稲置街道の三十三観音石仏

『御日塚神社』から稲置街道を北へ5分程歩く。

f:id:owari-nagoya55:20210320192852j:plain今年初めて土筆の姿を見かける。
しかも道路と側溝の僅かな隙間から立派に生えている。
自然のたくましさを感じる。

f:id:owari-nagoya55:20210320192916j:plainここは犬山市羽黒新田上島。
犬山と云えば犬山城木曽川の鵜飼いで知られるところ、マンホールにもそれがデザインされています。
地元を離れ地方に出かけると、こうして下を向いてマンホールのデザインを見て歩いているとその土地の誇りが良く分かって楽しいものです。
随分コレクションも貯まってきた、それら纏めたい気持ちはあるのだが・・・・・

f:id:owari-nagoya55:20210320192944j:plain歩いてみて初めて気付くものもあります。
この堂もその一つかもしれない、車でささっと移動していると気付かないかもしれない。
住所だと羽黒新田上島になるのかな、細い道が街道に交わる角地に大きな岩とその左に石像が安置され、奥には瓦で葺かれた堂の中に複数の石仏が安置されているようです。
遠目から見ると庭石が置いてあるようにも見える。

f:id:owari-nagoya55:20210320193016j:plain石標もなく名称は分かりません。
この後方の建物は集会所だろうか、北野会館と書かれていた。
集会所や公民館の一画に良く神社等祀られていたりしますが、ここもそうなのかな。

f:id:owari-nagoya55:20210320193043j:plain右側に岩が積まれ、その頂に石像が安置されています、覚明行者の石像の様です。
手前に解説もあり内容は以下。
御嶽信仰中興の祖、覚明行者石像 御嶽山黒沢口からの登山道を整備、御嶽登拝を容易にして御嶽信仰を一般民衆に広めた人物」とある。

覚明行者の誕生の地は春日井市牛山町とされます、ここからそれ程遠いとは言えない。
今も御嶽講は受け継がれているようで、この一帯や小牧、春日井方向にかけて、こうした像や御嶽神社をよく見かけます。
左の石標は「御嶽山大権現」、この一画そのものが霊峰御嶽という事です。
この辺りなら空気が澄んでいれば東方向に山々の先に遠く御嶽の姿も拝めるはずです。

f:id:owari-nagoya55:20210320193112j:plain堂内には西国三十三観音石仏が安置され、馬頭観音如意輪観音、十一面観音の姿が見られます。
それらの石仏には文字は刻まれていますが「番」以外はよく読み取れない。
西国三十三所の札所の本尊は観音菩薩、十一面観音、不空羂索観音、千手観音、馬頭観音准胝観音如意輪観音のいずれかが本尊。
観音菩薩は三十三の姿に変化し導きを与えてくれることから三十三の札所となるそうです。
現存するかよく分かりませんが、この辺りを中心にした霊場巡りもあるようです。

街道の道すがらには小さな堂に安置された石仏や、個人宅の敷地に埋没した道標など退屈する事はありません。

区画整理された街ではこうしたものも寺の境内に移されたり、ある時突然消えていたりします。
郊外に出てこうしたものが残っている姿を見ると、作り手や安置された個人の思いが尊重されているようで足は止まってしまう。

稲置街道の三十三観音石仏
住所 / 犬山市羽黒新田上島1
アクセス / ​『御日塚神社』から北へ徒歩5分​ 
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『御日塚神社』愛知県犬山市追分

犬山市追分「御日塚(おひづか)神社」

f:id:owari-nagoya55:20210319014311j:plain名鉄小牧線「楽田」駅。
踏切には大縣神社の社号標が建っていて、ここから東は大縣神社への参道です。

f:id:owari-nagoya55:20210319014329j:plainここから東に進む道路は県道大縣神社線と呼ばれ、この地方では結構知られた大縣神社に続きます。
今回は稲置街道沿いを歩くのが目的なので参拝に訪れませんが、機会を見て訪れたい神社のひとつ。
さて踏切を超えて稲置街道に向かいます。

f:id:owari-nagoya55:20210319014343j:plain駅から西に出て細い路地を進んで行きます。
ここが既に稲置街道。
江戸時代、名古屋城下と犬山城下を結んだ脇街道で犬山街道とも呼ばれています。
名古屋城東大手門から中山道鵜沼宿を終点とする街道で、稲置の由来は当時街道沿いにあった村の名称から付いたと云われています。
この辺りの住所に追分と付くように、上の写真で正面の教会のところから道路は分岐し、右が上街道 (木曽街道)、左が稲置街道に分かれます。
なので目的地へは左の稲置街道に進んで行きます。
街道を歩く目的で訪れる方に出会うこともなく、距離感を意識する必要はありません。

f:id:owari-nagoya55:20210319014403j:plain追分から歩いて5分もかからなかったと思います、街道沿いの住宅地の外れに神社が現れます。
ここが「御日塚神社」街道沿いに神明鳥居と社標があり社地は玉垣で囲われています。
大きな杜がないので境内の社殿はよく見通すことができます。

f:id:owari-nagoya55:20210319014428j:plain街道から社殿側面の全景。
境内は綺麗に手入れが行き届きとてもすっきりした印象。
瓦葺の四方吹き抜けの拝殿と同じく瓦葺の覆殿というシンプルなもの。
いかにも追分の氏神様という佇まい。

f:id:owari-nagoya55:20210319014446j:plain境内全景。
大きな杜がないので、それが開放的で風の通りのいい明るい神社の印象を受けます。

f:id:owari-nagoya55:20210319014505j:plain鳥居から境内に入った左に手水鉢。
当然清水は張られていない、随分と年期を重ねているようですが、この鉢から始まって鳥居など奉納年を見忘れました。

f:id:owari-nagoya55:20210319014527j:plain拝殿正面全景。
外観は飾りを廃した質実剛健ともいえるシンプルなもの。

f:id:owari-nagoya55:20210319014545j:plain拝殿から本殿の眺め。
覆殿の内に祀られた本殿まで見ていないので造りは分かりません。
それでは参拝させてもらいます、僅かな賽銭大きな祈願。

御日塚神社の創建は1598年(慶長3)と見た目以上に古くから鎮座しているようです。
祭神は食物や家畜の神とされる保食神(うけもち神)を祀る。
ここまでは分かったけれど、創建以来ずっとここで鎮座していたのかそれは定かにはなりません。
稲置街道沿いで、街道筋の面影をとどめた周囲の状況から突拍子もない所から遷座してきたとは思えない。
人や荷役の馬が行き交う街道の分岐、楽田追分という事を考えると、昔からここに鎮座し集落を見守ってきたのでは、そう思いたい。

f:id:owari-nagoya55:20210319014604j:plain少し西に出れば県道27号線 南に下がれば県道177号線があり行き交う車も多い。
東には名鉄小牧線が整備されてはいるけれど、神社周辺は至って静かで長閑な環境です。
角の取れた丸い石を高く積み上げ、その上に覆殿が建てられている、近年補修の手が入っているようです。

f:id:owari-nagoya55:20210319014621j:plain御日塚の意味までは分からないし根拠はないけれど、塚と付くとなんとなく古墳の香りが漂う。
現況は塚をイメージする痕跡は見当たりません。

稲置街道と上街道に分かれる追分に鎮座する御日塚神社、小さな神社ですが綺麗に手入れされ訪れて気持ちのいい神社でした。

『御日塚神社』
創建 /   1598年(慶長3)
祭神 / 保食神(うけもち神)
住所 / 愛知県犬山市追分61
公共機関アクセス / 名鉄小牧線「楽田」駅降車、徒歩で北に15分程
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「熊野本宮大社」

産田社から長閑な田園地帯の参道から右に5分程で目の前に国道168号線が現れる。
国道沿いに『熊野本宮大社』の大鳥居が建っています。

f:id:owari-nagoya55:20210318081938j:plain参拝客は大斎原や産田社に比べると当然ながら多い。
鳥居左方向に本宮に一番近い駐車場があるけれど既に満車のようだ。

f:id:owari-nagoya55:20210318081954j:plain本宮参道口。
社号標、燈籠、狛犬、明神鳥居など本宮に相応しい大きなものだ。
大斎原の日本一の鳥居を見てからだとそれもやや霞んで見えてくる。

f:id:owari-nagoya55:20210318082012j:plain鳥居扁額「熊野大権現」

f:id:owari-nagoya55:20210318082028j:plain鳥居左に三本足の八咫烏が描かれた大きな幟。
八咫烏のマーク入りマスクを付けられた狛犬

f:id:owari-nagoya55:20210318082044j:plain緑に包まれた参道。
両脇の奉納幟は途切れることなく上まで続く。
参道はここから158段の石段となる。

f:id:owari-nagoya55:20210318082100j:plain「功霊社」
石段の途中にあり、過去の戦争における戦没者の霊が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20210318082117j:plain「功霊社」から石段を更に上った左に「祓戸大神」。
積もり積もった罪や穢れをここで清めてから上に進みます。

f:id:owari-nagoya55:20210318082134j:plain158段の石段も間もなくゴール、右手の手水舎で再び清め・・・・・
コロナ感染症対策でこちらの手水舎は使用中止。
この先の社務所前に手水があるのでそちらで清める。

f:id:owari-nagoya55:20210318082151j:plain
熊野神社は全国に4776社もあるのだそうだ、全国各地からこの本宮を訪れる。

旧本宮社殿絵図
熊野川とそこに流れ込む音無川と岩田川の二本の支流が作り出した中洲「大斎原」は約1万1千坪の境内に5棟12社の社殿に楼門、神楽殿能舞台など、現在の数倍の規模を誇っていた。
それも1889年(明治22)の大洪水で旧本宮は被災、鎮座していた上、中、下社の各4社の内、上四社を除き甚大な被害を受けた。
大斎原から約700㍍上流のこの高台にはもともと「祓戸天神社」が鎮座していたが、1891年(明治24)にここに上四社を遷座したのが現在の姿。

f:id:owari-nagoya55:20210318082209j:plain宝物殿。
三角縁神獣鏡」や日本で二番目に古いとされる「鉄湯釜」、「熊野本宮八葉曼荼羅 」など展示されている。拝観料は300円。

f:id:owari-nagoya55:20210318082224j:plain石段を上り切ると社殿域。
正面に神門、左手に社務所、拝殿と続き、右手に授与所。

f:id:owari-nagoya55:20210318082243j:plain
神門右手の由緒書き
「東御前(若宮)天照大神
御本社(證誠殿)家津御子大神(素戔嗚尊)。
西御前(速玉宮)速玉大神(伊邪那岐大神)、(結宮)夫須美大神(伊邪那美大神)
当宮は熊野三山(本宮・新宮・那智)の首位を占め、全国の熊野神社総本宮で熊野大権現として世に知られている。
主神は素戔嗚尊、樹木を支配する神で紀国(木ノ國)の語源もここから起きています。
植林を奨励、造船技術を教え、外国との交通を開かれ、人民の幸福を図られるとともに生命の育成を司られた霊神。
第十代崇神天皇の御代に熊野連が当地に社殿を造営し鎮祭したと伝えられる。
奈良朝の頃から修験の行者が頻繁に出入りし修行した事から更に神威が広まった。
延㐂(喜)7年、宇多法皇の御幸をはじめ約300年に渡り法皇上皇女院の御幸は百数十回に及び熊野御幸と云われる。
神仏習合によって御主神を阿弥陀如来として尊び、日本一と云われた霊験を仰ごうと全国各地から熊野の深山幽谷を訪れ「蟻の熊野詣」や「伊勢に七度、熊野に三度どちら欠けても片参り」とまでうたわれ、それと共に全国に分社が祀られ現在5000社を数える。
戦乱の中でも人々の信仰は高まり、神威は熊野牛王(おからす様)の神符とともに伝播していった。
現在の社殿は享和2年、徳川家斉により大斎原に建立されたが明治22年の大出水で現在地に修造、遷座されたもの。社殿の造りは熊野造り」

旧社号標と解説。
「当社の社号は熊野本宮大社であるが、延喜式神名帳に「熊野坐神社」と記されている。
その後「熊野本宮」という名称が定着したが、明治4年「熊野坐神社」を正式社号として登録、公表した。
この社号標は昭和15年の建立で時の首相による揮毫」

f:id:owari-nagoya55:20210318082304j:plain神門に掛けられた大きな幕や注連縄、その先に本殿が見えてくる。

f:id:owari-nagoya55:20210318082321j:plain「前進」

f:id:owari-nagoya55:20210318082338j:plain本殿全景。
手前から入母屋檜皮葺平入の建物が西御前と中御前、その右の妻入りの建物が本殿、更に右が東御前と並び、写真では入っていないけれど一番東側に満山社が鎮座する。
第四殿までが透塀で囲われ其々中門が付く。

f:id:owari-nagoya55:20210318082357j:plain第一殿 祭神は夫須美大神(伊邪那美大神)
第二殿 祭神は速玉大神(伊邪那岐大神)
一つ屋根の下で夫婦神が鎮まる。
1802年(享和2)の建立。

f:id:owari-nagoya55:20210318082412j:plain第三殿 祭神は家津御子大神(素戔嗚尊)
1810年(文化7)の建立。

f:id:owari-nagoya55:20210318082430j:plain第四殿 祭神は天照大神
1802年(享和2)の建立。
夫婦神の子がすぐ近くで鎮まる。

f:id:owari-nagoya55:20210318082445j:plain満山社
結びの神・八百萬の神を祀り、2007年(平成19)に115年ぶりに復興されたもので、お祀りされている玉石は人と人を結ぶ再生の玉石だそうだ。

さあ賽銭を準備して参拝。
まずは第三殿の素戔嗚尊、次に第二殿の伊邪那岐大神、そして第一殿の伊邪那美大神、次に第四殿で天照大神、最後にこの満山社に参拝するのが正しい参拝順です。

f:id:owari-nagoya55:20210318082502j:plain拝殿後方から神門方向の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20210318082517j:plain境内左奥の「和泉式部祈願塔」
苔むした小さな塔は大斎原に立っていたがこちらに移転されたもの。
平安中期の歌人和泉式部がようやく本宮参拝を前にして「晴れやらぬ身に浮雲のたなびきて 月の障りとなるぞ かなしき」と悲しみを詠んだという。男には分からない自然現象だ。
その夜、熊野権現が夢に現れ「もろともに塵にまじわる神なれば 月の障りの何かくるしき」と詠み返してきたという。「悲しむな、心苦しく思う事はない詣でなさい」
そのお告げに導かれ和泉式部は参拝を果たしたという。
熊野権現(阿弥陀如来)の慈悲深さを表すものかもしれない。 

f:id:owari-nagoya55:20210318082532j:plain神門を出て社務所に向かいます。

f:id:owari-nagoya55:20210318082549j:plain社務所前の手水鉢。

f:id:owari-nagoya55:20210318082605j:plain入母屋平入で唐破風が施された拝殿、左右には丸い大きな石に八咫烏が描かれ、一方の対座には天・地・人と刻まれています。
参道手前に大きな狛犬

f:id:owari-nagoya55:20210318082621j:plain白くて大きな狛犬は感染防止対策も完璧だね。
早く顔が見たいものだ。

f:id:owari-nagoya55:20210318082637j:plain八咫ポスト
拝殿に向かう参道の左に置かれ、ここから絵馬を投函すると八咫のスタンプが押されて配達されるようで、結構投函される方を見かけました。

f:id:owari-nagoya55:20210318082654j:plain
八咫ポストの上には神の使い八咫烏が羽を広げ飛び立つばかり、コロナ終息へ導いてくれるのでしょう。

八咫烏由来
「熊野では八咫烏を神の使者と云われます。
三本足は熊野三党(宇井・鈴木・榎本)を表すと云う。
当社の主祭神家津御子大神(素戔嗚尊)の御神徳である智・仁・勇、また天・地・人の意を表している。
烏は一般に不吉の鳥としてされてきているが、方角を知るので未知の地へ行く道の案内や、遠隔地へ送る使者の役目をする鳥。
熊野の地へ神武天皇東征の砌、天皇が奥深い熊野の山野で迷った時に八咫烏が導いたとされる。
また源平合戦では、那須与一出身地の烏山城は烏が金の御幣をこの地にもたらしたことから築城したとも云われる。
人の道開きの開運、人生、目的達成、旅行安全、通学安全等を守護するとして仰がれています。
そうしたことからJFAのシンボルとして採用されているようです」

導く者がはっきりしないこのご時世、八咫烏が現れ今を導いてくれないだろうか。

f:id:owari-nagoya55:20210318082711j:plain

参拝を終え、御朱印も頂いた、158段の石段を再び戻るのも良し、右にある細い熊野古道で下まで下りるも良し、どちらを進もうか?

f:id:owari-nagoya55:20210318082729j:plain
私達は熊野古道で下まで降りる事を選択した、それとて楽な道ではありませんでした。
下は相変わらず駐車場の空きを待つ車が見受けられました。
少し歩けば熊野川の河川敷に広大な駐車場があります、そちらに回るのも一つの選択肢かと思います。
尚、写真撮影は社務所に声掛けはお願いします。


創建 / 崇神天皇65年
祭神 / 素戔嗚尊伊邪那岐大神、伊邪那美大神天照大神​​
境内社 / 満山社、功霊社、祓戸大神
住所 / ​和歌山県田辺市本宮町本宮1110
​産田社から徒歩アクセス / ​北に5分程
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 熊野本宮大社 

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春を摘みに

昨日(03/15)は日差しも温かく、陽気につられ郊外へつくしを摘みに出かけてきました
 つくしは随分大きくのびていましたが
それでもひと掴みほどの小さなつくしを摘むことができました

f:id:owari-nagoya55:20210316105838j:plain摘んだ土筆は卵でとじられ晩御飯の食卓に、今年の春を味わう
野山には小さいけれど鮮やかな色合いも増えて来た

 小川にはオイカワの姿も見られ、春が来てるのを実感する
こんな光景を見るとフライが振りたくなる
 川面を流れる小さなフライ・・・・・どこにあるか見えはしないのだが
見えない事を実感しに行ってみようかナ
 そんな気にさせる陽気になってきた

「平坂熊野神社」雲竜の天井画に隠れる八咫烏見付けられるかな?

西尾市平坂町熊野 『平坂熊野神社
三河一色諏訪神社から車で国道247号線を北上、県道383号線の平坂港東交差点を右折、200㍍程直進した左側の平坂熊野神社の参拝者駐車場に到着。諏訪神社から20分程の移動時間。

f:id:owari-nagoya55:20210315182651j:plain
熊野神社境内全景。
この広い境内の一部が駐車場、パーキングの心配なしに安心して参拝が出来る。

f:id:owari-nagoya55:20210315182837j:plain正参道の鳥居全景。
石の明神鳥居と左に由緒書きがあります。

f:id:owari-nagoya55:20210315182853j:plain鳥居に掲げられた「熊野神社」扁額。

f:id:owari-nagoya55:20210315182909j:plain由緒書き
熊野神社
祭神 / 伊邪那美神命 速玉之男神 事解之男神
由緒 / 弘治二年、当地開拓の際、羽塚村より遷座鎮守神として祀る。明治五年10月村社に列し、同四十年十月神饌幣帛料供進社に指定。

弘治二年は1556年にあたる、道三が長良川で討死、明智城が落城するなど目まぐるしく動いた戦国の時代にあった。その年に現在の鎮座地から少し東の羽塚村から遷座したという。
創建が定かにならない歴史のある神社。

f:id:owari-nagoya55:20210315182925j:plain境内は南北に広い社地を持ち、駐車場のある南側にニノ鳥居と手水舎がある。
そこから一段上がって本殿域が広がります。

f:id:owari-nagoya55:20210315182953j:plainニノ鳥居、石造りで控え柱の付いた両部鳥居。
そこから緩い石段を上った先が拝殿。

f:id:owari-nagoya55:20210315183011j:plain正面に拝殿、右に神楽殿、拝殿左に末社が見える。

f:id:owari-nagoya55:20210315183028j:plain境内右に玉垣で囲われた1本の木がある、若い木のようですが、これ御神木だろうか。

f:id:owari-nagoya55:20210315183044j:plain石段を上がった右側に伊勢神宮遥拝所。
石の神明鳥居と灯篭もあり、遥拝所としては立派じゃないだろうか。
この先がお伊勢さん方向。

f:id:owari-nagoya55:20210315183059j:plain境内右に高床で入母屋瓦葺の見るからに新しい神楽殿
2019年、津島社とともに建て替えられたもの。

f:id:owari-nagoya55:20210315183116j:plain境内左に社務所とくまの会館。

f:id:owari-nagoya55:20210315183133j:plain境内正面に目を向ける、こちらも綺麗な拝殿です。
入母屋で破風が施された向拝の付く拝殿は重厚感のある佇まい。
左に流造の末社、右にも切妻の社殿があります。

f:id:owari-nagoya55:20210315183148j:plain拝殿斜景。
2014年、約150年ぶりに本殿遷座祭が執り行われ、拝殿もそれに伴い建て替えられたもの。
この拝殿、人目を引くオラオラ感満載の光輝く飾りはないけれど、棟瓦から始まり、向拝下の透かし彫りや木鼻等至る所に龍が描かれている。こうした拘り方の建物は見ていても楽しい。

f:id:owari-nagoya55:20210315183203j:plain拝殿前の狛犬
リフレッシュされた伽藍の中、一番キャリアを持っているかもしれない。
奉納年を見忘れたけれど、建て替えから7年程でこの貫禄はないだろう。

f:id:owari-nagoya55:20210315183219j:plain向拝の龍達。

f:id:owari-nagoya55:20210315183237j:plain木鼻の龍は迫力があり、斗供の手先構造や飾りにしてもコンクリートにはない作り手の拘りが伝わってきます。

f:id:owari-nagoya55:20210315183253j:plainここにも。

f:id:owari-nagoya55:20210315183310j:plain熊野神社扁額。
祭神は伊邪那美神命、速玉之男神、事解之男神
伊邪那美神命は古事記日本書紀の記述によれば、伊邪那岐命夫婦の契をかわし、日本で初めて男女の結婚の道を興された「むすびの神」として崇められ、親・兄弟・親類・友人・同僚・隣人等、全ての人達とも、仲良く結び合っていけるよう導いて頂ける神さまです。

外観の飾りに見惚れていると神職の方が外から戻られ、「拝殿の天井絵も是非見てほしい」とわざわざ扉を開け中まで案内してくれました。

f:id:owari-nagoya55:20210315183328j:plain写真撮影のお許しを頂き拝殿内と天井絵を撮らせて頂いた。
木の香漂う新しい拝殿は当然ながらピカピカです。
これから年を重ねるごとに木の表情は一層深みを増していきます。
拝殿内の両脇に御神体を守護する木像の右大臣、左大臣が安置されています。

f:id:owari-nagoya55:20210315183345j:plain格子天井の中央に雲竜図が描かれ、こちらを睨む龍の視線がある。

f:id:owari-nagoya55:20210315183401j:plain荒々しい龍に見えますがタッチや彩色はとても繊細に描かれています。
淡い色合いや線が出る様に写真は少し強調していますが、それでも実物の味わいとはかけ離れているようです。実物を是非ご覧ください。
さて、この天井画には「八咫烏」の隠し絵が施されています。
熊野神社の神紋「八咫烏」はどこに描かれているでしょう。
一番最後に拡大写真を貼っておきます。

f:id:owari-nagoya55:20210315183417j:plain拝殿右の切妻の社殿は津島社。
2019年の神楽殿建て替えとともに新たに建て替えられたものです。
木の色合いはまだ〃新しい。

f:id:owari-nagoya55:20210315183432j:plain津島社の狛犬も2019年の新米という事はないだろう。
阿形の表情はにこやかに笑ってないかい。

f:id:owari-nagoya55:20210315183451j:plain津島社扁額。木の香が伝わってくるようだ。

f:id:owari-nagoya55:20210315183508j:plain板宮造りで高欄が付いた津島社本殿。
ここまで綺麗だと参拝していても気持ちがいいものです。

f:id:owari-nagoya55:20210315183524j:plain拝殿左の末社
これらは近年の建て替えの対象ではなかったのかな、若干年季が入っているようです。

f:id:owari-nagoya55:20210315183540j:plain流造の三社。
右から神明社と御嶽社の相殿、中央が猿田彦社、左が秋葉社と多度社の相殿。

f:id:owari-nagoya55:20210315183559j:plain末社から更に左に向かう参道があり、そこにも鳥居が建っていた。

f:id:owari-nagoya55:20210315183615j:plainさて「八咫烏」見付けられたかな、神の使いはここに描かれています。
2021/1/15


平坂熊野神社
創建 / 不明 1556年(弘治2)羽塚村より遷座
祭神 / 伊邪那美神命、速玉之男神、事解之男神
境内社 / 津島社、神明社、御嶽社、猿田彦社、秋葉社、多度社
住所 / 愛知県​西尾市平坂町熊野45
三河一色諏訪神社から車アクセス / 国道247号線を北上、県道383号線「平坂港東」交差点を右折、200㍍程直進した左側、​所要時間20分程

関連記事 / 「諏訪神社」西尾市一色町

「吹上八幡社」名古屋市千種区

以前掲載した「吹上観音・白龍大神」を後に、「吹上ランプ北」から若宮大通りを横断する。
一回の信号で渡り切れない100㍍道路を渡り切り、そのまま少し入ります。

f:id:owari-nagoya55:20210314151434j:plainこの辺りも当然ながら住宅やビルが建ち並び神社の存在を感じさせる趣ではないけれど、間もなくすると前方に「吹上八幡社」が見えてきます。

f:id:owari-nagoya55:20210314151456j:plain若宮大通りから一本北に入っただけですが、周辺の建物が杜のように騒音を遮断し意外に静かな環境にある。随分と忙しない大通りに比べ趣はガラッと変わる。

f:id:owari-nagoya55:20210314151525j:plain上は明治頃の吹上界隈、名古屋新田の開拓により田畑が広がり、そこに点々と集落が点在する。
集落の外れに鎮座していた神社も変貌を遂げ、今や住宅地の中に埋没するように鎮座する。

更に過去に遡るとこの地の少し南側まで海岸線が迫っていた。
この吹上の町名由来が「千種区の町名由来」で以下のように記されていた。
「古矢田川層の上にできた村落で、昔はこの辺りまで入海だったため、真砂が風で吹き上げた所といわれています。風を受けやすい地形に多い地名です」とあった。
それも台地の移り変わりと人の地道な開拓により今や海岸線は臨むべくもない。

f:id:owari-nagoya55:20210314151552j:plain「吹上八幡社」鳥居から境内全景。
石の明神鳥居の右に社号標と石灯篭(大正4)、参道の先に拝殿、右が社務所
周囲の環境を考えると良くぞ社地として維持されてきたものだ。

f:id:owari-nagoya55:20210314151611j:plain鳥居右の「吹上八幡社」由緒書き

『祭神は応神天皇。創建は1858年(安政5)、御器所村字木市に祭祀されていた、1886年(明治19)崇敬者の勧請によりこの地に遷祀。
住民の安全を守る守護神として崇敬が厚く、古来は弓矢の神として武人から崇敬された事から戦時中は召集された兵士たちが武運長久、災厄除けを祈った。御事跡には「田地の改正制定、農機具の改良、考案、商法の制定、堀井用水の開発等があり、家内安全、商売繁盛、健康長寿、授福の神様として信仰されている』

元々は「吹上観音・白龍大神」の南西辺りに鎮座していたようですが、明治のこの時期の当該地には名古屋高等学校が建立されている事から、遷祀にはこの建設構想の影響があったのかも知れない。

f:id:owari-nagoya55:20210314151632j:plain参道から境内の眺め。
参道左に手水舎、拝殿前から左右に分かれ、右の社務所、左の境内社へと続く。
手水鉢に清水を注ぐ龍。
気の毒にその口には配管が繋がれ見るからに辛そうだ、しばらくの辛抱だ。

f:id:owari-nagoya55:20210314151654j:plain味のある燈籠、明治の元号が刻まれている。

f:id:owari-nagoya55:20210314151718j:plain
拝殿全景。
瓦葺で切妻、妻入り、四方吹き抜けの拝殿。
手前の狛犬は1919年(大正8)に奉納されたようですが、台座に刻まれた「海上安全」がその昔のこの地を物語っているようだ。

f:id:owari-nagoya55:20210314151803j:plain小ぶりで丸っこい狛犬
鼻の大きさは犬の鼻というより、これは豚を連想させる。

f:id:owari-nagoya55:20210314151827j:plainシンプルな拝殿、鬼瓦には橘の紋が入る。

f:id:owari-nagoya55:20210314151848j:plain拝殿の額は八幡宮
拝殿から幣殿の眺め、祭神は応神天皇
吹上の由来についてこの辺りの伝承に「応神天王の神霊、小舟に乗って漂着し給う。依りて「神、吹上給う里」から吹上という」そうした話もあるようです。
吹上の由来、諸説あるようですが個人的にはこちらの方が夢がある。

f:id:owari-nagoya55:20210314151912j:plain拝殿から本殿方向の全景。
渡廊が拝殿と入母屋造りの幣殿を繋ぐ。

f:id:owari-nagoya55:20210314151936j:plain拝殿左の鳥居の先には境内末社が纏められています。

f:id:owari-nagoya55:20210314152001j:plain中央が皇大神宮、左に秋葉神社、右に津島神社と三社が祀られています。
これらの末社も明治に入りこちらに遷座してきたものらしい。

f:id:owari-nagoya55:20210314152024j:plainここから八幡社の幣殿と流造の本殿が良く眺められます。

f:id:owari-nagoya55:20210314152045j:plain境内社の鳥居は昭和4年刻まれています。
末社から境内の眺め、街中にあるせいだろうか境内で見上げるような樹々は少ない。

f:id:owari-nagoya55:20210314152109j:plain境内左から見た伽藍全景。
杜の密度が低いのが良く見て取れると思います。
周囲の状況では樹々が伸び〃生い茂るには適さない環境、枝が周囲の電線にかかり停電も懸念される。
そうした事もあり、近年境内にあった保存樹のムクノキが伐採されたようです。
その枝は輪切りにされ、疫病退散を祈願し「アマビエ」を描いてお守りにして販売したそうだ。
今は全て完売し、伐採された切株にも「アマビエ」が描かれ今も残っています。
境内末社の西側に「アマビエ」があり、やがて第四の末社になる可能性もあるかも。

「吹上八幡社」
祭神 / 応神天皇
創建 / 1858年(安政5)
境内社 / 皇大神宮秋葉神社津島神社
住所 / 名古屋市千種区千種2-18-14
吹上観音・白龍大神からアクセス / ​北に徒歩5分程
関連記事 /  吹上観音・白龍大神

「十二神社」「山之神社」「北方稲荷社」

以前掲載した知多四国霊場二十六番札所「弥勒寺」の右に隣接するように「十二神社」・「山之神社」・「北方稲荷社」が鎮座します。

f:id:owari-nagoya55:20210313024524j:plain

 十二神社の鳥居から境内全景の眺め。
正面が十二神社で左に北方稲荷社、山之神社は後方の山の頂に鎮座する。
どちらも鳥居を構えていますが、十二神社境内から参道が繋がっています。

f:id:owari-nagoya55:20210313024557j:plain 境内は北方児童公園にもなっていて子供達の遊び場にもなっている。
境内正面の建物は拝殿かと思いきやそうではないようです、用途はよくわかりません。
拝殿は二段になった境内の上段にあります。

f:id:owari-nagoya55:20210313024624j:plain 拝殿に続く石段の傍らに手水舎と由緒書きがあります。
祭神 /   木工理姫命、木花咲耶姫命
創建 /   1470年(文明2)
例祭 /   毎年4月3日
記  /    以前の十二権現社は明治元年、号を廃せられ十二神社と改称された。

開創が1596年(慶長元年)とされる「弥勒寺」よりさらに遡る歴史ある神社。
この当時の知多半島は一色氏の被官であった佐治氏と田原城主の戸田氏で支配し、佐治氏は大野、内海を拠点に知多半島の西海岸を、戸田氏は半島の河和、富貴を領有し先端の師崎を佐治氏と共有し三河湾制海権を握っていたとされ、この神社は当時の河和城主戸田孫八郎守光から崇敬されていたようです。

f:id:owari-nagoya55:20210313024647j:plain 拝殿。
瓦葺の切妻平入拝殿で外観に人目を引き付ける派手な装飾は施されていません。
拝殿前には狛犬もいるようです。

f:id:owari-nagoya55:20210313024710j:plain 狛犬
なんというか素朴で人を和ませる魅力を持った表情をしています。
笑ってます、笑う狛犬
台座には1915年(大正4)と刻まれています。

f:id:owari-nagoya55:20210313024735j:plain 拝殿。
五三の桐が神紋のようです。

f:id:owari-nagoya55:20210313024757j:plain 拝殿左の境内社
一・二・三・・・・・。
合社の右から天御中主命少彦名命、大日靈命、大名持命、国常主命、伊弉諾命、単独の小さな不明社、大きい社が春野社、その左に石神様だろうか。

f:id:owari-nagoya55:20210313024818j:plainそこから更に左に進むと石灯篭の先にも台座の上に石神様らしき石が祀られている。
そこから先は十二神社から北方稲荷社に続く脇参道。

f:id:owari-nagoya55:20210313024840j:plain 脇参道から拝殿方向の眺め。
石垣は結構高く積まれその上に社殿が建っている。

f:id:owari-nagoya55:20210313024909j:plain 拝殿前の石灯篭に明治元年と刻まれている。
号を廃し十二神社へ改称した際に奉献されたものか。
ここから拝殿右側に向かいます。

f:id:owari-nagoya55:20210313024934j:plain 右側にも合社があり、左から天津神国津神猿田彦命、於止與命、大己貴命、高皇産霊命、軻遇突智命。 単独の社二つが御葦社、金比羅社で石標が明治神宮橿原神宮と並ぶ。

f:id:owari-nagoya55:20210313025001j:plain 右の末社と本殿の眺め。
整然と一列に祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20210313025032j:plain 末社右にも石が祀られ、その右から本殿後方の山に続く参道がある。
この参道の先に山之神社があります。

f:id:owari-nagoya55:20210313025058j:plain 上
参道途中から十二神社本殿の眺め、結構上に登ります。

うす暗い杜をほどなく歩くと、視界も開けその先に山之神社の鳥居が見えてきます。

f:id:owari-nagoya55:20210313025126j:plain 山の頂に鎮座する山之神社。
左手前に手水舎、少し上がって石の明神鳥居があります。

f:id:owari-nagoya55:20210313025154j:plain 鳥居の先に小さな本殿、狛犬はいないようです。

f:id:owari-nagoya55:20210313025223j:plain 山之神社の本殿は石造り。

f:id:owari-nagoya55:20210313025251j:plain 鳥居脇の山之神社の由緒書き。
祭神 /   大山祇命
由来 /   古来北方地区各所にあった富士社、浅間社、御嶽神社などの社を明治のころより山之神社に順次合祀したとされる。いわゆる子孫繁栄、五穀豊穣を見守る農耕の神である。

残念ながら創建時期やここに記載されている北方地区の各地がどこなのかまでは分からない。
この地の明治頃の地図でも結果は同様だった。この山の頂に山の神を纏めたかたち。

f:id:owari-nagoya55:20210313025323j:plain 鳥居から南の眺め、ここから海が良く見渡せる。
空や海は色が少しづつ春の趣になってきたような気がする、山の頂きに差し込む暖かい日差しはしばらくここでのんびり景色でも眺めていたい、そんな気分にさせる陽気だ。
残念ながら、かみさんとの待ち合わせ時間を考えるとそれほど時間に余裕もない、降りるとするか。

f:id:owari-nagoya55:20210313025351j:plain 参道を降り十二神社境内から左へ、その道は山之神社の鳥居を経て公道側に通じていました。
道路際には神社案内板も掲げられていました。
ここから再び十二神社の境内に戻り、北方稲荷社に向かいます。

f:id:owari-nagoya55:20210313025418j:plain 滑り台の左から赤い幟が連なる参道が伸びています。

f:id:owari-nagoya55:20210313025441j:plainその先で参道は十二神社拝殿方向と北方稲荷社の二手に別れます。

f:id:owari-nagoya55:20210313025507j:plain 白い鳥居の先に赤の奉納鳥居が連なり本殿が見えています。
狛狐もいるようです。

f:id:owari-nagoya55:20210313025533j:plain 本殿域全景。
奥の記念碑から北方区177名の方々の寄付で1996年(平成8)に再建されたようです。
石の本殿や狛狐、鳥居も含めてどれも新しくて綺麗。
稀に悲壮感漂うお狐さんに出逢う、こちらの狐は痩せすぎず、太りすぎず、いいフォルムをしています。
創建時期などの詳細は不明。

f:id:owari-nagoya55:20210313025559j:plain

 十二神社境内から師崎街道の眺め。
今は静かな境内も祭礼ともなれば山車が曳き回され多くの氏子で賑わうという。
古くから氏子の住む北方の街と海を見守り続けて来た氏神様。

「十二神社」
創建 /    1470年(文明2)
祭神 /    木工理姫命 木花咲耶姫命
住所 /    愛知県知多郡美浜町北方東側43
「山之神社」
創建 /    不明
祭神 /   大山祇命
住所 /    愛知県知多郡美浜町北方平井下91-1
「北方稲荷社」
創建 /    不明
祭神 /   不明
住所 /   愛知県知多郡美浜町北方東側43

公共交通機関アクセス / 名鉄河和線「河和駅」下車 北へ徒歩5分程
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