麓から頂きは、へばり付く様に住宅街が広がります
この坂は高齢者には優しくないだろうし、降雪時にも大変な場所だと想像できる
この坂は高齢者には優しくないだろうし、降雪時にも大変な場所だと想像できる
我家の立地とよく似ています
頂きの上までグーグル先生の御導きに従い登ってきたものの
どうやら参道ではなかった様です、境内東側に石鳥居を構えた参道があります
どうやら参道ではなかった様です、境内東側に石鳥居を構えた参道があります
仕切り直して、鳥居から境内へ
鳥居右側の社号標と緑の境内が広がっています
手水鉢は鳥居の左にありましたが・・・・・
鳥居から東方向の眺め、丘陵地に住宅街が広がります
それ程登った気はないけれど、こうして見ると結構な高度差があります
それ程登った気はないけれど、こうして見ると結構な高度差があります
理由は分かりません
ご覧の様に台座の上の狛犬が直接台地に置かれています、台風、地震等で被災したのだろうか?
黄色と黒のロープに囲われ、随分低い位置から社を守っています
しゃがみこんで漸く視線を感じる事が出来ました
いい顔つきをしています、それだけにこの状況は可哀そう、修理を待っているものと思いたい
ご覧の様に台座の上の狛犬が直接台地に置かれています、台風、地震等で被災したのだろうか?
黄色と黒のロープに囲われ、随分低い位置から社を守っています
しゃがみこんで漸く視線を感じる事が出来ました
いい顔つきをしています、それだけにこの状況は可哀そう、修理を待っているものと思いたい
有松神社社殿
比較的大柄な神明造の社殿
鰹木の一部はあっち向いてホイ!となっており
有松の町名が付く神社、かみさんを誘って来ただけに、なんだろうこの気持ちは
比較的大柄な神明造の社殿
鰹木の一部はあっち向いてホイ!となっており
有松の町名が付く神社、かみさんを誘って来ただけに、なんだろうこの気持ちは
社殿北側からの眺め
社殿右
日清、日露、第二次世界大戦
この地から出兵し戦死された方々の慰霊碑「征清戯捷碑」「忠魂碑」が並びます
有松神社はこれら戦没者を祀るために建立されたと云われています
高根山は戦前から多くの記念碑があった事から「記念碑山」と呼ばれる事もある様です
日清、日露、第二次世界大戦
この地から出兵し戦死された方々の慰霊碑「征清戯捷碑」「忠魂碑」が並びます
有松神社はこれら戦没者を祀るために建立されたと云われています
高根山は戦前から多くの記念碑があった事から「記念碑山」と呼ばれる事もある様です
神社の鎮座する高根山は桶狭間の合戦でも要所として知られます
高根山に陣を張った今川軍勢、ここからが鳴海の善照寺砦や中島砦など織田軍勢の動向を覗った場所とも云われれます
高根山に陣を張った今川軍勢、ここからが鳴海の善照寺砦や中島砦など織田軍勢の動向を覗った場所とも云われれます
境内に掲げられた布陣図、現在は住宅が広がります
合戦当時には周囲の眺望が効き、陣を張るには絶好のポイントに間違いはない
(頂きから善照寺砦方向の眺望)
(頂きから善照寺砦方向の眺望)
「人世大逆転街道」と書かれた案内板
数では圧倒的に劣る信長、正に大逆転の足跡を辿るルートがあるようです
数では圧倒的に劣る信長、正に大逆転の足跡を辿るルートがあるようです
義元の最後の場や、兵の数は今も諸説あるようですが、何れにせよ数の論理から結果を予測する事はできないはずで、上洛の夢はここ桶狭間で絶たれることになります
信長が自身の首を賭けて挑んだ唯一の戦略だったのかも知れません
信長が自身の首を賭けて挑んだ唯一の戦略だったのかも知れません
有松、短時間で巡るには歴史と見所が多い街です
今の国会にも桶狭間のような出来事は起こらないものだろうか
有松神社
創建 / 不明、(1955年(昭和30)に慰霊碑とともに新たに社殿を作る)
祭神 / 不明、(日清、日露、第二次世界大戦の当地戦没者)
住所 / 名古屋市緑区有松町大字桶狭間高根
アクセス / 名鉄名古屋本線 有松駅下車、神社へは徒歩15分程
今の国会にも桶狭間のような出来事は起こらないものだろうか
有松神社
創建 / 不明、(1955年(昭和30)に慰霊碑とともに新たに社殿を作る)
祭神 / 不明、(日清、日露、第二次世界大戦の当地戦没者)
住所 / 名古屋市緑区有松町大字桶狭間高根
アクセス / 名鉄名古屋本線 有松駅下車、神社へは徒歩15分程