以前掲載した浄専寺、その西に土古(どんご)公園があります。
今回掲載する龍神社は土古公園の南側に鎮座します。
土古公園。
土古と書いて「どんご」とはなかなか読めないもので、ポンコツPCでは変換候補に挙がりもしない。
名古屋市港区町名由来では「元文4年(1739)、海東郡蟹江村(現・蟹江町)の鈴木新助が開発したところで、「同伍(どうご)」といって、「同じ組」が起源ではないかといわれるが、「土古山新田」というところから、荒子川に沿って砂洲により小高い丘状になっていたものと思われる。」とあり、地盤としては弱い所なのかもしれない。
公園にはグランドや冨士山滑り台などがある比較的大きな公園です。
上は大正時代(左)とほゞ現在の鎮座地で、大正時代には既に鳥居の印も描かれ、明治24年の地図にも描かれていました。
神社は公園の南に鎮座していますが、こちらからでは境内に入れず、一本南側の通りに回り込むと社頭に至ります。
公園南側から社殿後方の眺め。
後方は全面玉垣に囲まれ、境内の大きな石碑と神明造の本殿、拝殿が見渡せる。
上は社頭右の掲示板に貼られていた「龍神社 本殿遷宮に至った経過報告」案内。
これによると令和2年、本殿内部に蜜蜂が営巣、それに伴い駆除、巣の撤去、本殿清掃、隙間等の補修期間中は御神体は遷され、翌年9月に遷座されたことを伝えるもの。
しかし長年の自然劣化ならともかく、蜜蜂により補修が必要になるとは想定外のことだろう。
これは他人ごとではなく、丁度良い隙間があれば同じことになる、一度家の外観を見回ってみる必要がありそうだ。
社頭正面から境内の眺め。
石造の神明鳥居(1912年寄進)と左に「村社 龍神社」の社号標、手水舎は左にあります。
鳥居前を守護する狛犬の阿形は毬を持ち、吽形は・・・怪我でもしたのか?
鳥居の先から拝殿の眺め。
拝殿前に常夜灯と一対の狛犬が守護し、その先に二つの石標が建てられています。
手水舎は手水石の上に蓋がされていました。
手水舎から社殿の眺め。
手前の常夜灯、竿の部分に目を向けて欲しい。
大きな龍が竿に巻き付き、いかにも龍神社に相応しいひと手間かけた意匠が施されています。
拝殿前の狛犬と拝殿全景。
そこに一対の小さな狛犬が安置されています。
体は小さいながら形が整った凛々しい姿をしています。
拝殿右から社殿の眺め。
右の石標は昭和24年に寄進された「創始百五十周年」記念碑。
寛政12年(1800)に熱田前新田の工事開始にあたり綿津見命を勧請し、同13年(1801)工事完成に伴い新田の本宮として龍神社の名で祀った」と刻まれています。
後方の本殿域は透塀が本殿を取り囲み中門に結ばれています。
港区の解説は以下のようなもの。
享和元年(1801)、熱田前新田が完成したおりに、海神の心を慰めるために建立された最初の神社で、「元の宮」といわれた。
拝殿から渡廊、中門方向の眺め。
本殿左の二つの石碑。
左は忠魂碑、右は神国之碑が立てられています。
左から眺める本殿。
本殿は神明造で8本の鰹木が載せられ、千木は内削ぎのもの。
本殿域全体は見渡せませんが、本殿の左には4本の鰹木4と内削ぎの社が見えます。
これが津島神社なのだろう。
透塀から本殿の全景、右側にも社があるのか、この写真からは分からなかった。
創始弐百周年記念碑の裏に龍神社の由緒が刻まれていました、全文は以下。
「龍神社 由緒
創建 寛政11年 西暦1799年
明治5年7月村社に列格する
明治12年10月拝殿を新築
明治19年10月本殿を修復
明治35年4月社殿を修復
明治45年4月社殿を修復 鳥居を改修 本殿裏回り石組を新設
大正15年4月供進指定社
昭和13年4月地名変更の際 元宮町と申請したが本宮町となった
昭和34年9月伊勢湾台風で被災したが氏子の熱意により復興
平成11年11月21日 創建弐百周年記念式祭」
と記されています。
この碑文で神社の歴史が一目で分かる、氏子の支えがしっかりしているようです。
蜜蜂事件もどこかに記されるのかな。
本殿右側の眺め。
その右側にひとつの石碑が立っています。
「熱田前新田開発 百六十五年記念碑」
神社の創建時期については、碑文や港区の解説で整合しない部分も見られますが、新田の開発とともに龍神社がある事に違いはなく、騒ぐようなことでもない。
龍神社
創建 / 寛政11年(1799)
祭神 / 綿津見神
境内社 / 津島神社
祭礼日 / 不明
所在地 / 名古屋市港区本宮町3-2
参拝日 /2024/05/09
公共交通機関アクセス / 地下鉄名港線「東海通駅」1番口から西へ徒歩30分
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