大分県大分市『豊後國一之宮 柞原(ゆすはら)八幡宮』

西寒多神社から車で北西に別府方向へ25分程。
 大分市の西、二葉山(八幡柞原山)の山間に豊後國一之宮「柞原八幡宮」が鎮座します。

現在地は大きな〇で柞原八幡宮の一之鳥居はここから県道696号線を大分港に下り、海岸線沿いに延びる国道10号線の手前(小さい〇)に一之大鳥居を構え、往古は広大な社地を有していたようです。

県道696号線沿いの社頭全景。
 鬱蒼とした社叢に包まれ、入口右側には手水舎、その後方に天を突く様な大杉が聳えています。
注連縄鳥居の先から長い参道が上に続き杜に消えていきます。

長い参道の途中には日暮し門とも形容される、随所に見事な彫刻が施されている南大門が建ち、
その手前には国指定天然記念物の大楠が聳えています。

手水舎。

柞原八幡宮境内配置。
 参道は途中で二手に分かれ、右手は楼門、左手を進めば西門に繋がります。
おやじ達は矢印のルートを進むことに、理由は、楼門に至る石段が急な事もあり、上りよりは下った方が楽だろう、つまらない理由かもしれない。
 尚、参拝当日は修復工事中で社殿の大半は覆いに包まれていました。

社頭入口の由緒略記から一部抜粋。
 「豊後國一之宮 柞原八幡宮(国指定重要文化財)
御祭神 応神天皇仲哀天皇神功皇后
主な祭典 例大祭(3月15日)、夏越祭(7月14~20日)

平安時代の天長4年(827)に宇佐神宮より分霊を勧請、承和3年(836)社殿を造営。
 嘉承(1108)、敷地の四至が定められ税を免除。
仁平3年、鳥羽法皇により神領を定められた。
 元暦元年(1184)、源範頼が平家追討を祈願、頼朝や領主からの崇敬が厚かった。
嘉永3年(1850)、八幡造りの本殿を再建。」

靑もみじの下、石段を上り始める。

石段が続く参道は所々に石畳が現れる。
 紅葉や新緑の時期には見応えがありそうです。
先に朱の鳥居が見えて来た、社殿も近いか?

参道沿いに立つ燈籠の寄進年は天保だけに留まらない。

菊の紋が施された朱の明神鳥居。

社殿かと思い込んでいた建物は南大門。
 この辺りで参道のほゞ中程、社殿はまだ見えても来ない。

南大門の左に聳える大楠、柞原八幡宮の国指定天然記念物で、空に向かって堂々と聳えるその姿に自然への畏敬の念を抱く。
 樹齢三千年とも云われ、幹回りは約19㍍、樹高は約30㍍の自生の樹で、幹には空洞も出来ている。
柞原八幡宮の広大な社叢にはこうした巨樹が聳え、昔の自然林の姿を留めています。

南大門。
 別名日暮し門と呼ばれ、元和9年(1623)に再建され、こうしてみる門は明治3年(1870)の建立のもの。
参道に対し門が大きく側面の姿は見られなかったが、銅板葺の入母屋屋根で前後に大きな唐破風向拝が付けられている。どっしりとして趣のある門です。

向拝の額は「由原八幡宮」と書かれていた、今の柞原の表記は明治に入ってからとされ、明治に再建された当時の呼称の額が掲げられている。
 以前は由原宮、八幡由原宮、賀来社などと呼ばれていたという。

一見派手さはないけれど、木組みや天井、壁面に施された聖人や龍、花、鳥などの彫りには、当時の匠の拘りが見えてくる。

門の内側にも手の込んだ彫が、一之宮の入口を飾るだけに職人の拘りが込められているのだろう。

裏側から見る南大門。
 放射状に並ぶ垂木や斗供が美しい、日暮し門の名は強ち間違ってはいない。

二葉山稲荷神社。
 南大門を過ぎた参道左に赤い鳥居を構え、参道の奥の杜の中に社が祀られている。

今から500年ほど前に伏見稲荷神社から分霊を勧請したもので、創建当時から霊験あらたかで、開運の守護神として崇敬されていると云います。
 以前は本殿域の西宝殿に祀られていたものをこちらに遷座したものと云う。

門をくぐると参道は燈籠の前から二手に分かれ、右は楼門へ、左は神門へと続いています。
 急な上りの石段を気にしなければ右に進むと、参道脇には古い灯篭が立ち並んでいます。
長い参道が続いていますが左を選択します。

参道左側の宝物館。
 これが見えてくれば社殿は目の前。
長い歴史を誇るだけに各時代の有力者の寄進物が数多く残り、それら国指定、県指定の文化財の他に神仏混淆の名残を留める仏像などが収蔵されている。

宝物館の前の石段を上ると左側が社務所、右側が西門が現れる。

西門全景。
 門から先に見える建物は申殿。
朱に彩られたこの門、ただ色彩が目立つだけではなく、その内側も見上げてみるといいでしょう。
 四方の梁の間には細部まで彫られた透彫りや蟇股の彫刻など細かな仕事が施され、いずれも彩色されていた名残が残る。
神殿域は東西に長く、この西門と東門、南側に楼門を持ち、それらは廻廊や塀に繋がり社殿を囲んでいます。

楼門。
 楼門には左右に廻廊が繋がり、楼門、拝殿、申殿が屋根続き繋がっています。
参拝者は靴を脱いで廻廊に上がり、拝殿前まで進み正座して参拝する事になります。
 その先の本殿域は参拝当日修復作業の真っ最中、残念ながら本殿方向の絵はありません。
特徴のある本殿と左右の東西宝殿や八王子社などが祀られているようですが、ネットに遮られ姿が見られなかったのはとても残念。
 いつか遮るものの無い姿を見たいものだ。
因みに本殿の建立は嘉永3年(1850)と云われ、本殿は創建以降33年毎に建替され続け、嘉永3年(1850)以降は建替はされなくなり、明治、昭和と一部補修が行われて来たもので、二棟が前後に連結された八幡造り。
 八王子社は明和7(1770)の建築とされる一間社流造。
東宝殿、西宝殿は何れも宝暦6年(1756)とされ、桁行三間で中央に向拝を持つもののようです。

申殿と右の拝殿。

 では下足を脱ぎ拝殿から参拝。

東廻廊から拝殿、西廻廊の眺め。

廻廊には寄進年すら読み取れない奉納額が掛けられている、何れも脱色が著しく全体像が分からない。

拝殿から申殿、本殿方向。
 柞原八幡宮の始まりは天長4年(827)、延暦寺の金亀和尚が宇佐神宮の参篭に神告を蒙り、柞原山に勧請したのが創設起源とされる。
拝殿先には巨大な天狗の面が掛けられていた。

 神社と天狗の謂れはよく分からなかったが、神社を包む深い社叢には天狗が住み着いていたとしても不思議ではないか。
天狗の鋭い視線を受けながら参拝させて頂く。

 今時は眼に見えぬものに恐れ、自らを戒めても、拳を振り上げた不動明王や鋭い視線を送る天狗の面如きでは自らを戒める気持ちにはならないかも知れない。
なまはげに恐れ慄く純粋な気持ちは失せ「誰が入っているの?」今どきの子供はいいそうだ。
 怖い物の対象が昔と今では随分変っているように思う。

東廻廊から見る東門。
 ここもまた修復作業中、西門同様手の込んだ意匠が施されているのだろう。

社殿南側の楼門と廻廊。
 そこから南は急な斜面に石段で繋がり、目の前の楼門は仰ぎ見る様に聳え、木漏れ陽に照らされた緑の樹々と朱の色合いが印象に残る。

 社殿の全景は杜と斜面が迫り、捉え難い神社だった。

楼門前から下の眺め、足元の石段は短いながら斜度があり、石畳や石段は苔むし油断できない。
 大分まで来て転げ落ち「おお痛い」では洒落にもならない。

豊後國一之宮 柞原(ゆすはら)八幡宮
創建 / 天長4年(827)
祭神 / 応神天皇仲哀天皇神功皇后
境内社 / 二葉山稲荷神社他
参拝日 / 2022/10/26
所在地 / 大分県大分市上八幡三組
西寒多神社から柞原八幡宮 / ​約25分前後
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『石尊不動明王堂』 (小牧市大字大山字郷島)

兒神社の手水舎から下に続く道が伸び、徒歩1~2分程で石尊不動明王堂を訪れる事が出来ます。

石尊不動明王堂全景。
 車でも訪れられそうですが、駐車場へ戻る事を思えば少しは歩かないと。
写真は少し明るくしています、実際は生い茂る樹々で昼でも薄暗い印象です。
 入口左側に「石尊不動明王」と刻まれた石標が立っています。
石尊不動明王は大山の山岳信仰岳の修験の場だったようです。

枯れ葉が積もった参道から不動堂の眺め。
 参道の左右に無数の風鈴が吊るされ、石尊不動明王のご利益のほどが見て取れます。

右側の覆屋には守り本尊が並ぶ。

左側には複数の石標と石仏が並ぶ。
 写真中央に一つだけ苔生した笠を持つ石碑、寛政時代(1789~1801)の俳匠丹羽鯉圭(丹羽忠次郎氏兼)の句碑で「尊ふとさや石に不動の苔の花 鯉圭敬書」と刻まれている。

石標の先には複数の石仏があるが、中でもこの馬頭観音に魅かれた。

入母屋瓦葺の石尊不動明王堂。
 ここから奥に進むと、滝修行をしたわけではないだろうが、山肌から小さな沢が流れ、下流の大山川に注いでいる。

堂の軒下に由緒が掲げられていたが写りが悪く全文読み取れなかった。
想像が出来そうな一部だけを抜粋する。 
祭神 大山不動明王
大山寺創建・・・
江岩寺初代秋岩黒江和尚、戌年正月寺社奉行所下賜しせり土地なり
例祭 11月18日、毎月18日
御尊徳
当地域を始め尾張地方の農民の福寿産業・・交通安全安産御守護戦時中の各地から訪れる。

これではよく分からない。
ここから少し下に臨済宗妙心寺派の洞雲山江岩寺が鎮座します。
江岩寺の創建は1571年とされ、嘗て存在し荒廃した正福寺の再興を願い、正親町天皇が寺を建立させたとされる古刹で、正福寺の寺宝が移されている。
その江岩寺初代住職により建立されたのが石尊不動明王堂のようだ。

東春日井郡誌の大山峰正福寺跡の記述にもこの堂の記述が残り、「兒山の東渓谷に沿いて小宇あり、是往古の正福寺に属し、付近に金剛ヶ瀧、王子ヶ瀧の名残を留めている」とある。

この小さな堂は1571年以前の正福寺の時代から、この地に鎮座していた事になる。
 外観から及びもつかない歴史があるようです。

人気のない境内ですが、堂内は綺麗に保たれ、鈴紐も降ろされていた。
 鈴の音がよく響く事。

参拝を済ませ堂内を窺ってみた。
 真っ暗な堂内はコントラストを変えて見ると幾つもの奉納提灯が現れたが、その先に祀られているであろう大山不動明王の姿は当然見えなかった。

堂前から兒神社方向の眺め。
大山廃寺跡と江岩寺、日を改めて訪れる必要がありそうだ。

石尊不動明王
創建 / 不明
本尊 / 大山不動明王
所在地 / ​小牧市大字大山字郷島412
参拝日 / 2022/10/05
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『不乗森神社』愛知県安城市

安城市里町森。
 「日本のデンマーク安城」とか学校で教わった気がする、この日は親戚が借りる畑の落花生収穫の手伝いに駆り出された。

毎年この時期になると大量の野菜を持ってきてくれるが、今年初めて応援要請をしてきた、そこには「後は宜しく」という意味が込められているのだろうか。
 手入れの良い土も高齢の親戚一人が自給で維持するには畑は広すぎ。
さりとて自分が?・・・、自家菜園ですら上手く育てられない自分には到底無理だ。
 きちんと収穫まで育てられる方々の持つ経験と知識は尊敬に値する。
半日近く落花生を掘りだし、落花生の選別と雑草取り、屈んだ状態の作業が続き、一仕事を終えいざ立ち上がろうとしても固まった体は一向に動かなかった。
 畑作業から解放され、固まった体をほぐすため、最寄りの神社に参拝し帰ることにした。


安城市里町森に鎮座する不乗森(のらずもり)神社。

不乗森神社の遠景。
 デンマークと称されるだけに、日頃見慣れた住宅が林立しアスファルトばかりの光景とは程遠く、田畑が広がり解放感のある景色が広がります。

祭神は大山咋神を祀り、大山咋神の「咋」は「主」という意味で、山水を司り、大地を支配し万物の成長を守護する御利益があり、広く地主神として崇められている。
 広大な田畑が広がるこの地にあって、大山咋神が祀られたのも必然的なのものか。

南向きの社頭は左に社標、常夜灯、石の明神鳥居を構え、田畑の中に浮かぶ島の様にこんもりとした杜の奥へ参道が伸びている。
 参道の先には朱の合掌鳥居が見えますが、不乗森神社はこの先の神楽殿までに三つの鳥居を構えています。

一ノ鳥居の額。

参道を進むと左に手水舎、右に国のために亡くなられた方々の慰霊を弔う忠義護邦家の塔が建てられている。

手水舎、手水石。
 こちらの龍口は立派なもので、手水石の上に全身が形作られ、恰も今ここにやって来たかのよう。

社務所の南外れの水田、そこに立つ鳥居の額には「神殿」とある。
 ここから先の水田は神のもの、収穫された米は神様に供えられる。
神様もこうして自給している。

ニノ鳥居は朱の合掌鳥居。
 日吉神社などでお目にかかりますが、身近で見かけることが少ない者から見ると、その姿は個性的な形をしている。

二ノ鳥居から右手境内の杜の中に石の明神鳥居があり、こちらを参拝する。
 鳥居の先の赤い社は神猿(まさる)神社。
合掌鳥居で知られる日吉神社と云えば猿、こちらもこうして神猿(まさる)神社が祀られています。
 詳細は不明。
キャンプ場で見かける猿は悪戯しかしない厄介者で集団は怖い存在なのだが、なんでも、魔が去るとされ猿は縁起の良いものだとか。

参道に戻り三ノ鳥居へ。
 参道脇で狛犬が守護する鳥居は明神鳥居。
金色に縁どられた額は「不乗森神社」。

寄進年未確認の狛犬

切妻瓦葺の神楽殿
 拘った意匠は避けたシンプルなもので神楽殿を一対の狛犬が守護しています。

1955年(昭和30)寄進の狛犬
 筋肉もりもりのマッチョな姿をしている。
頭部と体の比率に決まりがあるのか定かではないが、これくらいの比率が見ていてもバランスが良く、好きな体形。

楽殿内部。
 本殿側に額が掛けられ、他にも1885年(明治18)の鴨緑江大激戦の様子が描かれた奉納額など掛けられていた。川の向こうに見える相手はプーチンか? 

拝殿とそれに繋がる透塀、棟飾りには二葉葵の紋が入る。
 拝殿前を一対の狛犬が守護…ではなく人の様な像が置かれています。

神猿。
 神の使いとして烏や鹿などあるが、こちらは猿が使いのようです。
阿形、吽形ともに膝を立てリラックスした姿で座り込んでいる。
 畑仕事を終え、立ち上がれない自分の姿に見えてならない。

拝殿額と内削ぎの千木と鰹木が施された本殿。
 本殿は杜に包まれ詳細は不明。


不乗森(のらずもり)神社の創立は、第63代冷泉天皇の御代(967~969)近江国坂本村(大津市坂本町)に鎮座する日吉大社東本宮の祭神大山咋命の御分霊を観請して奉斎したと伝わる古社。

 社頭は、旧鎌倉街道沿いの野路の宿(現在の知立市八ッ橋町)と共に宮橋の里と称する駅次の所在地で、古来より街道を往来する人々は、社頭通行にあたり馬に乗る者は下馬して拝礼の後に通行したと云う。
故に駄野森山王宮と称したが、明治維新改革に際し不乗森神社と改められた。

長い歴史を持つだけに庶民はもとより、武将からの崇敬も厚く、此の地の領主水野右衛門忠政、稲垣信濃守重祥、本多中務大輔忠良、板倉内膳正崇敬等からの尊崇があつく、祈願のため献納された品々は、神宝として保存されていると云う。
 社頭の社標は東郷平八郎の執筆によるもの。

広い境内には神猿神社の他に、神明社、東日吉社厳島社、秋葉社、山神社、津島社、稲荷社等境内社も多く祀られています。

拝殿左の境内、手前の大きな覆屋は土俵か?その奥に二つの社が祀られています。


右が山神社。

左が神明社、祭神は天照皇大神


土俵から南に水みくじ

土俵の左に祀られていた朱も鮮やかな不明社。


境内は桜やもみじの樹も見られ、訪れた時(11/12)のもみじは陽光に透かされた緑がとても綺麗な時期でした。

天満社(左)とさざれ石。

子安石。
 仲睦まじい姿の像だね。

拝殿右の境内社

二つの赤い社は右が稲荷社(蒼稲魂命)、左が津島社(須佐之男命)。


切妻瓦葺の東日吉社、棟瓦にも「東日吉」の社名が入っている。
 祭神は大山祇命

その右が入母屋瓦葺の秋葉社
 祭神は火産霊命。


 その右に厳島社、市杵島姫命を祀る。

 猿田彦命を祭神とする社口社。


 境内右側に安置される幸福釜。

古くから伝わる湯立て神事(3月9日)で使われる釜。
 この釜で湯を沸かし豊凶を湯占するものらしく、米、麦、綿、豆、粟、文字を紙に書き神前に供へ祝詞を奏上し、その後釜の中に入れて笹でかきまぜる。
一般参拝者は、釜の上の御弊を湯にしめし、身の痛い部分につけると癒ると伝わり、安城市の民族無形文化財指定されていると云う。

 その傍らに安置されている三猿。
歳を重ねてもこうは出来ないもの、隠れミッキーではないが、境内のあちらこちらに猿をモチーフにした小物が見られる。

境内の右の境内社から脇参道が伸び、ここにも社標が立てられている。

 その脇に明治24年に寄進された手水鉢とお休み中の龍がいる。

帰りはここから神社を後にしよう。
 社頭南に大きな駐車場があり、一ノ鳥居まで近かったのですが、自分のナビは社地東の細い道に誘導し、竹林脇の小さな駐車場まで導いて案内を終えてしまった。

駐車場から一ノ鳥居を探し歩いた通りを再び戻る。
 社地沿いに宝篋印塔や石塔が並んで安置されているが詳細は分からない。
駐車場に戻り、ポンコツナビに帰り道に立ち寄り出来る神社をセットし帰路につく。
 「案内を開始します…」と云ってくれるものの、頼むよ、土地勘がないのだから。

不乗森神社
創建 / 冷泉天皇の御代(967~969)
祭神 / 大山咋神
境内社 / 神猿神社、天満社、神明社、東日吉社厳島社、秋葉社、山神社、津島社、稲荷社
所在地 / ​愛知県安城市里町森38-132
参拝日 / 2022/11/12

多治見の街で見かけた小さな社

この日は多治見修道院で行われたワインフェスタを訪ね、新酒のワインを味わって来た。
 歩いて多治見駅に向かう帰り道、街角に祀られた幾つかの祠を見かけました。
何れも住宅地の中の狭い範囲に、個人宅の敷地の一角で大切に祀られていました、それら個人で祀りお世話しているものか、町内なのか、どなたを祀っているものか詳細は分かりませんが、今回は多治見の町並に佇む祠を幾つか掲載します。

多治見市小田町2、本土神社の北側を東西に延びる通り。
 多治見修道院のある東を眺める。 
この右側の酒屋の片隅に小さな神社がありました。

敷地の一画に四方をフェンスで囲み社地が与えられ、中には社と幟立、常夜灯がある。
 社標はなく一見すると社名は分からない。
境内に入れられた砂は綺麗に均され、まめに人の手が入っている事を窺わせます。

社は東向きに祀られ、通りの東方向を見護るようにも見える。

境内全景。
 創建時期等は分からないが、常夜灯の寄進年までは読み取れませんが、竿に秋葉神社の銘が刻まれていた。
家々が寄り添うように立ち並ぶ通りの守り神だろう。

幟立の側面に明治35年(1902)の寄進年が刻まれていた。
 古くからこの通りの火伏の神として受け継がれ、これからもこの一画を護り続ける事だろう。
秋葉神社

所在地 / 多治見市小田町2 

ここから西に向かい小田町1の交差点北角にも社が二つ祀られていました。

小田町1の不明社、前方に見えている杜は本土神社の杜。
 立派な石を積み上げた基壇の上に祀られた二つの社。
左の松は御神木だろうか。

こちらの二社は南側を向き祀られ、南北の通りの守護しているのかな。

社名札がなく、二社の詳細は分かりません。
 地元の守り神、その地に住む人が分かっていればいいものかもしれない。
基壇にしても社にしても朽ち果てた様子は皆無、今もこの町には必要な存在なのが分かる。

小田町1の不明社
所在地 / 多治見市小田町1

この交差点から左に折れて三叉路まで進みます。

多治見簡易裁判所の東側の三叉路の左角、ここにも写真の社が祀られていました。
 先程の社同様の基壇が作られ、その上に一社祀られています。
個人宅でお世話しているものか否かは定かではありません。

本土神社の前を横切る通りに接し、社は南を向いて祀られています。

社に対し立派な注連縄、頭を東に、尾は西に向いて飾られ、午後の陽ざしを受け紙垂は白く輝いていた。
 社名や由緒は分かりませんが、この社がある事で住民同士のコミュニケーションを図る一翼を担う存在なのかも知れない。

こうした社は嘗ての我が町にも祀られていました。
 時の移り変わりと共に古くからある家が忽然と更地になり、切り刻まれた土地に斬新な家が増えるにつれ、そうした姿も消えていった。
小田町のひとつの区画に、これらの社が今も残るのは、下街道が通る古い街というだけでは無いような気がしてならない。
 
不明社
所在地 / 多治見市小田町1

ここから西に進み本土神社の社頭を過ぎ、JR中央線の高架手前で左に進み線路沿いを多治見駅に向かいます。

多治見市上野町1。

 JRの線路沿いに一つの社と祠が祀られていました。

左の祠。
 中には「馬頭観世音」と彫られた石碑が安置されています。
この碑の年代は分かりませんが、ここから少し南の土岐川沿いには旧下街道が伸びており、対岸の小路町に続いており、鉄道が整備される以前から、人や荷の動きは活発だったと思われ、こうした馬頭碑も祀られていったものと思います。

右手の社はGマップでは稲荷堂とありましたが定かな所は分かりませんでした。
 ストリートビューの画像(2021)を見る限り、現在の社はその後に建替えられているようで、以前は赤い玉垣と赤い(錆か?)鎖が社を囲んでおり、稲荷の様な、違うような。

ここでは不明社としておきます。

馬頭観世音石碑と不明社
所在地 / 多治見市上野町1

今回、多治見市内を歩く機会がありましたが、市内の町角にはこうした祠が多数見られるようで、暖かい日を見て巡るのも楽しそうだ。
 それにしても師走の声を聴いた途端のこの寒さ、次第に出不精になってくる。
多治見修道院から多治見駅 / ​​徒歩ルート​ 

参拝日 / 2022/11/03
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『諸大明神社』春日井市松本町宮下

春日井市松本町宮下「諸大(もろだい)明神社」
 春日井ICから北東約2㌔程の丘陵地に鎮座し、西に大学キャンパス、東の社頭前には県道508号線が走り、周辺は内津川に向けて田畑が広がる中に住宅が点在する。

県道から狭い道路を左に入ると右側に「諸大明神社」社標、常夜灯(1906年寄進)、鳥居(1956年寄進)を構えた社頭がある。
 鳥居の先の石段の上には綺麗なアイボリーの拝殿らしき姿が見えている。
社頭左に神社の解説が掲示されている。

その中で目を引いたのが1806年(文化3)に寄進された古い幟旗の画像。
 新しい社頭の外観から想像できない、古くからこの地に祀られてきた神社なのが窺われる。

鳥居から拝殿?方向を眺める。
 石段周辺は樹々が迫り鬱蒼とした雰囲気が漂う。

僅かばかりの石段を登り切ると正面に蕃塀が現れ、屋根越しに拝殿?妻壁の彫刻が目に入ってくる。
 鬱蒼とした杜に包まれた境内をイメージしたが、木漏れ陽の差し込む比較的明るい境内。

境内入口を守護する狛犬(寄進年未確認)。
 石段から仰ぎ見る姿が勇ましく見える。

境内社殿全景。

蕃塀から左の境内に手水石(寄進年未確認)と龍口があるが当日は清水が張られていなかった。

蕃塀から眺める社殿。

 手前は拝殿ではなく神楽殿の様で、コンクリート造りの靑瓦で葺かれた四方吹き抜けのもの。
奥の拝殿とは屋根で繋がり社殿全体はコンクリート造りのようです。

遠目に木彫りの妻壁飾りかと思っていたが、よく見ると美濃志野焼きの陶板で出来ている。
 上下二段に分かれ、下に獅子、上に龍が躍動感溢れる姿で描かれている。

拝殿から本殿方向を眺める。
 手前の石碑は改築記念碑。
こうして見る社殿は1970年(昭和45)に改築されたもので、その際にコンクリート造りを選択したのかもしれない。
 拝殿右から回り込んで本殿を窺うが、姿は良く見えなかった。

拝殿額は「諸大明神社」

 国常立尊日本武尊国狹槌尊を祀る。

拝殿右から本殿の千木を眺める。

1923年(大正12)に出版された東春日井郡誌に記された「諸大明神社」
 これによれば1730年(享保15)の棟札が残るとあり、幟旗の1806年(文化3)をさらに遡る。
又、冒頭の由緒に依れば養老年間(717~724年)にまで遡る古社のようです。
式内社物部神社、松原神社と推定する書物もあり、往古の篠木庄西部の総氏神と推定されるようです。

「庭中に六尺ばかりの大石あり、古気良不動石と名が付く」とありましたが、境内を見渡してみても古気良不動石と思われる大石は見当たらなかった。
 唯一の大石と云えば先に挙げた手水石くらいで、ひょっとするとこれが古気良不動石と思いたい。

境内社は金刀比羅社、市杵島社、秋葉社、子安社、愛宕社、稲荷社、御嶽社とある。

また社頭の解説に当時の御札の版木の写真があり、そこには諸大明神社と式内社物部神社との繋がりを示す「物部神社と記された」御札の版木が残るようです。

手水石付近で今では絶滅危惧種とさえ思える二宮金次郎像がある。
 その後方は二十二夜塔。

境内の二社。
 解説に依れば左が神明社、右が八幡社のようだ、東春日井郡誌に書かれている複数の境内社は見当たらなかった。

境内はここから右手の西に広がっていたが、祭礼用の空間だろうか、境内社の姿は見られなかった。

社叢は昔ながらの照葉樹林が残り、春日井市の保存樹林に指定されている。
 こうした濃い森も開発により減りつつある、猪が街に出たくなるのも分からなくない。

木漏れ陽に照らされた社殿は神々しい姿を見せる。

木造の蕃塀は控柱を持った大きなもので、社頭、境内側どちら側からも見通せず、俗世と神域はこの蕃塀が隔てている。

社頭に出て、何気に右に向かってみる。
 すぐ先の北側に社叢に隠れる様に常夜灯があり、その奥に複数の社が祀られていました。

道路の正面に社が三つ、その間に幾つか石標が祀られています。

石標は左は読み取れず中央が氏神、右が山神とある。

 三つの社は社名が分からず、間にある石標も文字が分からなかった。

複数の社群の先に一社だけ覆屋の下に祀られた社がある、これらが書かれていた境内社だろうか?
 何か違うような気もする、杜に続く小道もあり、その先に何かありそうです。
日を改めて、山道に踏み込んで見ようと思う、新たな気づきがあれば別途書き起こします。

諸大明神社
創建 / 不明
祭神 / 国常立尊日本武尊国狹槌尊
境内社 / 神明社、八幡社等
参拝日 / 2022/10/23
所在地 / ​春日井市松本町宮下504
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大分県大分市 『豊後一ノ宮 西寒多神社』

大分県大分市の南に位置し、本宮山から流れ出た寒多川右岸沿いに鎮座する旧国幣中社で豊後一之宮。
 北側には住宅地が広がり、ナビに任せて走っていくと入り組んだ道へ導き辿り着けなかった。
西寒多神社を訪れる際は、寒多川沿いに走れば袋小路に迷い込む事はないかもしれない。
  
 神社のおこりは古く、神功皇后三韓征伐帰陣の折、西寒多山(現在の本宮山)に行幸し、四方の山々を御覧になり、その場に一本の白旗を立てて帰られた事から始まる。
人々はそれを敬いその地に瑞垣を結び、聖地として崇めるようになったと云う。
 創建は応神天皇の御代、この地に宮殿を建立するため朝廷に願い出て、勅許を得た。
勅を奉じた武内宿禰は応神9年(278)、豊後国に下向し、西寒多山山上に宮殿を建立したと伝わる、古の歴史を持つ古社。

西寒多山(本宮山)北嶺を流れる寒多川に架かる萬年橋の前が参拝者駐車場。

 橋の先に鳥居の姿が見えている。

萬年橋
 文久2年(1862)当時、延岡藩領であった寒田村の庄屋らの発起により架けられた橋長22㍍の石造橋で、綺麗な曲線を持つこの橋は昭和55年(1980)に大分県有形文化財に指定されている。

寒多川の川面に写り込んだ萬年橋の姿は趣があって美しいものがあった。

萬年橋の上から西寒多神社の境内の眺め。
 橋から続く石畳の先に鳥居、左に神楽殿、一段上がって社殿が建っている。

参道右の手水舎、すぐ後ろを寒多川が流れ、対岸は田畑が続く。

龍口から注がれる清水は手水鉢を潤していた。

石の明神鳥居。
 社務所は鳥居左に建っている。

扁額は「西寒多神社
 「にしかんた」と読むとばかり思っていたが、下の略記を見て「ささむた」と読む事を始めて知る。

西寒多(ささむた)神社略記より
祭神
 相殿
 殿内所在諸神
伊弉諾大神 伊弉册大神(縁結びの神)、大直日大神 神直日大神(厄除)、天思兼大神(学問の神)、大歳大神 倉稲魂大神(農耕神)、軻遇突智大神(火の神)、天児屋根命(国土鎮護の神)、経津主神(必勝)。
 由緒
創祀は応神天皇9年(278)、西寒多山山上に宮殿建立するとあり延喜式内大社として国司・武将からの崇敬され、特に大友能直、宗麟など豊後大友氏の崇敬厚く、応永15年(1408)大友親世により社殿を西寒多山麓の現在地に遷された。
 明治4年(1871)国幣中社に列格、豊後国一ノ宮、現在別表神社

西寒多山山上の旧社地は奥宮とされ現在に至り、拝殿右に校倉造りの神庫がありますが、その右側から奥宮に続く参道が付けられています。

観音堂

 手水舎を過ぎてた右側に鎮座し、堂内には十一面観世音菩薩が安置されています。
昭和41年、火災により御堂と共に像は焼失するも、翌年には氏子により復興されたもので「西寒多観音」として崇敬されている。

鬼の歯形石。
 その昔、霊山には恐ろしい鬼が住み、鬼は麓に降りてきては村人に悪さばかりしていた。
ある時、天照大神を祀る巫女の親子が本宮山にやってきて毎日お祭りをしていました。
 霊山に住む鬼たちにとって、祭りの音は嫌な音で、鬼たちは親子を喰おうとしました。
母親は、霊山から本宮山まで一晩で橋が架けられたら食べられましょうと約束をした。
 約束を受けた鬼たちは一晩で完成させかけたため、慌てた親子は手ミイを叩き、鶏の鳴き真似をしたという。
すると鬼たちは朝が来たと思い、残念がって歯で石を噛み投げ、霊山から姿を消したという。

この石はその名残とされます。
 働き者で素直な鬼たち、この地方にはこうした鬼に纏わる昔話は他にも伝わっています。
後方に見えているのは合併社。

合併社。
 御星社・保食社・龍王社・貴船社・歳神社・愛宕社・高尾社・金刀比羅社・天満社・竹内社・九一郎社の十一社を合併した社、右手は日露役記念碑。

参道左の神楽殿

一段上の社地に拝殿が建ち、狛犬の左右に廻廊がある。

空を見上げ遠吠えするようなフォルムの狛犬(1930)、いい姿をしている。

拝殿は入母屋銅板葺で千鳥破風と唐破風向拝を持つもの、黄金色の十六八重菊が輝くが過度な装飾のない落ち着いた佇まいをしている。
 額は「鎮国一宮」

拝殿内から本殿方向を眺める、額は西寒田神社
 神紋は「西」文字紋。
拝殿内の木彫りの狛犬は、肉付きが良く、尾と髪に拘っている。

拝殿斜景。

幣殿から本殿方向の眺め。

本殿の棟には6本の鰹木と外削ぎの乗せ千木、ここまで長い千木は初めて見るもの。

廻廊。
 手前が東廻廊で奥が西廻廊、10/16の境内の楓は緑から赤へ微妙に紅葉が始まったばかり。

拝殿から左に鎮座する正霊殿。

拝殿右の神庫。
 明治19年(1886)に改築された、入母屋校倉造りで市の有形文化財に指定されています。
先人の知恵と技術は明治になっても取り入れられている。

神庫右の天神社と大分社。
 大分社の祭神は豊門別命、大分の地名の元となった古代豪族大分の君を祀る。
二社の創建など詳細は不明。
 この辺りから鬱蒼とした山に向けて奥宮参拝道が始まります。

楽殿の後方に鎮座する厳島神社、詳細は不明。


厳島神社の後方、旧神宮入口から続く参道の両脇に祀られているのが繰生社。
 御祭神は繰生青海とその妻をお祀りします。
この南側には伊勢社、遥拝所がありますが手振れが酷く写真は掲載できません。

繰生社から先に進むと旧神宮入口に至ります。
 ここから左手の境内に戻ります。

旧神宮入口から左へ進むと上の写真の土俵に出ます。
 その奥には藤棚が広がっています、西寒多神社は藤の花でも知られ、市の名木に指定されているそうで、毎年5月のふじ祭りは花を見に訪れる人で賑わうようです。
神社解説に依れば、このふじは地区民が社殿に供える御酒の酒造所を建てる時に植えたものと伝えられているという。
 太い幹からは大きく枝を張り、満開の時期はさぞかし見ごたえがあるだろう。

この藤や観音堂もそうですが、この神社と氏子の結びつきは強いもの…と願いたい。

豊後一ノ宮 西寒多神社
創始 / 応神9年(278)
祭神 / 西寒多大神
境内社 / 合併社、天神社、大分社、厳島神社、繰生社、伊勢社
所在地 / ​大分県大分市寒田1644番地
参拝日 / 2022/10/16
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三重県志摩市 一泊二日で貝三昧

12月14.15日
寒空の下、三重県志摩市磯部町的矢のいかだ荘へ牡蠣を食べに出かけました。
 そしてかみさんが子供の頃、よく訪れた桑名の町、当時の記憶を辿る徘徊も兼ねていた。

名古屋から近鉄で桑名駅まで約25分の電車移動。
 かみさんが子供の頃に遠足で連れてこられた九華公園、当時の朧げな記憶を呼び起こすために寄ってみた。

名駅
三岐鉄道北勢線の起点でもあり、西桑名から員弁川左岸沿いをいなべ市阿下喜までの20.4㌔の区間を結び、幅の狭い軌道(ナローゲージ)で路線、写真は昭和35に製造されたク143。
四日市のあすなろう鉄道もそうですが、町中をこうした車両が走る姿は昭和生まれの者にはどこか懐かしい。
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桑名と云えば蛤と七里の渡し。

 東海道53次の宮宿と桑名宿を結ぶ海上輸送の要衝。
熱田から船に揺られて辿り着くとそこが伊勢国の東の入口にあたります。
 かみさん曰く、国営木曽三川公園桑名七里の渡し公園にも学校の遠足で来た記憶があるとかでそちらを目指す。

美濃街道を東に進み公園を目指していた途中、「北桑名総社北桑名神社」の社頭を通りかかる。
 江戸時代始めからこの地に鎮座するという神社で、三崎神明社、今一色神明社とも呼ばれ今一色の産土神
明治以降近隣の神社を合祀し社名も現在のものに改称したようです。
 三崎神明社は慶長年間、桑名藩による町割りで慶長19年本多忠政が神殿を寄進し遷宮された云う。
佐之富神社、中臣神社は両社共に延喜式内社にも名が残り、代々の桑名城主の崇敬が厚く、寛永20年松平定綱により建立されたと伝わる。
祭神は天照大御神、鵜葦不合尊、高水上命須佐之男命、天兒屋根尊、持統天皇大山祇命
 五霊神社は明治41年合祀の際、この地に点在した小祀を一社に統合し、奉斎するようになり赤神様とも呼ばれ、桑名藩主の命で災害の無い事を祈り防火の神、八天宮が祀られた。
祭神は八天宮(火産御霊神)、稲荷大明神(宇迦御霊神)、金刀比羅宮(大物主神)、船魂社(神功皇后)、天神社(菅原道真)。
所在地 / 三重県桑名市堤原7

煉瓦蔵。
 写真左の三棟の煉瓦造りの蔵は明治20年頃に創建されたもの。
当初は五棟連続の木造蔵だっと伝わり、明治28年に焼失し煉瓦造で再建された。
 それも昭和20年の戦災で西側の2棟を失い、現在は3棟が現存する。
所在地 / 三重県桑名市太一丸19-3

桑名七里の渡し公園は煉瓦蔵の前を通った先になり、更にその先は揖斐川堤防。
 おにぎりの様にも見えるが桑名だけに蛤だろう。

住吉神社
 ここから先が揖斐川長良川木曽川が隣り合う様に伊勢湾へそそぐ。

古くから水上輸送の要衝で港が整備され、周辺は廻船業者が集まっていた。
 そうした事もあり、航海の安全を祈願するため、正徳5年(1715)摂津国住吉大社」から勧請し建立されたと伝わります。
祭神は表筒男命中筒男命底筒男命神功皇后八幡宮天照大御神稲荷大明神を合祀。
 桑名宗社境外末社で、現在の社殿は揖斐川堤防改修整備が行われた平成15年に新しく建替えられたもの。
所在地 / 三重県桑名市

堤から東の眺め。

 手前が揖斐川、その先は長良川と河口堤。
この辺りから揖斐川長良川は流れを一つにします。

伊勢国一の鳥居。
 東海道唯一の回路で伊勢国の東玄関にあたる事から一之鳥居が建てられている。
当初の鳥居は天明年間(1781~1789)に建てられ、この一帯には舟番所、高札場、脇本陣等が置かれ街道を行き交う人で賑わい桑名宿の中心として栄えたが、伊勢湾台風以降の改修に伴い往時の姿はありません。
 七里の渡しの石標の後方に見える櫓は水門統合管理所で、水位に応じ周辺の水門の開閉作業を行う施設。
往事の蟠龍櫓の跡に建てられていて、外観は景観保全を意識し往時の姿を再現したものだと云う。
 治水目的のためオランダ人技師団が招かれ、船頭平閘門の施工でも知られたヨハネス・デレーケが関わっている。 

所在地 / 三重県桑名市船馬町34
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伊勢国一の鳥居から東海道を南進する、街道沿いは嘗て宿や食事処が立ち並んでいた面影が残る。
 写真左の手打ちうどん「 □噌煮込 川市」で昼食。

はまぐり鍋うどん(@1,590)を頂く、かみさんは小鉢と天丼の付いたはまぐり本膳(@2,180)を頂く。
 当日は日中も気温が上がらず、天気も雲が流れ込むと小雨が降る生憎の空模様。
冷えた体にグツ〃煮えたぎる鍋うどんは有難い。
 はまぐりの風味が口に広がり桑名に来た?感じを味わえる。
個人的感想、はまぐりうどんを提供する店は他にもあり、それぞれ店の味があるのだろう。
 ここは塩加減が強く、折角の蛤の風味を消してしまい、自分には合わなかった。
この値段が妥当なのか分からないが、「桑名だから蛤」に拘らなければ味噌煮込みランチ(@990)がお勧めかも知れない。
 麺はいかにも手打ちそのものの美味しいものだった。
川市
所在地 / 三重県桑名市川口町32

本多忠勝像。
 三の丸公園の南、柿安コミュニティパークに桑名城を築いた本多忠勝銅像が立つ。
桑名藩初代藩主、徳川四天王の一人で桑名城下町の基礎作り、神仏の崇敬も厚かった。
 背中の後ろに立てられた代名詞ともいえる蜻蛉切(とんぼきり)、飛び交うトンボが槍に触れるとスパッと真っ二つになるほどの切れ味だったと云う。
どっしりと腰掛け、先を見据える姿と表情は実にいい姿をしている。
 所在地 / 三重県桑名市吉之丸5

かみさんが子供の頃感じた飾り気のなかった公園のイメージとかけ離れ、随分と整備され綺麗な公園に変っているようだ。

桑名宗社。
桑名宗社とは桑名神社と中臣神社の両社をあわせた名称で、古来桑名の総鎮守として桑名首(くわなのおびと)の祖神を祀る神社。
写真の青銅の鳥居は寛文7年(1667)の銘があり、笠木全面に紋が刻まれ、参道先に見える総門も古来桑名の総鎮守に相応しい立派なもの。
桑名首(上代桑名の豪族)の祖神であることからの桑名の開祖として繁栄の神と崇敬されているそうだ。
拝殿は入母屋瓦葺で二つの唐破風向拝が並列に並ぶ。

延喜式神名帳伊勢國桑名郡にも記された古社で桑名神社、祭神 天津彦根命 天久々斯比乃命

中臣神社、祭神 天日別命、相殿 春日四柱神(建御雷神、斎主神、天兒屋根命、比売神)
境内には母山神社、皇大神宮御分霊社、桑名東照宮春日稲荷神社が鎮座し、多くの限定御朱印始め、日吉社御朱印もこちらで頂ける。

桑名東照宮が示す様に徳川家とも関りが深く、家康の孫娘である千姫が建立したものだと伝わる。
見た事はありませんが、石取祭りはユネスコ無形文化遺産になっているそうだ。
毎年八月第一日曜日を本楽、前日を試楽として行われ、日本一うるさい祭りとも云われるそうです。
桑名宗社

所在地 / 三重県桑名市本町46

安永餅本舗 柏屋

焼き立てホカホカの安永餅を一個からでも購入でき、店内で食べられる。
冷めた安永餅はお馴染みの味ですが、焼きたてのものはこちらでしか提供していないという。
安永餅本舗 柏屋
所在地 / 三重県桑名市中央町1-74


桑名徘徊ルート

さて車中で飲む酒を買い求め、鈍行で牡蠣食べに行こう、目的地は志摩磯部駅、約2時間程の電車移動。
座席がとても暖かく眠りを誘う。


桑名から約2時間​。
志摩磯部駅到着、この駅舎改札出口の天井はドーム状でカラフルなステントグラスが入るお洒落なものだ。
外観もレトロで、駅舎には時計台があるが、短針も長針も脱落し時刻盤だけというお茶目な時計台だ。

この駅から宿までは送迎バスで15分程、今夜の宿はいかだ荘山上。
 ここで牡蠣を食べ尽くす(そんなに食べれないのだが・・)

いかだ荘 山上
的矢の牡蠣を食べさせてくれる事で知られる宿、今回は全国旅行支援を活用して訪れました。
 前日に宿から電話があり確認かなと思いきや「ボイラーが故障し内湯が使えません、露天の家族風呂は使え、近隣の旅館の内湯までお好きな時間に送迎も致します、この状態でもお越し頂けますか?」との事だった。
「牡蠣を食べに行くのが目的なので伺いま~す」との事で訪れた。

家族風呂1。
 普段は有料ですが希望者は予約し無料で一時間貸し切れました。
偵察を兼ね一人で訪れ、かみさんに状況報告「開放的で海の眺めも良く、湯加減もいいが外は寒い、家族風呂1で待つ」、すぐに「パス」の回答だった。
 家族風呂で一人温まる、缶ビールでも持って来ればよかった・・・
湯上り後缶ビールで仕上げる、あとは牡蠣を食べるのみ。

いかだ荘では刺身や牛肉など豊富なプランがあるが、牡蠣オンリーの牡蠣食べ尽くしプランを選択。
 ボイラーの件もあり、旅館から最初のアルコールはサービスとの事でビールを頂いた。
ワインの取り揃えも充実していたが、ここは日本酒!。

生牡蠣は伊勢志摩プレミアムオイスターと的矢牡蠣の選択が出来た、自分は的矢牡蠣、かみさんはプレミアムオイスターを選択。
写真は的矢牡蠣。
今年の牡蠣は生育が宜しくないようで身が小さく、プレミアムオイスターはそれより更に小さいという事だったが、十分でしょう。
潮の風味と牡蠣の風味が口の中いっぱいに広がる。
ワイルドな牡蠣の風味は的矢、旨味はプレミアムか?


プレミアムオイスターも本来別料金かもしれない、コースでは選択できないような気がする。
これもボイラーの影響か?

以前家族で食べ放題の牡蠣小屋を訪れた、蒸と焼きだけの無制限はさほど食べきれないもの。
椀子そばの様に次から次に待ってきてくれても、そんなに食べれないもの、食べ放題では元は取れない。
ほど〃がちょうどいい。
 

ところで、付け合わせのレモンはmustなのかぇ、自分だけかもしれないがレモンは使わない派。
会社の会食などで、あもそもなく絞られるととても残念に思う方・・・・(評価下げてやる)。
からっと揚がった熱々のから揚げに容赦なくレモンシャワーが降り注がれると、冷めるしレモン風味になってしまう、それが残念でならないんです。

牡蠣尽くし、酒尽くし美味しい牡蠣をゆっくり頂き、テラスから的矢湾に陽が落ちていくのを眺める。
 今夜は流星群がピークを迎える、起きてさえいれば見れそうだったが部屋に戻ってバタンキュー。

筏荘テラスからのは朝陽。
 かみさんが内湯をリクエストしたのでフロントにお願いしに行ったときの光景。

車で近くの旅館 橘の内湯へ、湯あがりに旅館から見た朝陽を一枚。
 朝陽の赤が加わり周囲の紅葉が燃え上がる。

宿に戻り朝食を頂き、チェックアウトの10時までゆっくりさせてもらう。
 朝からビール、電車ならではの楽しみだね。

いかだ荘 山上
所在地 / ​三重県志摩市磯部町的矢883-12

燃料補給も終え、チェックアウト。
お国からの補助金にクーポンも頂け、しかもボイラーで不便をかけたとの事で旅館からも割引をして頂け、宿泊代は一人1万を軽く切っていた。
 牡蠣食べに来ただけなのだが随分といかだ荘には気を使ってもらえた、また利用させてもらうしかなさそうだ。

さて磯部駅から鳥羽方向の中之郷駅まで30分の​電車移動​。
 帰路に着く前に中之郷から鳥羽城跡を徘徊し、鳥羽駅まで向かう。

旧鳥羽小学校から頂を目指す。
 東側の眺望が開けると眼下に鳥羽の街並みと鳥羽湾の眺望が広がる。

鳥羽城跡。
 野面積みの石垣が幾重にも築かれ名残を感じさせる。
本丸跡は運動場の様な広い空間で井戸跡など僅かに遺構は残る程度、少し前までは小学校の運動場だったようです。
 ここから東の眺望は絶景、舟で攻めてくれば遥か先から見通せる。
鳥羽城址
所在地 / 三重県鳥羽市鳥羽3-1-1

本丸から北側の城山公園に向かうと鳥羽水族館ミキモト真珠島を見渡せる展望台に続きます。
 最近流行りの文字モニュメント、分かりやすいので一枚。鳥羽に来たぞッと。

ここ電車を撮るには良いスポットかも知れないですよ。
 鳥羽駅を出た車両が青い海を背景にしてカーブから現れる。

ここから更に北に進むと西側に小路があり、そこを降りると大山祇神社・白龍稲荷神社に出ます。
 山の中腹に鎮座する小さな神社ですが、当日は境内がイチョウの落葉で黄一色に染まっていました。
冬本番もいよいよなんだろうか。
 瀬戸内海に浮かぶ大三島大山積神社の末社で、横町、中之郷、藤乃郷、錦町の村社として1907年(明治40年)に建てられた神社だと云う。
1,594年(文禄3年)、九鬼嘉隆が鳥羽城築城の際、石垣が何度も崩れた事から、元城山に斎祀されていた大山祇神をこの地に移したところ、石垣は崩れる事無く鳥羽城が築城できたと伝わる。
祭神は大山祇神、草野姫命、猿田彦命をお祀りするようです。

大山祇神社・白龍稲荷神社

所在地 / ​三重県鳥羽市鳥羽3-4-15

ここから更に下り、鳥羽市内の鳥羽駅方向へ、

焼貝 いろは
鳥羽駅からすぐ先のさざえストリート、ここはどこも新鮮な魚介を提供するお店が軒を連ね、こちらで昼食を摂る事に。
写真1番手前のお店がいろはです。
どこも声掛けに余念がなく、ついつい引っかかってしまったが単に貝だけではなく、右の「じこん」が冷蔵庫で冷やされているのを発見、それもあって入らせてもらった。
写真のひおき貝が二つで550円、サザエ二つで650円と比較的安価な価格設定で、貝を摘みに昼飲みするには嬉しいかもしれない。

写真の「じこん」はなかなか手に入らない、ネットでは10倍の価格で売られとても買えない。
 今回の鳥羽行きで出逢うことを期待していたが漸く巡り逢えた。
フルーティーな口当たりで香りもフルーティー、貝によく合うお酒だった。欲しい一本ですが手に入らない。
一人二杯のんで貝は何回かお代わりして一人3,000円のクーポンで事足りた。
酒の銘柄も多く主に三重県産、桑名、津のお酒が揃っていた。

焼貝 いろは
所在地 / ​三重県鳥羽市鳥羽1-8-5

鳥羽マルシェ
土産を買おうと鳥羽一番街に向かうも木曜は定休日、やむなく鳥羽マルシェに。
そこで出会ったサメ春巻き、これにかみさんが引っ掛かり、一つ購入。
サメは臭い印象しかないが、なにこれ、中のホワイトソースがしっかりした味で、サメの臭さも全くなくサメの存在を感じさせない、淡白な普通の魚に変身している。意外にサメもすてたものではないか。
大衆魚も捕れなくなり、なんでも食べていかねば。
商品名にサメと表記しなければ引くものも少ないかも、クリーム春雨、原材料サメ。
美味しかったです。
鳥羽マルシェ
三重県鳥羽市鳥羽1-2383-42

鳥羽駅
一泊二日の貝三昧、かみさんも昔の記憶を辿り、あの頃を呼び戻す事が出来たようだ。
ここからは鈍行電車に揺られて伊勢を後にする、のんびり帰ろう。

お国の支援を頂き、お安く行けた事はいいのだが、その分はしっかり増税で回収されそうだ。

明日から再び粗食に耐えなければ。
2022/12/14~15
鳥羽市徘徊ルート