奈良市春日野町「春日大社」
その名は広く知られ、全国に約千社ある春日神社の総本社で、ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の1つに登録されている。
修学旅行で奈良を訪れればコースに組み込まれる見所の一つだろう、自分もその中の一人。
春日大社の入口は左に興福寺、右手に猿沢の池を見ながら三条通りを東進した突き当り。
三条通の東の突き当りに立ち、平安中期頃に建造された木造の明神鳥居。
太い柱が印象的な現在の鳥居は寛永11年(1638)に再建されたものとされ、古くは春日大社と興福寺境内の境に立つ結界の役割を持っていました。
日本三大木造鳥居のひとつに数えられる大鳥居で、高さ7.75㍍あるという。
因みに日本三大木造鳥居は以下。
・福井県敦賀市鎮座 氣比神宮(両部鳥居)
・広島県廿日市市鎮座 厳島神社(両部鳥居)
と、ここ春日大社の一ノ鳥居(明神鳥居)を指すようです。
いずれも立派な鳥居ですが、春日大社のそれは控柱を持たないものなので、柱の太さがより強調される。
社殿はこの鳥居をくぐった約1㌔先に鎮座します。
御蓋山の西麓の広大な神域に春日造の本殿4棟をはじめとする社殿があり、西側・南側に多くの境内社が鎮座し、それらを巡拝する若宮15社巡り、水谷9社巡りがあります。
それら社殿や燈籠、自然など写真を整理する枚数が膨大になってしまい、一ノ鳥居をくぐり参道から本殿までを今回、若宮15社巡り、水谷9社巡りと三回に分けて掲載します。
まず上の写真は一ノ鳥居から眺めた参道。
9:30に鳥居前に到着、既に観光バスは頻繁に訪れ、参道の先は参拝客で賑わっているのだろう。
本殿は9:00から開くので、人で混みあう前の静かな境内を歩くならもう少し早い時間がいい。
最初に栞から春日大社の由緒を以下に記載します。
「御由緒
春日大社は1300年程前の平城京の守護神として、常陸国より国譲りに貢献された武神である武甕槌命、下総国より神武東征を導き、建国に尽力された武神である経津主命、河内国より天岩戸にて斎主として最初に祝詞を奏上された天児屋根命、美しく心優しい比売神の四柱が祀られている。
都・日本を護るために最も力のある四神を祀るため創建されました。
国家鎮護の神様であると同時に藤原氏の氏神でもあります。
奈良時代以降は天皇の生母のハ割以上は藤原氏であり、天皇、上皇の行幸は42回におよびます。
平安時代からは3000基の灯籠が奉納され、将軍や貴族はじめ、九割以上を庶民から奉納されたもので、中世以降は民衆から広く崇敬されている。
3月13日に斎行され、宮中より宮内庁の掌典職が、平安時代の延喜式のままのささげ物である御幣物を供えて祈り、平安時代の古式のまま現在も続いている。
その後も神山への春日信仰は続き、平安時代には朝廷より神山の狩猟伐採禁止の法令が出されたため、今も春日山原始林が存在し、明治時代までは100万坪、現在でも32万坪の広大な境内を有しています。
また、古代より春日大神の使いである神鹿の殺生も禁止され、一帯には現在も1200頭の鹿が生息しています。
春日大社末社 壺神神社。
燈籠が連なる長い参道を10分程進み、月替わりの粥が楽しめる春日荷茶屋を過ぎた参道左に鎮座する神社。
社殿に向かう参拝客は多いが、壺神神社を参拝する姿はほゞ見かけなかった。
祭神は仁徳天皇(257~399)の御代、大陸からやってきて酒造技術をもたらしたとされる兄妹、男神酒弥豆男神(さかみずおのかみ)と酒弥豆女神(さかみずめのかみ)が祀られている。
脱線するが仁徳天皇と云えば「高き屋に 登りて見れば 煙立つ 民のかまどは にぎはひにけり」の和歌で知られるが、竈の煙から民衆の疲弊度を把握し課税を免除し自らの宮殿の整備も見送ったとされる。
見もせずに語るだけのどこぞの人物に見習ってほしいところだ。
参道沿いの奉納燈籠はシンプルなものから、竿に多様な意匠が施されたものもあり、苔むした古いものが連なっています。
ニノ鳥居。
壺神神社から5分程先にある木造鳥居で、手前に大きな狛犬が鎮座する。
狛犬が見つめる先の鹿と比較すると大きさが想像できると思う。
春日大社の神紋下り藤が刻まれた台座の上に鎮座する狛犬。
寄進年未確認。
祓戸神社
二之鳥居をくぐった左にある社で、祓い浄めの女神とされる瀬織津姫をお祀りする。
春日大社にあって珍しい檜皮葺の一間社流造の社。
「末社 祓戸神社
例祭 6月30日
由緒
春日大社大宮(ご本殿)が創建されたすぐ後の、神護景雲四年(770)に鎮座と伝えられる古社。
大宮の創建以来続く春日祭では、古くは天皇陛下の勅使が京の都から2500人近くの官人などを率い参向された。
現在も勅使はこの社で御祓いの儀式を済ませたあと、大宮御神前に進まれ春日祭をご奉仕になる。
このように非常に格式の高いお社で、江戸時代までは中社(摂社)とされていた。
祭神は祓の神様であり、知らず知らずのうちに犯した罪・穢を祓い清め、人々を幸せに導く神様で、6月と 12月に行われる大祓式はこの社で執行される。
参拝の方は手水の後、まず祓戸神社に参拝し、心身を清浄にして大宮・若宮にお進みください。」
とあり、創建は平安中期の寛弘3年(1006)にはお祀りされていた古社です。
その右側の伏鹿手水所。
ここでは龍より鹿。
上
祓戸神社から参道を進むと左手に南回廊と摂社榎本神社が見えてきます。
上の写真のように参道から石段が伸びていますが、人で溢れる楼門に向かう流れはあるが、榎本神社に参拝する姿は見られなかった。
楼門(南門)から廻廊の西端に埋め込まれる様に鳥居が立てられ、菱格子で囲われた中に春日造の本殿が祀られています、廻廊が榎本神社の覆屋のようにも見えてくる。
「榎本神社由緒
御祭神 猿田彦命
例祭 11月1日
御神徳
寿命を守り給う神として信仰され、安永4年(1775) には宮中より御祈祷と願い出られた。
又、導きの神、道開きの神として人生の岐路に御加護を願う人が多い」
ここから廻廊沿いの石燈籠を通り抜けるように右に向かうと楼門に続きますが、ここはやはり石段を下り参道から楼門に向かう。
楼門前へ続く石段は記念撮影スポット、団体が過ぎるのを待つため、突き当りから楼門(南門)を眺める。
楼門の真正面に玉垣で囲われた出現石があります。
中には小さな岩が頭を出して埋められており、解説は以下。
「この石は太古の昔、神様が降臨された神聖な「磐座」であり、赤童子(若宮様の荒魂)が出現されたと伝わる事から「出現石」といわれる。
また奈良時代の宝亀3年(772)に雷火により落下した社額を埋納した「額塚」とも言われ信仰に深く関わる神石である。
なお、この出現石から若宮方面に20㍍ほど先、布生橋の手前にわずかに姿をのぞかせる「如意石(さぐり石)」 まで、目をつむってたどり着くと、願いが叶うといわれている。」 上
楼門正面。
下
楼門前から南回廊と榎本神社。
楼門の高さは約12㍍あり春日大社の建築物としては最大のもので、平安時代中期頃は本殿の正面に位置する鳥居だったようで、藤原氏の長者や摂関による春日詣の参向門とされ、廻廊が作られた治承3年(1179)に二層の楼門に改められ、春日大社の正門としての性格を持つようになったという。
現在の三間一戸の入母屋檜皮葺の楼門は文久3年(1863)のもの。
回廊周辺や若宮に向かう参道には苔生した古い元号の石灯籠が多く見られました。
楼門をくぐった先の参拝所と幣殿。
貞観元年(859)に建立された桁行五間、梁間三間の切妻檜皮葺の建物で、手前の一間が拝所と奥の二間を幣殿として区分けされている。
雨天にはここで神楽や舞楽が奉納される。
ここから先は特別拝観券(@500)が必要なので、参拝所前の混雑は多少緩和されます。
有料区域に入ると東廻廊を背にして四社が祀られています。
上が井栗神社 祭神 高御産霊神、例祭 5月25日、御神徳 安産の神様で縁結びの御利益も得られる神様。
下は穴栗神社 祭神 穴次神、例祭 5月25日、御神徳 幸運を導いて下さる神様。
右が辛榊神社 祭神 白和幣、例祭 5月25日、御神徳 交渉をおまとめ下さる神様
左は靑榊神社 祭神 青和幣、例祭 5月25日、御神徳 争いを解決に導く神様
中門。
本殿の直前にある楼門で江戸時代前期の慶長18年(1613)に建立された一間一戸の檜皮葺の楼門で、
約10㍍の高さがあり、正面の唐破風は明治時代になって取り付けられたものとされます。
神仏分離以前は興福寺僧侶や東大寺の僧侶が読経をあげる場所で、現在は本殿の祭典では、神職の座る場所ですが、例年1月2日の日供始式並興福寺貫首社参式では興福寺の僧侶が神前で読経を行うそうです。
楼門唐破風屋根から上層の眺め。
東から御廊と中門の眺め。
左の注連縄が張られた太い幹の杉は樹齢1000年とも云われ、樹高は約23㍍、幹回りは約8㍍と云われ、鎌倉時代後期(1309)に描かれた春日権現験記にもその姿は描かれている。
根元から四方に伸びるイブキの樹は直会殿の屋根を貫いて上に向かって聳えています。
上
中門右の手力雄・飛来天神社参拝所
手力雄神社
祭神 手力雄神
例祭 4月1日
神徳 勇気と力の神
飛来天神社
下
東回廊(内回廊)。
吊燈籠がたくさんあることで知られる春日大社、平安時代から現在までに奉納された燈籠は3000基を超えるとも云われ、数だけでなく歴史的にも貴重なもので、室町時代以前の燈籠の六割以上が春日大社にあるという。
8月14・15日の「春日万燈籠」では全ての燈籠に明りが入れられる。
「奈良時代初め、平城京守護のため、春日大社第一殿の祭神、鹿島の武甕槌命が白鹿の背に乗り天降られた神蹟、御蓋山頂上浮雲峰の遥拝所。
神護慶雲3年(786)に本殿が建立される以前に鹿島・香取・牧岡の神々が鎮まる神奈備として崇められ、現在も禁足地として入山が制限されている聖地。
この遥拝所は浮雲峰から春日大社御本殿を通り、平城京大極殿まで続く神々の力が伝わる尾根線上で、ここから浮雲峰を遥拝してください。」
いまだ鹿島・香取の神さまの参拝は叶わないがここでそれも叶うと云う事のようだ。
再び内回廊に戻り、東回廊から楼門に続く南回廊を眺める。
中門の参拝を済ませ大杉の根元に鎮座する春日造の岩本神社へ。
「御祭神は表筒男命、中筒男命、底筒男命の住吉三神を祀る。
由来・御神徳
大杉のお膝元に鎮座する社は、中近世一般には「住吉社」と称されていました。
春日大社の近世の社務日誌にも、3月13日の春日祭に際し、社司「住吉壇上」に蹲踞すると書かれ、これは現在の岩本神社前の石畳の場所にあたります。
古来住吉明神として海神信仰、また歌神信仰があります。」
幣殿左脇から大杉と中門、東回廊の眺め。
上
中門西回廊の横に鎮座する風宮神社
祭神 級長津彦命、級長津姫命
例祭 9月1日
由来・御神徳
西の風神のというのは、本殿を西風から守り外敵を吹き払う攘災神的な神様である云われます。
春日祭巳之祓式では御神木をこちらの御垣の隅へ納める儀式があり、 風の神の力を得て吹き祓うものと考えられている。
社左に七種類(イスノキ、山桜、椿、南天、ニワトコ、藤、楓)の木が共生する「七種の寄木」と呼ばれる木があり、これは祭神が持つ風の力で種が集められたとされ、小授けの霊木として崇められている。
下
風宮神社の後方、後殿の左に鎮座する椿本神社。
椿の木が付近にあったことから、社名になったと伝わる。
後殿。
本殿の後方の後殿には災難厄除けの神々が祀られています。
この門は明治維新以来長く閉じられてままだったが、第60次式年造替(2007~2016)を機におよそ140年ぶりに開門されたもの。
手前右は風宮神社、左は椿本神社、右には春日造の本殿4棟が鎮座する。
上
後殿の門から望む春日造の本殿4棟。
春日大社の所蔵する『古社記』に称徳天皇の神護景雲2年(768)11月9日と記されているという。
第一殿 武甕槌命
第二殿 経津主命
第三殿 天児屋根命
第四殿 比売神
由緒
春日の神々の鎮座は奈良朝のはじめ、平城京鎮護のため、まず武甕槌命様を鹿島(茨城県)から御蓋山頂に奉遷したことからはじまり、香取(千葉県)の経津主命、枚岡神社(大阪府)の天児屋根命と比売神の四柱を併祀したのがその始まりとされています。
下
多賀神社
御祭神 伊弉諾命
例祭 4月22日
御由来・御神徳
回廊内の北西隅に鎮座し生命を司る延命長寿の神様で、その昔に俊乗房重源が大仏殿を再建するときに寿命を頂いたという言い伝えがあることから、その御神徳を求め崇められている。
上 宝殿
本殿に隣接し、厚板で組み上げられた朱塗の校倉造の建物で、古くは春日大社の御神宝を納めていました。
春日大社が所蔵する国宝の大鎧等は、近代までこの宝庫の中で保管されていました。
現在は3月の春日祭の時に、本殿を飾る御神宝の鏡、太刀、鉾、弓矢などが納めらていると云う。
下 内侍殿
桁行五間、梁間三間の檜皮葺の流造で、かつては春日祭に当たって神前で奉仕をする内侍が控えていた建物として内侍殿と呼ばれる。
当初は宮中から藤原氏の女性が斎女として遣わされ、斎女とともに内侍も儀式の奉仕をしたと云う。
早くに斎女はなくなり、内侍の参向は以降室町時代中頃まで続きました。
内侍殿は20年に一度の造替の時、本社と若宮の神様をお遷しするので、移殿とも呼ばれるそうです。
上
西回廊内侍門から見る酒殿。
貞観元年₍859₎の建立とされ、春日祭で供える神酒を醸造施設。
天平勝宝2年(750)の記録に名が記され、現在も内部にある大甕で濁酒を醸造し神々にお供えしていると云う。
下
慶賀門。
西回廊の南側の門で正面に御蓋山が望める門。
古来より正式な参入門とされ、宮中の藤原氏の大臣や上卿はこの門をくぐって参入したと云う。
門入口の紅葉が綺麗な事もあり、これ以上下に向け撮れなかった。
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