栃木県日光市今市『追分地蔵尊』
鬼怒川公園駅から東武鬼怒川線で約35分程の移動時間でここ今市駅に到着。
ここからJR日光線に乗り換えのため市街を歩く。
日光山への表玄関であり、裳階屋根のレトロな外観は好感が持てる。
この駅には登録有形文化財の跨線橋やSL展示館と転車台(全国一之宮巡り 二泊三日で栃木県 part2)があり、跨線橋を渡れば無料で見学でき、運が良ければSL「大樹」を間近で見る事が出来る。
この地は日光街道、日光例弊使(れいへいし)街道、会津西街道の分岐点にあたり、室町時代末期には「今村」と呼ばれる小さなだったという。
江戸時代には日光山の寺領になったのを期に毎月定例日に「市」が開らかれた事から、「今市」といわれ今市宿としても賑わったと云われ、当時は上町・中町・下町とあり、下今市の下はそこから来ているという。
この駅には登録有形文化財の跨線橋やSL展示館と転車台(全国一之宮巡り 二泊三日で栃木県 part2)があり、跨線橋を渡れば無料で見学でき、運が良ければSL「大樹」を間近で見る事が出来る。
この地は日光街道、日光例弊使(れいへいし)街道、会津西街道の分岐点にあたり、室町時代末期には「今村」と呼ばれる小さなだったという。
江戸時代には日光山の寺領になったのを期に毎月定例日に「市」が開らかれた事から、「今市」といわれ今市宿としても賑わったと云われ、当時は上町・中町・下町とあり、下今市の下はそこから来ているという。
周辺で見かけたマンホール。
中央は旧市章で周囲に市の花「カタクリ」、市の木「スギ」、市の鳥「カワセミ」が描かれていた。
どれも豊かな自然が残る日光を象徴するもの。
下今市駅からJR今市駅に移動の際見かけた「今市追分地蔵尊」の案内板。
さほど遠回りでもないので日光街道、日光例弊使街道の分岐を見がてら道草してみた。
下今市駅から徒歩5分程、今市追分地蔵に到着。
写真は追分地蔵右手の日光例幣使街道。
左手に国道121号線、旧日光街道が続き、その分岐に鎮座するのが今市追分地蔵。
国道を行き交う車は多いが例幣使街道を行き交う車は以外に少なく、杉並木の続く道には街道の面影が強く残る。
この街道は江戸時代、家康没後東照宮に幣帛を奉献する勅使(日光例幣使)が通った脇街道。
追分地蔵尊。
堂は銅板葺の入母屋平入の大棟から直角に棟が接続し軒唐破風が付く手の込んだ屋根構造で地蔵を安置する堂としては立派なもの。
地蔵は一般的に錫杖と宝珠を持つ姿を見かけるが、こちらの地蔵様は左手の上に右手を重ね、両手の親指の先を合わせ、他の指は伸ばす法界定印(ほっかいじょういん)の手印を結んでいる。
解説によれば1673年(延宝元年)の頃、日光憾満ヶ淵から流されここに来たものとされ、一時期(1886年頃)に於て近隣の如来寺に移されたと伝わるがその後再びこの地に戻されたと云う。
一方で以下の様な伝説が伝わる。
「昔、大谷川の川原で石切り職人が仕事をしていると、ふと触れた石の肌から血が流れだした。
不思議に思い何度か叩くと、どんどん紅の血潮がほとばしり、驚いた石切り職人は人を呼び懸命に彫り出したという。
それは坐像の地蔵尊でその評判は近郷にまで広まった。
一先ず地蔵尊は追分に安置したが、野天に曝すのは恐れ多いと二日かけて如来寺に移された。
以降、町の人達の参詣が絶えることがなかったとされるが、やがて妙な噂がたつようになったと云う。
夜遅く地蔵の前を通りかかるとすすりなく声が聞こえ、夜中になると町の中に火柱が立ち、火柱は場所を変え多くの人々に目撃されたと云う。
以降、地蔵尊の怪として地蔵様に近づくものはいなくなり、町の長老達の協議で「あの地蔵は日光憾満ヶ淵の親地蔵様が大水で流されてきたものだ、日光が恋しくて不思議な現象を起こすに違いない、元の様に小倉町の日光が望める所に安置するのが良かろう」となり、ここに移されたと云う。
それ以降不思議な現象はなくなり、再び参詣者で賑わう様になったそうだ。」
日光憾満ヶ淵から今市に流れ着いた地蔵様、日光が見えるこの追分はお気に入りのようだ。
流れ着いた頃は一人ぼっちだった地蔵様だが、今では多くの仲間も増え寂しい事はないだろう。
今市追分地蔵尊
制作年代は鎌倉時代から室町時代とも云われ定かではなく、丸彫り坐像の石地蔵として東日本有数のものだと云う。地蔵は一般的に錫杖と宝珠を持つ姿を見かけるが、こちらの地蔵様は左手の上に右手を重ね、両手の親指の先を合わせ、他の指は伸ばす法界定印(ほっかいじょういん)の手印を結んでいる。
解説によれば1673年(延宝元年)の頃、日光憾満ヶ淵から流されここに来たものとされ、一時期(1886年頃)に於て近隣の如来寺に移されたと伝わるがその後再びこの地に戻されたと云う。
一方で以下の様な伝説が伝わる。
「昔、大谷川の川原で石切り職人が仕事をしていると、ふと触れた石の肌から血が流れだした。
不思議に思い何度か叩くと、どんどん紅の血潮がほとばしり、驚いた石切り職人は人を呼び懸命に彫り出したという。
それは坐像の地蔵尊でその評判は近郷にまで広まった。
一先ず地蔵尊は追分に安置したが、野天に曝すのは恐れ多いと二日かけて如来寺に移された。
以降、町の人達の参詣が絶えることがなかったとされるが、やがて妙な噂がたつようになったと云う。
夜遅く地蔵の前を通りかかるとすすりなく声が聞こえ、夜中になると町の中に火柱が立ち、火柱は場所を変え多くの人々に目撃されたと云う。
以降、地蔵尊の怪として地蔵様に近づくものはいなくなり、町の長老達の協議で「あの地蔵は日光憾満ヶ淵の親地蔵様が大水で流されてきたものだ、日光が恋しくて不思議な現象を起こすに違いない、元の様に小倉町の日光が望める所に安置するのが良かろう」となり、ここに移されたと云う。
それ以降不思議な現象はなくなり、再び参詣者で賑わう様になったそうだ。」
日光憾満ヶ淵から今市に流れ着いた地蔵様、日光が見えるこの追分はお気に入りのようだ。
流れ着いた頃は一人ぼっちだった地蔵様だが、今では多くの仲間も増え寂しい事はないだろう。
堂の左側の二十三夜尊(左)、くさ地蔵尊(右)がある。
二十三夜尊は月待講の一つで、くさ地蔵尊は子どもの皮膚病を治してくれる地蔵様だと云う。
僅かな時間でしたが、お地蔵様を拝みに訪れる参拝客は一人、また一人と後を絶たなかった。関連記事 /