:id:owari-nagoya55:20191023090157j:plainこの雰囲気もドラマや映画で見たような

f:id:owari-nagoya55:20191023090210j:plain休憩所入口の色紙や撮影として使われたことを示す資料が多数飾られています

f:id:owari-nagoya55:20191023090221j:plain二階休憩所
洋風でありながら、長テーブルが置かれ床に座り込む一画とテーブル席があり、セルフで飲食も提供されています
既にかみさんは座り込んでいます、風呂上がりのビールで乾杯です
男湯は結構人がいましたが、女湯は貸し切り状態だったようで、歩行浴しながら50肩で悩まされている左肩をぐるぐるストレッチしていたそうな
ここの湯は単純温泉(張性弱アルカリ性高温泉)で関節痛・神経痛・筋肉痛・五十肩などに効果があり二人には丁度好都合
パンパンに張っていた筋肉も少しは楽になりました

f:id:owari-nagoya55:20191023090232j:plain休憩所の奥から階段を上ると屋上テラスに出ることができます
特徴のある建物、至る所にデザインが施されています、無機質な新しい建物にはない温かみを感じる建築物です

諏訪湖に間もなく夕陽が落ちようとしています

f:id:owari-nagoya55:20191023090250j:plain登山やスキー、キャンプで長野を訪れても、諏訪湖は高速の通過点でした
諏訪湖周辺なかなか見どころの多いところです
重要文化財の片倉館のお風呂、なかなかのものです
さあ、晩御飯

片倉館
住所 / 長野県諏訪市湖岸通り4-1-9
泉質 / 単純温泉(張性弱アルカリ性高温泉)
効能 / 関節痛・神経痛・筋肉痛・五十肩
℡ / 0266-52-0604
URL /  http://www.katakurakan.or.jp/natural_hot_spring/
定休日 / 毎月第2・第4火曜日
料金 / 大人750円、小人450円(3才以上小学生まで)
営業時間 / 10時~21時(受付20時30分まで)
浴場棟2階休憩室の利用時間 10:00~18:00

信濃國一之宮 諏訪大社 本宮 Vol 2 「周辺寺社」

信濃國一之宮 諏訪大社 本宮 Vol 2
今回は諏訪大社本宮周辺にある寺社の一部を見て回ります

f:id:owari-nagoya55:20191022101750j:plain北大鳥居から右に進みます
社務所を左に見ながら先に進むと正面に浪除鳥居に出ます
優美な姿の鳥居をくぐり境内を出て齋館の西裏手に向かいます

f:id:owari-nagoya55:20191022101800j:plain

左手の「宮之脇公館」の脇に山に続く小道があります
その先にの斜面に鳥居が見えると思います
この斜面を登ると「大国主命社」に続きます

f:id:owari-nagoya55:20191022101810j:plain参道入口右側には石灯籠と複数の石標、小さな社が視界に入ります

f:id:owari-nagoya55:20191022101820j:plain地元ではあまり目にしない庚申塔(こうしんとう)ですが、こちらでは目にする機会が多い
庚申塚(こうしんづか)とも呼ばれる様で、庚申信仰に基づいて建てられるもの
写真のように「庚申」や「庚申搭」と彫られたもの、時には金剛像が刻まれたものなど多様なものがあります

人の体内には三尸(さんし)の虫という虫がいるそうです
三尸の虫は庚申の日に人が寝ている時を見計らい天帝(仏教でいう帝釈天)にその人の悪事を告げに行くといいます
それを避けるために庚申の日(60日/1回)は夜を徹し、天帝や猿田彦青面金剛を拝み続け、宴を催す風習です
庚申の年や庚申講を一定の回数続けた時の記念にこうした塔を建てられるようです

後方の小さな社は秋葉社
表札も掲げられ分かり易いものです、この小さな社の周りも四本の御柱が囲んでいます

f:id:owari-nagoya55:20191022101830j:plain斜面に建てられた木造鳥居
その正面に白い御柱が見えます、目的地「大国主命社」です
見上げるような右の斜面にも一社あるようです

f:id:owari-nagoya55:20191022101840j:plain大国主命社」
傾斜地に建つ神社は、素木造の自然の色合いで周囲に溶け込むように鎮座しています
地元では「榧ノ木様」と呼ばれる様で、左手に大きな榧ノ木が聳えています
この社殿は本宮で遷座を終えた旧宝殿
それを移築再利用したもの、なのでここを訪れれば宝殿の全容が見れると言う事です
どことなく神明造に似ているような気もします

諏訪の神社は先程の秋葉社もそうであるように、神社には御柱が立てられるのが一般的な光景かもしれません
階段も上がれるようですが、御柱に囲まれた領域なので内部を窺うのはやめておきます

杜に佇むこの神社の姿、とても好きになりました

f:id:owari-nagoya55:20191022101850j:plain大国主命社」の脇の石標
大聖不動明王、月山、湯殿山、目黒山大権現と彫られています
その先は蚕玉社

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 蚕玉社
祠には額らしきものがあり、何か書かれていたような跡は見えます
地元宮之脇の神社で「蚕の神」を祀るそうで、諏訪大社摂末社ではない様です

祠の内部、中央と両脇に鈍く輝く紋は葵の紋の様に見えないでもない
少し調べてみる必要がありそうです

斜めった場所、祠前にもカメラを構えるほどの余裕がないので、下手をすると斜面を滑り落ちる事になるやも、結構な斜度があります
住所 / 長野県諏訪市大字中洲神宮寺

次は東参道に戻ります

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東参道のニノ鳥居から左に上り、赤い山門の法華寺へ向かいます

f:id:owari-nagoya55:20191022102109j:plain神宮寺配置図後方の神社は蠶(こ)玉神社
蚕の女神様ですかね
こちらも御柱は四方を囲んでいます
蠶玉神社も大国主命社同様で諏訪大社摂末社ではないようです

f:id:owari-nagoya55:20191022102119j:plain蠶玉神社後方にも庚申塔、あっちこっちで見かけることができます

f:id:owari-nagoya55:20191022102130j:plain鷲峰山法華寺、古くは天台宗の寺だったけれど鎌倉時代に当時の領主蓮仏入道盛重が中興し、建長寺蘭渓道隆を招いて臨済宗に改宗したといわれ、諏訪大社上社の神宮寺
その事を示す様に、山門と本堂の大棟には諏訪大社の神紋が飾られています

往時には七堂伽藍を誇る大きな寺として栄えた法華寺
信長の武田家滅亡の本陣として諏訪大社本宮を焼き払いに使わたり、神仏分離廃仏毀釈で建物が払われたり、1999年(平成11)には火災で焼失するなど様々な出来事を見てきました

現在の本堂は焼失後に再建されたもの、現在は特徴のある赤い山門と本堂、寺務所と庫裏のみの伽藍
諏訪大社鳥居入口にありながら、ここを訪れる参拝客は意外に少ないようです

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そんな山寺の趣のある法華寺ですが
赤穂浪士」や「本能寺の変」につながるきっかけの舞台となった場所

1582年(天正10)、信玄の高遠城を攻め落とした織田勢は、その勢いのまま北上し諏訪大社上社本宮を焼き払った、その戦火から免れた法華寺は信長勢の本陣として、武田家滅亡後の論功行賞が行われた場とされます
信長はその場で明智光秀を叱責したとされ、面子を潰された光秀は本能寺の変を起こすきっかけとなったと伝えられています

赤穂浪士法華寺のつながりはよく分からないけれど、吉良上野介の養子だった吉良義周は1702年(元禄15)の吉良邸討ち入りの当事者の1人とされ、領地を取り上げられここ高島藩に流されたそうです
義周は1706年(宝永3)に他界、その亡骸はここ法華寺に土葬されたとされます

f:id:owari-nagoya55:20191022102153j:plain文殊普賢菩薩、釈迦如来・・・・・原発?

f:id:owari-nagoya55:20191022103049j:plainまだ前宮と本宮を参拝しただけですが、秋を感じるこの時期になると陽が陰るのは早いものです
夕陽の差し込む境内、大棟の神紋が輝いてきます

f:id:owari-nagoya55:20191022102213j:plain吉良義周の亡骸はここに眠っています

f:id:owari-nagoya55:20191022102227j:plain境内左の石碑群と大黒様を祀る小さな社
法華寺
住所 / 長野県諏訪市中州神宮寺856

石碑の左手には更に上に続く道があります

f:id:owari-nagoya55:20191022102243j:plain

短い坂道の先に墨繩神社の明神鳥居と社殿、その前に立つ御柱が見えています

f:id:owari-nagoya55:20191022102259j:plain白い御柱が間近に近づいてきました

f:id:owari-nagoya55:20191022102313j:plain墨繩とは聞きなれないかも知れません
これは大工さんが使う、線を引くための道具の事
墨の中に糸がまかれ、糸を引き出し摘み上げその糸を離せば、真っすぐな長い墨の直線を引くことができるもの
現在も使われる現役のアイテム、ここは名前の如く大工さんに縁のある神社

f:id:owari-nagoya55:20191022102325j:plain 墨縄神社
住所 / 長野県諏訪市大字中洲神宮寺

更に上を目指します
すると視界は開け、傾斜地に平坦な一画が現れます

f:id:owari-nagoya55:20191022102338j:plainそこには鐘楼、神宮寺仁王門、五重塔などの跡が残ります
神宮寺伽藍は今はほぼ現存しません、現在残るのは「神宮寺」の地名のみ
この平地は現在マレットゴルフ場として地元で使われています

f:id:owari-nagoya55:20191022102349j:plainその南側の急斜面に登れとばかりに「信玄公墓碑」の看板が導いています
現在の根羽村で亡くなった信玄は、この地の諏訪湖に沈められたと云われます
その信玄の墓碑がこの斜面にあります、それも目立たない様にひっそりと小さな岩が置かれるのみ

ここまで登ると解説があるものと思っていたけれど、解説板はありませんでした
三つある石の左のものが「信玄公墓碑」となります
信玄の墓は諏訪湖含めて複数あり、どれが真実なのか気にはなりますが
そこを明らかにする必要はないものかも知れません

f:id:owari-nagoya55:20191022102400j:plain「信玄公墓碑」から斜面をまっすぐに下っていくと墨縄神社の後方に出ます
後ろにも御柱ありますね
そこから下に続く石段を下りていくと東参道に戻る事ができます

f:id:owari-nagoya55:20191022102412j:plain参道脇の案内図
法華寺のある右から左に横断し、下に下ったことになります
ここから一の鳥居のある右方向に行きたいところですが、相当かみさんを待たせています
駐車場に戻る事にします

それにしても信玄公墓碑の斜面は足にきました、一日で4社巡りの予定はタイトなようです
車中泊で決まりかな?

信濃國一之宮 諏訪大社 本宮 Vol 1

長野県諏訪市中洲宮山
諏訪大社本宮
前宮​から車で県道16号線(岡谷茅野線)を西に5分程走ります
やがて諏訪大社本宮の大鳥居をくぐり本宮駐車場に到着です

訪れたのが日曜なので満車を予想していましたが、午後を随分過ぎていたこともあるのかな
無料駐車場に駐車することができました

f:id:owari-nagoya55:20191019183235j:plain本宮駐車場前の参道から右手の眺め
車でくぐってきた大鳥居がはるか先に見えます
鳥居の脇には若宮八幡社がありますが、あとから参拝することにして本宮へ

f:id:owari-nagoya55:20191019183257j:plainはるか八ヶ岳から切り出された本宮の御柱、前後にV字型の梃子棒「メドテコ」が付けられ里曳きされここまでやってきます
石橋もあり、二ノ鳥居もある、この間口をメドテコが付けられたまま境内に曳き入れられます
すべては人の手で行われます

f:id:owari-nagoya55:20191019183317j:plain御手洗川に架かる石橋から見た手水舎、手水鉢
けっして広いとは思えないこの間を曳いていくのか
一人ではなにもできないけれど、同じ目的を持つ集団になることでとてつもない事が可能になる

f:id:owari-nagoya55:20191019183335j:plain石橋の左に境内案内図
左奥の赤い山門は法華寺、蠶玉神社

f:id:owari-nagoya55:20191019183352j:plain 石橋から境内方向
正面に「入口御門」、左に「絵馬殿」、右に「本二の御柱
この御門は1829年(文政12)宮大工棟梁の五左衛門親貞とその弟子藤森廣八により建てられたもの
各所に施された彫り細工は見事なものです

f:id:owari-nagoya55:20191019183414j:plain入口御門手前左に「出早社」
祭神 / 出早雄命
諏訪大神の御子神、地元の人々にお諏訪様の門番神として、古くからイボ石神として崇められているそうです
小石を捧げイボの全快祈ると治癒するらしい

f:id:owari-nagoya55:20191019183435j:plain右手奥の建物は神馬舎
古くより諏訪大神の神馬の屋形、明治以降は背に御幣を立てた銅製の神馬と木製の神馬が安置されています
左の朽ち果てた大欅の株
明治27年の台風で倒れ、神馬舎を押し倒したそうです、その被害を受けながら神馬は倒壊した建屋の先に飛んで(飛ばされた?)も全く被害を受けなかった」と書かれています

f:id:owari-nagoya55:20191019183455j:plain神馬舎に掲げられた色褪せた奉納額
文化元年(1804年)甲四月と書かれているように見えます

f:id:owari-nagoya55:20191019183514j:plain神馬
白と黒の顔つきのいい神馬
穂高神社里宮の神馬のモデルは木曽馬だったけれど、こちらのモデルはなんでしょう
いずれにしても神馬舎倒壊の瞬間、彼らは飛んだ
それが偶然にしても彼らは間違いなく何か持っている

f:id:owari-nagoya55:20191019183532j:plain神馬舎から御門周辺の全景
「本宮二之御柱」は御門の隣り合わせで建てられています
よくぞ、このギリギリに建てられるものです
御柱祭り、一度はこの目で見なければ

f:id:owari-nagoya55:20191019183550j:plain御門の先は布橋が続き、その脇に絵馬殿、摂末社遥拝所、宝殿、四脚門へと続きます
雨の参拝時には有難いものです

f:id:owari-nagoya55:20191019183623j:plain絵馬殿内の絵馬の数々
どれも色褪せ年代も読み取れないけれど、絵馬殿右(写真下段右)に安置された砲弾に視線が止まる
再び弾を使う時代があってはならない

f:id:owari-nagoya55:20191019183649j:plain摂末社遥拝所
1828年(文政28)建築されたもので、昔は十三所遥拝所とも呼ばれ、上の十三所、中の十三所、下の十三所の三十九所の摂末社を遥拝する場所
諏訪大社摂末社は実に100を超えると云われます

f:id:owari-nagoya55:20191019183710j:plain摂社 大国主
祭神 / 大国主命
諏訪大神の御父神大国主命を祀る、諏訪大神は大国主命の第二子とされる

f:id:owari-nagoya55:20191019183731j:plain布橋から勅使殿、五間廊を過ぎると右下に神楽殿が見えきます

f:id:owari-nagoya55:20191019183752j:plain

御宝殿
四脚門を挟み東宝殿、西宝殿があり、12年毎に旧殿を作り替え、6年の時をかけ清めらた後に遷座する
なので、常に新旧の二殿があります
御神輿、御神宝が必ず新しい宝殿にあるものではないようです
2018年(平成28)諏訪大社上社宝殿遷座祭が行われ、現在は東宝殿に祀られています

f:id:owari-nagoya55:20191019183812j:plain四脚門
1582年(天正10)兵変により焼失、1608年(慶長13)に徳川家康が当時の佐渡金山奉行の大久保長安に建立させたもの
四脚の門の扉は閉まっていますが、ここから正面の脇拝殿の屋根の先を眺めると山肌に硯石を見ることができます
凹面の石は常に水を湛えていることから硯石と付けられたといいます

f:id:owari-nagoya55:20191019183834j:plain布橋出口から布橋と西宝殿

f:id:owari-nagoya55:20191019183901j:plain 南側の透塀の奥が拝殿
北側には北参道の鳥居と一之御柱があります

f:id:owari-nagoya55:20191019183922j:plain境内手水鉢
清水と途切れることはなく注がれ、鉢は緑も鮮やかな苔に覆われています

f:id:owari-nagoya55:20191019183940j:plain境内に入った正面が宝物殿

f:id:owari-nagoya55:20191019184002j:plain右手が参集殿と授与所
御朱印はこちらです、かみさんの姿はとっくに見えない

f:id:owari-nagoya55:20191019184029j:plain宝物殿の左「本宮四之御柱遥拝所」
山肌に皮の剥かれた白い御柱が見えます
あそこまで上げ、更に立てる・・・・・すごいエネルギー

f:id:owari-nagoya55:20191019184058j:plain勅願殿
1690年(元禄3)に建造され、諏訪大神が宿る南の守屋山(標高1,650㍍)に向かい建てられています

f:id:owari-nagoya55:20191019184118j:plain境内の堀重門から北側参道の眺め
大鳥居の先に真っすぐに参道が伸びています

f:id:owari-nagoya55:20191019184139j:plain

f:id:owari-nagoya55:20191019184209j:plain参拝所
広い斎庭の先に幣拝殿と左右の片拝殿
参拝者は途切れることがありません

f:id:owari-nagoya55:20191019184241j:plain斎庭右の神饌所、左から脇拝殿に続きます

f:id:owari-nagoya55:20191019184303j:plain4本の根のある諏訪梶の葉の神紋、正面に鏡が輝いています
参拝です

f:id:owari-nagoya55:20191019184331j:plain幣拝殿の後方に幣殿が見えます
片拝殿と幣拝殿のこの配置は諏訪造と呼ばれるもの
祭神は建御名方神

参拝を済ませ北参道に向かいます

 

f:id:owari-nagoya55:20191019184353j:plain祈祷殿
石段を下りた左側にあり、車等のお祓いはここで行うようです

f:id:owari-nagoya55:20191019184416j:plain祈祷殿の西隣にある高島神社
祭神 / 諏訪頼忠、諏訪頼水、諏訪忠恒
諏訪大神の子孫、諏訪氏を祀る

f:id:owari-nagoya55:20191019184437j:plain浪除鳥居
紀元二千六百年祭の際に建て替えられたものを、2009年解体修理を行い再建した木造4脚の明神鳥居

f:id:owari-nagoya55:20191019184456j:plain北参道大鳥居
2003年(平成15)に建てられた鳥居
今では石橋のある東鳥居に対し、駐車場や参道脇の土産物屋など表参道的な趣がある
まっすぐ境内を進めば幣拝殿に直ぐアクセスできる

f:id:owari-nagoya55:20191019184521j:plain北鳥居脇の手水舎手水鉢、その右に明神湯

f:id:owari-nagoya55:20191019184543j:plain 明神湯(上段)
これは龍ではなく獅子でしょうか
諏訪明神所縁の温泉が湧き出ていて、諏訪温泉の源泉ともいわれる
湯に触れた手はなんとなく潤いを感じる

雷電 爲右エ門像(下段)
明神湯の隣にあり、幕末の信州小県郡大石村出身で大相撲の歴史上最強と云われた力士雷電のブロンズ像
左に雷電の手形があり、その大きさを知ることができます

f:id:owari-nagoya55:20191019184609j:plain

北鳥居の狛犬
胸を張って佇む姿はなかなか凛々しい姿をしています
手水舎の先に立つのが「一之御柱

f:id:owari-nagoya55:20191019184634j:plain

楽殿
北鳥居から左に進み雷電像の右隣にあり
1827年(文政10)に建てられたと云われています
中央には大きな太鼓がある

f:id:owari-nagoya55:20191019184656j:plain以前の太鼓は牛の一枚皮では日本一の大きさと云われていたそうです
楽殿棟上げの際に太鼓の皮を張り替えた記録があるようで、胴はそれ以前に作られたようです
現在置かれている太鼓は平成22年に奉納された新しいもので、直径は2.1㍍と神楽殿の天井に迫るものです

f:id:owari-nagoya55:20191019184736j:plain楽殿の左に冠木門

f:id:owari-nagoya55:20191019184800j:plain

冠木門参道脇の土俵
その先に勅使殿、五間廊

f:id:owari-nagoya55:20191019184827j:plain楽殿の向かいに「天流水舎」
本宮七不思議のひとつに数えられるそうで、「どんな晴天でも屋根の上から雫が三滴は降り落ちる」と云われ、その水を持ち帰り雨乞いをすると必ず雨が降ると云われる

f:id:owari-nagoya55:20191019184853j:plain天竜水社の左、布橋に続く石段の両脇の狛犬
とても小さなものですが、その姿は立派なものです

f:id:owari-nagoya55:20191019184917j:plain布橋に沿うように建つ勅使殿(左)、五間廊(右)
五間廊
1773年(安永2)に建てられたもので、廊下様式の切り妻造り

f:id:owari-nagoya55:20191019184938j:plain五間廊とその先の勅使殿
切り妻の唐破風造りで1690年(元禄3)に創建され、安政年間に大修理を受け
元旦の蛙狩神事や御領受神事など行われた場所、蛙狩神事については色々な意見があるようです
先祖が面々と受け継いできた習わしの多くが消えることだけは確かです

f:id:owari-nagoya55:20191019185001j:plain五間廊の左を進むと神馬舎側面に至ります
横から見る神馬舎は屋根の棟に対し、棟の半分が軒を兼ねた構造です

f:id:owari-nagoya55:20191019185030j:plain諏訪大社本宮案内図
北参道から左に参拝するのが参拝作法の様です
三之御柱は探して見るも見当たりませんでした
かみさんとは完全に逸れてしまった、お怒りのラインが届くまで周辺を見て廻ろう
「ごめんなさい」です

f:id:owari-nagoya55:20191019185052j:plain

f:id:owari-nagoya55:20191019185112j:plain四社まいりの2社目、本宮参拝完了です

信濃國一之宮 諏訪大社 本宮
創建 / 不明
主祭神 / 
住所 / 長野県諏訪市中洲宮山1
アクセス / ​前宮から国道152経由県道16号線(岡谷茅野線)を西に5分

歩道旗の復活はできないものか

昨日の新聞に「信号機のない横断歩道で自動車の一時停止率…」の記事があった

「手を挙げて横断歩道を渡りましょう」子供の頃にそうして教わった時期があった
実は1978年の教則改正で「車がくる道路を横断するときは、手をあげて合図をし、車が止まったのを確かめてから渡りましょう」と書かれた一文が消されたというのです
自動車側の停止義務自体は何ら変わりません、止まるものなんです

文言が消えた背景にはいろいろあるようです
「手を上げれば渡って大丈夫的な誤解を植え付ける」とかあった様です
手を上げる行為自体は運転する側から見ると意思表示として、小さな子供たちの視認性向上としてとてもありがたい
「渡らないだろう」「いた事自体分からなかった」など、事が起きてそうした事を聞くこともあるだけに手を上げる行為は一定の効果はある

渡る前に手を挙げ、渡りはじめる歩行者も最近では滅多にお目にかからない、
それどころか渡るのか、渡らないのか行動が読み切れない歩行者も存在する、車側から見て止まらなくなるのも分からないでもない・・・・・でも違反です
近頃は大人が歩道の前で立ち止まっても、なかなか止まらないのが実態です……そもそも違反

地方に出かけた時の事
通学時間帯の信号のない横断歩道、手前で手を挙げる小学生、車を停止するとその場で「ペコつ」とお辞儀をして渡り始める子供に出くわしました
ドライバー側も思わず軽く手を挙げ「どうぞ渡って下さいの意思表示」が自然に生まれるものです
その子は横断し終わると再びこちらに向かって「ペコっ」
車が止まるのは当たり前の事とはいえ、とても気持ちのいい瞬間を与えてくれました

なんだろう、今は色んな意味で運転者側、歩行者側も自己中になってコミュニケーションが不足していのかも知れません

下の写真もそちらで見かけた光景です
昔は何処でもこうした横断旗が有って、渡り終えると容器に入れていたものです
これが無くなった背景も色々ある様です

f:id:owari-nagoya55:20191018161736j:plain
「手を上げるのは少し恥ずかしい」と思う方もいると思います、この横断旗、意思表示には「絶好じゃないのか?」とふと思う
戻さない輩とかがいて「補充しても直ぐになくなる」その昔かみさんが嘆いていたこともあった

ここはひとつオシャレでSNS映えするMY歩道旗で意思表示は如何か
歩道旗を掲げても止まらないドライバーは警察にお任せして、反則金からボランティア活動一週間にしてはどうだろう
そして止まってくれた車(・・・・・止まるものです)に何かしらの意思表示をする事でお互いが気持ちいい一瞬が得られることで毎日が一層楽しくなるのかも

『濱神明社』市内最古の十七夜月待供養塔

 名古屋市瑞穂区塩入町

地下鉄名城線堀田駅から徒歩で1~2分のところに「濱神明社」が鎮座します 神社南側には100均ショップがあり分かり易い 

f:id:owari-nagoya55:20191017110302j:plain 神社は東側道路に面し、鳥居と本殿は東を向いて祀られています 

f:id:owari-nagoya55:20191017110312j:plain 道路を挟んだ反対側に手水舎と社務所?があります 

f:id:owari-nagoya55:20191017110329j:plain 手水鉢には清水は注がれていません 

f:id:owari-nagoya55:20191017110340j:plain 「濱神明社」全景

境内西側はマンションが迫り、両側を店舗とビルに挟まれています

街中で良く見かける神社の光景です

右に大きな社号標、正面に三社祀られているようです

街中の境内、けっして広いものではないですし、この収まり方は近隣から遷座してきた

結果なのかもしれません 

f:id:owari-nagoya55:20191017110351j:plain 社号標 なかなかに立派なものです 

f:id:owari-nagoya55:20191017110403j:plain 左に名古屋市教育委員会解説板と見所案内板(​東ノ宮神社​) この一帯を記載する時に決

まって「この一帯は過去は海または海岸線、新田開発により田園化された地域・・・・・」

という流れになりますが、ここ濱神明社のある瑞穂区塩入町も正にそれです

昔のこの辺りは呼続の浜と呼ばれ渡付場があったあたり

名古屋市の史跡巡りには以下の様に解説されています

「昔のこの辺りは呼続の浜と呼ばれ渡付場があった 東北、土居の浜には塩焼所があり神宮に塩を奉納していた

天白川の築堤後は田園となり害虫を除き五穀豊穣を祈るため、天照大神を祀った 明治41年津賀田神社に合祀されたが、昭和15年現地に遷座された

境内には天正17年1589年の刻銘がある市内最古の月待供養碑、神道関係の碑として珍しい斗帳寄進碑(対のうちの一基は津賀田神社にある)

西行の和歌を愛した者が作ったという西行腰掛石がある」

とある こちらを訪れた際は、上の解説板を見て頂ければ見落としがないかも知れません 

f:id:owari-nagoya55:20191017110415j:plain
境内社全景 左右に常夜灯と、石積みの神域に三社が祀られています

右手の碑が解説板にあった市内最古と言われる月待供養塔、左に燈籠の陰で見えませんが斗帳寄進碑があります 

f:id:owari-nagoya55:20191017110426j:plain 祭神は天照大神、左右の小社は不明 (写真は3枚張り合わせ) 

f:id:owari-nagoya55:20191017110439j:plain 十七夜月待供養塔、驚くのは1589年(天正17)に刻まれた文字が今も明瞭に読み取れる事

天正十七年巳丑五月吉日 敬白十七夜待開眼供養の所 尾州愛知郡分野住人四郎五郎 現世安穏後生善所」 三つの〇の中に丸の中の梵字は種字といい、仏を一文字で表したもの

左は不動明王を表す「カーン」、左が毘沙門天の「ベイ」、そして中央に勢至菩薩の「サク」と刻まれ、中央部分が五輪塔に彫られているのを見ると思いますが「キャカラバア」と言うそうです 空輪、風輪、火輪、水輪、地輪を表します 

f:id:owari-nagoya55:20191017110453j:plain 神域左の斗帳寄進碑 斗帳寄進碑は伊勢神宮に斗帳(幔幕)を寄進し祈願成就を祈った記念碑

これの対になるものが津賀田神社にあるという こちらの碑は表面が風化し、書いてあるのは分かりますが読み取れません 

f:id:owari-nagoya55:20191017110505j:plain 十七夜月待供養塔の前の皐月の植え込みの下の石に「西行腰掛石」

西行法師が熱田神宮で「かくばかり 木陰すずしき 宮立ちを 誰が熱たと 名づけ初めけむ」と詠んだことから、彼の熱烈なファンが寄進したものだと言います

実際に西行法師かここに腰掛けたというものではない様ですが、上部には手形も彫られ、側面に西行法師腰掛石と彫られています

腰掛けるには丁度いい形はしています 

f:id:owari-nagoya55:20191017110519j:plain 境内から鳥居方向の眺め 昭和13年建之の鳥居から先は本来参道が伸びていて、道路により分断されたということだろう

塩入町の濱神明社、海は遠く離れてしまったけれど、その昔ここが海に接していたことを表す語り部のような存在です

神明社 創建 / 不明

祭神 / 天照大神

住所 / ​名古屋市瑞穂区塩入町14-5

アクセス / 地下鉄名城線「堀田」駅下車北に1分

『稲宮神社』 静岡県伊豆市土肥

静岡県伊豆市土肥
静岡方面の一之宮巡りの際、こちらの大江戸温泉物語に宿を取りました
随分計画が遅れてしまい、宿に着いたのはチェックインリミットぎりぎり

f:id:owari-nagoya55:20191016005744j:plain当然食事も一番最後、土肥温泉に浸かり、湯上りのビールをひっかけ、かみさんと夕涼みに
黄昏時の海岸を眺めながらの夕散歩

f:id:owari-nagoya55:20191016005753j:plain時間を潰してホテルに戻り晩御飯です
若い頃と違い食も細くなりメインは刺身と酒、これだけあればおやじは満足ゝ
肉ゝ星人のかみさんには海辺の旅館は物足りないかもしれない
温泉にも入って、おなかも満たされ部屋で二次会ゝ・・・・・速攻で爆睡

人は歳と共に目覚めが早くなるのは事実です
翌朝は当然ながら早朝に目が覚める、ホテル周辺を散策する事に

f:id:owari-nagoya55:20191016005804j:plainその際に見かけた「稲宮神社」へ立ち寄ってみました
国道146号線から少し東に入った場所で、山を背に海に向かって鎮座します

f:id:owari-nagoya55:20191016005821j:plain石鳥居に架けられた稲宮の扁額、その先に祠が二つ

f:id:owari-nagoya55:20191016005832j:plain切妻の小さな祠
手前が本殿で右は天王社の様です、見た感じで天王社の祠は最近立て替えられたと思われます

f:id:owari-nagoya55:20191016005843j:plain鳥居正面の本殿

f:id:owari-nagoya55:20191016005857j:plain右の天王社本殿

主祭神は食物の神様と云われる豊受比賣命、右の天王社は牛頭天皇
稲宮神社は屋形地区の鎮守で、いつ頃創建されたものか良くわからないけれど
南北朝時代の「伊豆国神階帳」に「従四位上いなみやひめの明神」と記載が残り見た目以上に創建は古いようです

元はこの地の水口家の氏神から始まったと云われます
ただ、古い記録には1854年(嘉永7)の安政東海地震による大津波によって伽藍は流出してしまった様です
現在の伽藍はその後に再建されたもの

三方に山が迫り、西に海と接した扇状地の土肥、現在は国道と温泉宿、民家が立ち並ぶ街並みですが
社名の稲が示す様に、古くは神社と海岸の間は水田だったそうです
室町時代中期のこの地では既にぬるい温泉が自噴していたようです
水口正入道の頃、この温水を田に導き、それにより育てられた稲の生育は何処よりも早く、旧六月には収穫できたと云われます
収穫された米は御新米として徳川将軍家に献納され、1874年(明治7)に廃止されるまで上納の儀として献上されたようで、境内には新米献上の碑が残りそのことを伝えています

f:id:owari-nagoya55:20191016005909j:plain境内右に石の祠がありますが詳しい事は分かりません

f:id:owari-nagoya55:20191016005923j:plain境内の左側から山に続く石段、その途中に小さな社があります
津波の際はここが避難ルートになるのでしょう

f:id:owari-nagoya55:20191016005935j:plain額はなく社号は分かりません、中のお札には天照皇大神宮と書かれている

f:id:owari-nagoya55:20191016005948j:plain祠の左に小さな石の祠と赤い帽子と羽織を着せられた女性の石像が安置されています
こちらも解説板はなく詳細は不明

f:id:owari-nagoya55:20191016005957j:plainこの祠から土肥湊の眺め、手前右は境内に建つ屋形区公民館
こちらで尋ねると全てが分かるのかもしれません
稲宮神社
創建等詳細不明
住所 / ​静岡県伊豆市土肥2833
祭神 / 豊受比賣命


神社から北に歩いた土肥金山

f:id:owari-nagoya55:20191016010010j:plain北条氏や徳川幕府の財源を潤した金山、昭和40年まで実際に採掘されていたようですが
採算が取れず廃坑となり、現在は観光坑道と250kgの金塊が展示されているようです

早朝なので静かなものです

f:id:owari-nagoya55:20191016010020j:plainここで見かけた伊豆半島の成り立ちを纏めた解説板
急峻な山々に囲まれ、温泉の恵みと金・銀の鉱物資源、そして豊かな海の恵み
ダイナミックな大地の営みは今も動いている事が伝わってきます
住所 / ​静岡県伊豆市土肥2833

この近隣にもう一つ金山があります

f:id:owari-nagoya55:20191016010031j:plain
「龕附(がんつき)天正金鉱」がそれで、1557年(天正5)に伊豆最初の手掘りの金山として開発されたもの
伊豆市指定文化財になっています

f:id:owari-nagoya55:20191016010040j:plain竹が生い茂る小高い山に掘られた横坑の全長は60㍍と云われ、坑道の最深部に祀られた幸福をもたらす山の神が「がん」と呼ばれ「龕附天正金鉱」はそこからきているようです
内部は・・・・・真っ暗
住所 /  ​静岡県伊豆市土肥2851

足湯黄金の湯

f:id:owari-nagoya55:20191016010051j:plain土肥の中心を流れる山川の左岸にある足湯
土肥温泉の起源は、山川の対岸にある安楽寺境内の「まぶ湯」を発見年としているようです
その発見年は1611年(慶長15)であったり、1673年(延宝年間)など定かではありません
初めての土肥の湯は、硫黄臭等の臭気のない無色透明でさらっとした湯
かみさんを悩ませている50肩には効能があるようです

世界一の花時計と馬頭観世音菩薩

f:id:owari-nagoya55:20191016010100j:plain山川の左岸の松原公園内北側にあり、平成3年に完成した直径31㍍の世界一の花時計
その大きさはギネスにも認定された様です
文字盤の周囲には四季を彩る花が植えられ、時刻が見やすい様に展望台も設けられています

馬頭観世音菩薩

f:id:owari-nagoya55:20191016010110j:plain花時計の西側の松林の傍らの小さな堂
内部には複数の石造が祀られています
年代は不明で表面は風化が進み輪郭が分かりませんが、中央が馬頭観音の様に見えます

足湯黄金の湯・世界一の花時計・馬頭観音
住所 /  ​静岡県伊豆市土肥2657-6

静岡県伊豆市土肥、初めて宿泊しましたが古い寺社も多々あり、温泉や海の幸に恵まれたいい所です