稲置街道を行く 『山の子社』

「史蹟五郎丸初生地」から県道27号線(稲置街道)を北上、国道41号線を超えてしばらく歩いていきます。

f:id:owari-nagoya55:20210417070258j:plainやがて「万願寺」という信号のある三叉路が見えてきたらそこで左に入ります。
稲置街道はここで県道から別れます。
(写真は国道41号線の南側からもの)

f:id:owari-nagoya55:20210417070316j:plain曲がってすぐ前方右側に赤い鳥居が見えてくると思います。
ここが今回の経由地「山の子社」。
ここまでの県道に比べ随分道幅も狭く、整備された歩道もなくなります。
この道がまた結構交通量が多いので歩きスマホは危ない通り。

f:id:owari-nagoya55:20210417070335j:plain史蹟五郎丸初生地では五郎丸の地名の由来などが分るものと期待していましたが、結局大した気づきもなく後にしました。
ここ「万願寺」も同じになりそう。住所で言うとこの辺りは五郎丸字万願寺となるようです。
交差点名が地名とは言い切れませんが「万願寺」とあれば、当然ながら寺があるかと思いますが、現在ここに「万願寺」は存在しません。
グーグルマップによれば、寺はないけれど「万願寺碑」と云うものが出て来た。
どうやら、この曲がり角あたりにその昔「万願寺」という寺があったようです。

f:id:owari-nagoya55:20210417070356j:plain現在は写真の「山の子社」があるのみで寺の名残は残っていません。
万願寺を調べていくと安土桃山時代キリシタン寺だったようです。
キリスト教自体がカトリックポルトガルやスペイン、プロテスタントのオランダなど布教する側の思惑や、その時代の天下人の思惑もあって広がりを見せながらも時代により信者は翻弄されます。
それは1612年(慶長17)征夷大将軍となった家康が出した禁教令によりキリシタンは表から消える事になると共に弾圧に拍車がかかります。
隠れキリシタンキリシタン弾圧と聞くと、島原の乱など少し離れた所の出来事として捉えがちですが、隠れキリシタンは全国的な広がりを持っていたようで、よもや身近な地域にもそうした歴史が刻まれているとは初めて知ることになります。
当時のこの辺りは五郎丸村として二百名ほどの村人が生活し、一部にキリストが崇められていたようです。
万願寺はそうした信者の拠り所として存在していたようですが、禁教令により寺は取り壊され、多くの信者が亡くなったそうです。
寺の跡地に鎮座する山の子社、その境内の一画に五郎丸や近隣の亡くなった殉教者たちを弔う「諸神諸佛諸菩薩(しょしん しょぶつ しょぼさつ)」と刻まれた卒塔婆が建っています。

f:id:owari-nagoya55:20210417070413j:plain街道沿いの小さな社地、境内は奥行きもなく、鳥居をくぐると直ぐに本殿域。
角の取れた丸い石が積まれた本殿域には、板宮造りの二社と左右に石標が建てられています。

鳥居の額には山の子社とありますが馴染みがなく、社には社名札もないので詳細は不明。
稲荷とするにはそれらしい根拠もなく、本殿域左の石の祠から思うに山の神などの自然崇拝から起きている神社なのかもしれない。

卒塔婆は向かって右端のもので、正徳壬辰二年(1712)と刻まれています。
キリシタン弾圧の歴史を持つ五郎丸の地に鎮座する山の子社、見た目は小さいけれど伝えたいことは多くありそうです。

それを繋いで行く物があってもいいのかもしれない、その際には「五郎丸」の由来も教えてもらいたいものです。

山の子社
創建 / 不明
祭神 / 不明
所在地 /    犬山市五郎丸字万願寺
徒歩アクセス / ​史蹟五郎丸出生地から北に進に万願寺交差点を左へ、所要時間15分程

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