島根県大田市大森町、といってもピンとこないかも知れませんが、世界遺産石見銀山と聞くと聞き覚えはあるかと思います。
石見銀山は、江戸時代に最盛期を迎えた銀山で、その重要性から天領として直接幕府の支配下に置かれました。その結果、大森町には代官所が設置され、陣屋町として、鉱山町としての活気を呈していました。
現在でも、その当時の趣を残す家並みが残され、多くの観光客が訪れています。
山間を流れる銀山川沿いの石見銀山街道を約40分歩くと、石見銀山見学の中心地である「龍源寺間歩」に到着します。
今回は龍源寺間歩に続く石見銀山街道で見かけた「豊栄神社」「佐毘賣山神社」など掲載します。
大田市のほゞ中央の山々に包まれた大森町、トレッキングコースや散策路も整備されています。
上は大森町の観光マップ。
世界遺産モニュメントのある駐車場から龍源寺間歩まで観光スポットが示されており、これら見ていくとほゞ一日がかりになるかもしれません。
下河原吹屋跡。
地域全体に採掘された銀鉱石を精錬するための施設が点在していたが、下河原吹屋は、仙ノ山の山上にある鉱山集落よりも先進的な施設とされ、鉛を利用した「灰吹法」と呼ばれる精錬法で銀を取り出していた。
石見銀山の中枢で、監督していた代官所により直接経営されていたという。
解説による灰吹法とは、「銀の精錬に際して、単に掘り出し選別した鉱石を熱して、銀を溶かし出すのでは
こうした技術は海を渡って伝承され、古来から伝わるとかで纏められますが、そもそも何がきっかけで岩から目的の金属だけ分離する智恵が生まれたのか。
食べるものも同じ、あのグロテスクなナマコを食べようと思ったか、始まりはいつも不思議だ。
下河原吹屋の解説は以下。
「鉱山からここに持ち込まれた鉱石は、まず粉砕され、その石をふるいにかけて銀を含む小片を分離する選鉱が行われます。
その後、灰吹法で処理されます。
この技法は、1533年に朝鮮半島より石見銀山に導入され、上質な銀を大量に生産するための鍵となるものでした。
灰吹法とは非常に単純に言えば、鉛を使って製錬する方法です。
砕いた銀鉱石と鉛を一緒に熱すると、銀は鉛に結合して合金を形成します。
次に、この合金を灰の上に敷き、850°Cの高温に加熱して溶かし、ふいごを使って合金の酸化を促し続けます。
合金の鉛分が酸化して灰に吸収され、純銀だけが残ります。
下河原ではこの工程が昼夜を分かたず行われ、建造物の壁は耐火性の高い土でできていたようです。
また、建造物は屋根が高く、窓が複数あり、煙と硫黄分を含むガスを逃がすために全ての部屋に煙突が付いていた」
特に遺構はなく、言われなければ一面緑が広がる更地に見えます。
下河原吹屋
所在地 / 島根県大田市大森町ニ45-2
下河原吹屋から2・3分先に鎮座する豊栄神社。
街道沿いに社殿に続く社頭があり、左手に「史跡 豊栄神社境内」の石標と右手に解説があります。
参道の先に随神門があり、随神門に繋がる塀は近年補修されたようで白さが浮き立っていた。
「大田市指定文化財 豊栄神社境内。
毛利元就が祭神の毛利家ゆかりの社。
元就は生前、自分自身の木製の像を山吹城に安置。
元亀2年(1571)、孫の毛利輝元が洞春山 長安寺を建立し木像を移した。
輝元役後、家康により石見銀山が支配される中、長安寺荒廃のため元禄4年(1691)毛利家は木像を萩に引き上げた。
地元の木像在置の希望から、毛利家は代わりとして新しい木像を造らせ安置した。
慶応2年(1866)、薩摩の部隊とともに、毛利氏の末裔が追放されていた長州⁽山口県北部)の部隊がこの地に進軍し、寺院の中に伝説の君主の像を発見。
長州軍は浄財を募り本殿・境内地を整備し、明治3年、新政府の政策に従って寺院を廃し長安寺は豊栄神社となる。
献納物には祖式信頼ら172名の隊士名が刻まれている。
昭和18年(1943)、このあたり一帯は、水害で発生した土砂に巻き込まれたが、華麗な門と独特な拝殿、本殿は今も残る。
当初の元就像は残念存在しないが、瓦には毛利家の家紋が配されています。」
荒廃した時期はあるものの、焼失、再建した記録は見られないので、建立当時のまま受け継がれているようです。
社頭の燈籠の竿には「第三大隊」と記され、長州軍の痕跡が見られます。
燈籠から随神門に向け歩き始めたところ、前方で長いものが横切って行った。
参道は手入れされていますが、一度見てしまうとそれ以上進む度胸もなく断念する。
街道沿いから眺める社殿全景。
随神門の左右の間を拡大すると随神が安置されているようです。
拝殿は入母屋妻入り瓦葺で唐破風向拝が付き、後方の本殿は方形瓦葺屋根。
豊栄神社
創建 / 元亀2年(1571)
祭神 / 毛利元就
境内社 / 不明
所在地 / 島根県大田市大森町
佐毘賣山神社。
龍源寺間歩の出口から石見銀座街道に戻る途中の山道の右に鎮座します。
ユネスコ世界遺産石見銀山の構成施設の一つで石見銀山の守護神。
佐毘賣山神社。
文政の再建以来の大規模修繕を平成27年~令和6年にかけて修復中でその浄財を募る案内。
今年五月に本遷宮の予定で、総工費は1億6千万だという。
訪れた時は本遷宮も終えたと思われますが、神社周辺は今も整備が進んでいるようです。
ここから見る社殿は、高く積まれた石垣の上に、拝殿は瓦葺の裳階の付いた入母屋妻入の拝殿と、造までは分からないが、三本の鰹木と外削ぎの置き千木が付く本殿の姿が見えます。
山道を少し下った社頭に向かう。
社頭から拝殿の眺め。
高さの違う角の取れた石段が鳥居まで続いています。
かみさんは「行きたければどうぞ」と言い上がる気はなさそうだ。
取り敢えず石段の下まで行ってみました。
「祭神は鉱山の守り神である金山彦神で、別名「山神社」
鉱夫や村人から「山神さん」として親しまれていました。
永享6年(1434)室町幕府の命により周防國(山口県)守護大内氏が島根県益田市から分霊を移し祀ったと伝わる。
戦国時代、銀山を領有した大内氏、尼子氏、毛利氏などに崇敬され、江戸時代は幕府初代石見銀山奉行の大久保石見守長安などに手厚く保護され、毎年正月10日には銀山の繁栄を祈願した。
社殿は文政元年(1818)の大火で焼失。
翌年、代官所の援助を得て再建され、拝殿の重層屋根は天領特有のものとされる」
遠目に裳階と見えたが内部は重層になっているようです。
ならば行くしかないだろう。
まん中に手摺はありますが、長時間の運転、ここまで歩いた足の疲れもあり、踏み外さずに戻る自信もなくここで手を合わせ社殿までは見送る事にした。
石段の中ほどの左に、頭が赤く塗られた標柱があります、ここにも間歩があり掘削されたようです。
社殿は鉱脈の上に鎮座しているようです。
一帯の山肌には、こうした標柱が無数にあり、奥に続くもの、少し削った程度の間歩が残されています。
はじまりはいつも不思議と書きましたが、先が見えない岩盤のこの先に鉱脈がないと見極めた指標も不思議なものです。
素直ではないおやじはどこか未発見の鉱脈があるのでは疑ってみたくなるが、後に夢よ再びとばかり掘削が行われたが採算に乗らず頓挫したようです。
金山彦神の鎮まる社地の下に、含有量の多い鉱脈が今も眠っている気がしてならない。
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