2024年5月9日、所要で名古屋市港区を訪れました。
港区へは2月17日にも神社巡りで訪れましたが、時間の都合で参拝できなかった神社を訪れることにしました。
今回訪れた神社は、地下鉄名港線「東海通駅」から北西に約10分程の住宅地の中にある公民館の上に鎮座しています。
前回掲載した本宮町の淨專寺は、この際に経由した寺院ですが、東海通を西に進むうえで熱田前新田と津金文左衛門胤臣について最初に取り上げるべきだと思ったので、最初に掲載しました。
神社が鎮座する九番町の町名は、新田の東方の堀川右岸から一番割として始まり、西に向けて三十三に割り振られ、一番割から十一番割までを東組、十二番割から三十三番割までが西組とされました。
両区の番割で一から六番、八番が熱田区、港区の七・九・十・十一番が今も町名として残っています。
上は大正時代と現在の東海通界隈の地図の比較。
現在の東海通は、明治から昭和初期にかけて国道東海道として物流を担っていました。
今は民家が犇めく一帯ですが、1920年頃は東海道沿いに集落が連なる程度で、集落を外れると広大な農地が広がっています。
素盞鳴神社鎮座地も田んぼの中で地図上には鳥居の印もありません。
いかにも街中の神社らしく、二階建ての九番町(くばんちょう)公民館の二階屋上に社を祀り、屋上全体が大きな屋根で覆われています。
公民館の入口は玉垣で囲われ、境内右に社標と常夜灯が建てられ、その先に石の明神鳥居を構えています。
素盞鳴神社社頭正面全景。
社標は昭和47年(1972)、石灯籠は昭和32年(1957)、鳥居は昭和32年(1957)に寄進されたもの。
一階は九番町公民館で地元住民のコミュニティーの場で、なにかと住民の方々が出入りする。
社殿はその建物の屋上に鎮座し、左の階段から屋上に上がるように作られているので参拝もしやすいだろう。
境内の左の手水鉢、普段は蓋がされているようです。
鉢の後ろを見たかったが、御覧の様に回り込めず寄進年の確認は出来なかった。
主要な寄進物は昭和に入ってからのもので、それ以前の元号は見られなかった。
愛知県神社庁から港区9番町素盞鳴神社として調べて見るが登録されておらず創建時期など詳細は不明。
九番町公民館と狛犬の全景。
この写真だけ見ていると何だかしっくりしませんね。
公民館前に安置されている狛犬。寄進年は未確認ですが他の寄進物と同時期のものと思われます。
公民館の入口の素盞鳴神社年間祭儀。
4月四方拝神事。
7月夏祭神事。
10月秋大祭神事・子供神輿
12月秋葉火祭神事。
祭神は……素盞嗚命一柱ではないのかなぁ、なにぶんにも神社由緒等が見当たらず、創建時期含め想像すらできません。
まずはこの階段を上り2階に上がってみます。
二階から眺める社殿。
最上階の屋上に常夜灯と社殿があり、そこに続く階段が作られています。
大きな覆屋に覆われているので屋上感は感じられず、公民館を含め全体がひとつの社殿として纏まっています。
階段を上り社殿を眺める。
8本の鰹木と内削ぎの千木が付く神明造で、正面に戸が三つあります。
個人的な印象ですが、素盞嗚神社の他に秋葉神社、それともう一社合祀されているように思え、趣きは屋根神さまの雰囲気すら漂います。
祭神は素戔嗚尊であることに間違いないと思われますが、両脇の戸の中に納まる神札が気になります。
社殿前から鳥居の眺め。
街中の限られたスペースの中で公民館と神社を一つに融合させる、一つの良いモデルケースかも知れません。
つい最近、江戸時代から受け継がれ、中区大須に鎮座していた町持ちの神社「石神社八幡社」がなくなりました。
背景には都市化や世代交代により土地を離れ、僅かに残る氏子の高齢化にともない維持が困難になった事によると聞きます。
こうした街角に鎮座する町持ち神社はどこも同じ状況を抱えています。
そうした中でも祠や堂が建替られる神社もあります、そこに住む住民の繋がりができている現れで、町が健全とでもいうのかな。
公民館の上に鎮座する素盞鳴神社、町と人が変らない限りこの先も護ってもらえそうです。
素盞鳴神社
創建 / 不明
祭神 / 素戔嗚尊
境内社 / ・・・
祭礼日 / 4月四方拝神事、7月夏祭神事、10月秋大祭神事、子供神輿、12月秋葉火祭神事
所在地 / 名古屋市港区九番町4-4-3
参拝日 /2024/05/09
公共交通機関アクセス / 地下鉄名港線「東海通駅」1番口から徒歩10分
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