鎮座地の東出雲町揖屋まで東に約7㌔、長閑な郊外から市街地に入り、東出雲IC付近から出雲郷東の信号にかけて、ICから降りた車と一般道を走る車が合流して渋滞し、信号の右折も滞り、捨て左折したらえらく遠回りになり時間を無駄にした。
県道191号線の南に接する社頭は、石の明神鳥居、左に手水舎があり、駐車場は写真左にあります。
意宇六社巡りもここ揖夜神社で終わりを迎えます。
社頭の解説。
「奈良時代に中央政権が編纂した『日本書紀』の斉明天皇五年(659)に、「この年、出雲の国造に命せて、厳神の宮を修めしむ。
狐、於友郡(意宇郡)の役丁(公用の労役に使われた成年男子)の所執れる葛の末を喰い断り、而して去ぬ。
また、狗(犬)、死人の手腎(腕)を言屋社に喰い置けり。
言屋、此を伊浮琊(いふや)といふ。
天子の崩りまさむ兆しなり。」と記されている。
この報を受けた天皇は恐れ畏み、出雲大神の神慮を慰めなければならぬと、神殿の建造を急がせたと伝わっています。
古くから、揖夜神社が黄泉の国に縁の深い社として、中央でも重視されていたことが窺えます。」
県道沿いに司馬遼太郎が揖夜神社を訪れ、街道をゆくの中で記載した内容が掲げられています。
「六社さんと呼ばれる出雲国意宇郡(現松江市の一部)にある。
国造家ゆかりの六社神社の一社として、崇敬されている揖夜神社ですが、古くは『古事記』『日本書紀』や『出雲風土記』に記述があり、少なくとも平安朝以前には広く知られていた由緒ある古社であります。
その古い神社としての佇まいについて、嘗て作家の司馬遼太郎氏が当社を訪れ、自著の『街道をゆく』の中に以下の様に記載されています。
『どうやらそのあたりは古くは揖屋(揖夜、言夜)といった界隈のようだった。
イフヤという地名は、いったい何語の、どういう意味なのであろう。
車をとめた場所が、たまたま揖夜神社という神社の鳥居の前だった。
戦前の社格は県社だが、鳥居をくぐって広い境内に入ってみると、いかにも出雲の神社らしく社殿そのたがひどく立派で、大きなしめなわの姿なども他地方の神社を見なれた目からするとただごとでなく、ぜんたいに出雲寂びている。
境内のすみに、林とまではゆかなくても樹木のまばらの一角があって、湿った黒い絹のような木下闇(このしたやみ)をつくっている。
その淡い光の中に祭神もホコラも個性ありげな摂社や末社がならんでいて、その一つ一つに出雲の何事かがにおっている。
それらの中に「荒神社」という標柱の出た石のホコラがあった。
荒神社(こうじんじゃ)ではなく荒神社(あらじんじゃ)。
とふりがなが振られているのが、おもしろかった。
アラという呼称は日本の古い姓氏にも多い。
安良という文字をあてたりする。
太田亮博士は荒氏は「任那(みまな)帰化族なるべし」などと推量されているが、おそらく南朝鮮の伽耶(かや)地方を故郷とする氏族なのであろう。
古代、朝鮮半島全体もしくは一部を、カラ(韓)、カヤ(伽耶)、アヤ(漢)、アラなどと呼んだ。
とすればこの「荒神社」も、韓神をまつるホコラなのかもしれず、すくなくともそんな想像を刺激してくれる。
社頭全景。
石造の明神鳥居と両脇に石燈籠があり、左に手水舎がある。
天保六年(1835)寄進の石灯籠は、左の石灯籠の竿から上が載っていませんが、亀の台座(亀趺)を持つもので、右の燈籠の亀趺は一部欠損していますが、竿には龍が彫られるなど手が込んでいます。
手水舎の先の狛犬は、寛政7年(1795)の寄進で、尾の形はピンと跳ね上げたものではなく、丸く纏めてデザインされています。
参拝当日の社殿全体は遷宮に向けて改修中で、写真の随神門も改修中で外観のみとなる。
随神門前の狛犬は天保15年(1845)に寄進されたもので、出雲ではお馴染みの姿。
「特別神社 揖夜神社
祭神 伊弉冉命、大巳貴命、少彦名命、事代主命。
本殿 大社造(御神座は出雲大社と反対向に御鎮座)
境内社 韓国伊太氏神社、三穂津姫神社
御鎮座についての詳細は不明ですが、古事記神代巻には「伊賦夜坂」について記述があり、 日本書紀齋明天皇五年の条に「言屋社」、出雲国風土記 に「伊布夜社」、延喜式神名帳に「揖夜神社」の記述があり、平安朝以前から知られる古社。
古より朝廷の崇敬が篤く、「三代実録」には清和天皇の貞観13年に「 正五位下」の御神階が授けられた記録がある。
現在令和7年の正遷座に向け、令和5~令和6年は改修工事が行われており、神門や本殿には近づくことは出来ません。
社務所左の境内社 恵比須神社。
祭神は事代主命で、明治43年(1910)に揖屋村字五反田地区から遷座したもの。
荒神さん。
中央に藁蛇が巻かれ御幣が立てられているものが「荒神さん」、須佐之男命を祀り、周辺の集落からこちらに纏められている。
樹齢600年とされる御神木の椎。
志多備神社の御神木とはまた趣が違う。
太い根は蛇のように地表を這い、幹には樹洞もあり、何かが宿る神木の貫禄が整っている。
左が天満宮。
菅原天満宮より勧請され、近隣の小学校に建立されていたものを、戦後境内に移設したもの。
右が荒神社、祭神は須佐之男命。
恵比須神社。
事代主命を祀り、揖屋村字町鎮座していたもので明治42年(1909)境内に移転されたもの。
前回(1934)の遷宮の際に建立されたもので切妻造で向拝の付く、銅板葺きの四方吹抜けのもの。
神紋は出雲大社と同じ二重亀甲に剣花菱。
揖夜神社由緒はHPによれば以下となっています。
「鎮座についての詳細は不明ですが、『古事記』神代巻には「伊賊夜坂」についての記述があり、『日本書紀』齊明天皇五年(659)の条に「言屋社」、『出雲国風土記』に「伊布夜社」、『延喜式神明帳』に「揖夜神社」の記述があり、少なくとも平安朝以前には広く知られていた古社であることは疑うべくもありません。
神社に所蔵している棟札・古文書によれば、戦国時代頃から「揖屋大明神」「揖夜大社』「揖屋大社」と称されていた様です。
当社は出雲国造との関係が深い「意字六社」(熊野大社・神魂神社・八重垣神社・六所神社・真名井神社・揖夜神社)の一として、江戸時代から「六社参り」の参拝者が絶えず、御遷宮には今でも国造の御奉仕があります。
拝殿右から神門の眺め。
精一杯寄った神門と本殿。
大社造の本殿の右には三穂津姫命を祀る三穂津姫神社、左には須佐之男命、五十猛命をお祀りする韓国伊太氐神社があるが見る事は出来なかった。
拝殿左の御仮殿。
本来は神楽殿らしいが、現在はこの仮殿に祭神が祀られているので、参拝はこちらとなります。
御仮殿右の稲荷社。
二つ目の鳥居の先に本殿が見えているので、それ程参拝に時間は要しない。
二つ目の鳥居から本殿の眺め、右の道を進むと大守神社に至ります。
稲荷神社本殿全景。
右側の覆屋にも沢山の狐が守護する稲荷神社があります。
稲荷神社から眺める揖夜神社本殿域。
綺麗に修復された姿がお披露目されるのも間もなくだろう。
火守神社。
稲荷神社から右に少し入った場所に鎮座し、詳細は不明で小さな狛犬が守護しています。
以上が伊弉冉命を祀る意宇六社『揖夜神社』になります。
ここまで訪れたなら、背後の山の東にある伊賦夜坂(黄泉比良坂)までは車で数分、是非とも訪れたい場所ですが、地元スーパーで土産や酒を買う必要もあり島根の神社巡りも揖夜神社で終える事にします。
古くからの伝説が伝わり、古き出雲の姿を感じさせる光景の中に鎮座する意宇六社、出雲大社とは違う印象に残る神社が多かった。
意宇六社 6/6 『揖夜神社』
参拝日 / 2024/05/25