下街道の御嶽社 岐阜県瑞浪市

岐阜県瑞浪市土岐町「御嶽神社
 前回掲載した「下街道の不明社 岐阜県瑞浪市」の中で御嶽神社参道は結局🐍が怖くて立ち入れなかった。
後日元善光寺御開帳の際、帰り道に瑞浪を通りかかり再び訪問する事にした。
 今回は松阪町西交差点の北角に建つ不明社の裏から上に続く細い上り坂から向かってみた。

坂を上り切ると左に注連柱があり中は広場になっていたので車はこちらに停めさせていただいた。
 社頭には社標もなく一抹の不安が残るがかみさんに待ってもらい一人で御嶽神社に迎う。

広場から奥に杜の中に向かって参道が続く、右手の常夜灯から参道は右に折れているようだ。
 杜の中に踏み込む事だけは避けられそうだ。

鳥居から境内の全景。
 普段なら参道の先に拝殿が・・・・で書く所だがここは少し様相が違う。
個性的な鳥居の形状に視線が行き見惚れてしまう。
 普通なら柱の上に貫、島木、笠木と乗っていくのだが御嶽神社の鳥居は少し違う。
貫きから飛び出た二本の柱の先端には島木や笠木はなく、山型が乗せられている。
 しかも中央の山型は額束の上に山型が乗せられ、三つの山型が笠木の様に配されている。
しかも一体物ではなさそうで、絶妙のバランスで笠木の形を作っている。
 その形は御嶽神社らしい御山の形を作り出している。

額束には御嶽山とある。
 下街道沿いの鳥居はここに繋がるものだろう。
それにしてもこの額束と山型、どう見ても一体ではない、願掛け石が乗せやすいからと云って安易に乗せるといつかバランスを失うような気にさせる。

境内から見る鳥居。
 表からは樹々に隠れ分からなかったが柱の左右に脇柱を持った三輪鳥居の形状をしている。
笠木の緩やかな曲線が美しく、御嶽山を強くイメージさせる印象的な鳥居だ。

笠木。
三つの山型が並び、御嶽講の山丸三の紋を強く意識した外観。
 こうして斜めから見ても其々単独で乗せられている様にしか見えない、斬新な造りの鳥居。
額束は裏側にも御嶽山とある。
 寄進年度は大正6年(1917年)とある。
建立後100年を経て、この間の自然災害でもこのバランスは崩れていないようだ。
 鳥居ばかりに目が奪われていては先に進めないので先に進もう。

境内左の天徳天神社。
 詳細は分からないが天徳と聞くと自然崇拝色の香りが漂う。

常夜灯後方に手水鉢。

御嶽神社社殿全景。
 入母屋瓦葺妻入りで大きな向拝が付く。
創建・由緒等の情報はなく調べて見たが分からなかった。

拝殿に掲げられた大きな額「御嶽神社
 額には「三河西加茂郡本城村日面 明治36年(1903)講社中」とある。
創建は不明ですが、御嶽講自体江戸後期から大正後期にかけ最も流行ったとも云われます、創建はその時期かもしれません。
 拝殿内を窺うがガラスに景色が映り込み内部の様子は掴めなかった。

拝殿斜景。
 拝所左には「修行道場」の大きな木札が掲げられていました。
ここでふと気が付く、御嶽神社の個人的の印象は岩と多くの霊神碑が立ち並ぶ印象があるけれど、こちらにはそうしたものを目にしない。
 山岳信仰でいう修業は個人的主観で云えば自らの足で御山を訪れ、登拝するイメージが強い。
ここ瑞浪は御山に続く道沿いとなりひょっとすると修験者たちの坊的な位置づけなのか?

 御嶽講は霊峰御嶽を崇敬対象として大きく覚明系と普寛系に分かれている。
この御嶽社がどちらの流れをくむものか定かではないが、人の手に負えない巨大な山の姿と山が育む木や草花、森がもたらす水、雲や風など、そうした事象に人は神や仏の存在を感じるのだろう。

 すべての根源は山に生まれ、山に戻る、そうした自然崇敬の素朴な宗教観なのかもしれない。
山岳民族などそうした宗教観があり、先祖に会いに険しい山に登拝し手を合わせ礼拝する。
 年寄りなど日々朝陽に向かって手を合わせ拝んでいる姿を見た事があると思う、自然に対する素直な畏敬の念の現れなのかもしれない。
山岳信仰もある意味それに似ているような気もする、山が育む自然の一つに人も含まれているのだろう、御嶽神社は忌み嫌う対象ではない事だけは間違いない。

参拝を終え個性的な鳥居をくぐり下を覗いてみる、なんとなく下街道の鳥居に続く踏み跡らしきものはあるがやはり降りる度胸はない、自然の中のパズルの一つおやじ、🐍の傍には入れて欲しくない。
 行き先が分かっただけでもスッキリした、まさかその先で見事な鳥居が待っていたとは、立ち寄って正解だった。

御嶽神社
創建 / 不明
祭神 / 御嶽大権現
境内社 / 天徳天神社
参拝日 / 2022/05/25
所在地 / ​岐阜県瑞浪市土岐町
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