「綿神社」平手政秀の諫死が信長を変えただろうか?

名古屋市北区元志賀町「綿神社」
市営地下鉄名城線「黒川」駅で下車し、国道41号線沿いに10分程北上した西側に鎮座する神社。
東隣に曹洞宗「霊源寺」が隣接しています。

f:id:owari-nagoya55:20210102181719j:plain 右は社頭から眺める境内、社号標が右に建ち、参道を少し入り一ノ鳥居がある。
間口は広いものではない。
社頭左には名古屋市教育委員会の解説板がある。
延喜式に載る「山田郡綿神社」にあたるとされる格式ある神社。
・譽田別命、玉依比売命神功皇后を祀る。
・社名の由来は祭神の玉依比売命が海神綿津見神の娘であることに由来する。
・戦国時代の武将平手政秀がこの地に屋敷を構え、荒廃した社殿を再興した。
・鏡と手彫りの狛犬を奉納し主君織田信長の奇行・粗暴の平癒を祈願した。

平手政秀は織田信秀、信長と二代にわたり重臣として支えたが、信長の奇行を憂い自らの死をもって諫めたとされる。政秀の屋敷はここから西の志賀公園内に碑が残っている。
麒麟に登場した平手政秀は上杉祥三さんが演じていた。

f:id:owari-nagoya55:20210102181729j:plain 社頭左に綿神社由緒。

f:id:owari-nagoya55:20210102181800j:plain主祭神 玉依比売命応神天皇(譽田別命)
・創建は弥生前期に九州からこの地に定住した「安曇部族」により九州「志賀」の祖神、海神「玉依比売命」を祀り「海神社」と称した。
延喜式にも「尾張山田郡綿神社は筑前志賀の「海神社」と同列の社と記されている。
・本国帳にも従三位綿天神、綿は海の仮字で昔はこの辺りまで入海だった。
・志賀村領主平手政秀は信長の奇行に心痛ませ天文21年(1552)綿神社を再建、「願主政秀」と刻んだ鏡と手彫りの狛犬を奉納、その祈願も空しく翌年に諫死した。
・政秀の死後信長は態度を一変、天下平定の基を開いたのは政秀の忠誠によるもので、政秀なくば郷土三英傑の出現は疑問。
・綿神社は尾張藩主の崇敬も厚く「別社児子宮」もあり、祭礼の際に子供を連れ参拝する様は尾張名所図絵」にも描かれている。
・慶長以降再建は数度あり、現社殿は太平洋戦火で焼失、昭和45年に完工されたもの。

古くから伝わる神社であり、当時この辺りまで海が迫っていた気付きもあるけれど、今は平手政秀の印象の方が強い神社かもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20210102181810j:plain 一ノ鳥居。
コンクリートの壁で区切られた参道は遥か先のニノ鳥居まで続いています。

f:id:owari-nagoya55:20210102181821j:plain 二ノ鳥居。
境内はここから左右に広がり、左から手水舎、社務所、拝殿、境内社が祀られています。
社頭からは想像できない程境内は広い。

f:id:owari-nagoya55:20210102181908j:plain1950年(昭和45)に再建された拝殿。
入母屋瓦葺で妻入りのコンクリート造り、築後間もない事もあり古びた印象はない。

f:id:owari-nagoya55:20210102181920j:plain 社務所前の手水舎。

f:id:owari-nagoya55:20210102181930j:plain 拝殿前の狛犬、阿形の表情はどことなくユーモラスなもの。

f:id:owari-nagoya55:20210102182016j:plain 大きな向拝を持つ拝殿の左に参道が続いています。
拝殿右に瑞玉稲荷大明神と四十八祖神が祀られる。

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f:id:owari-nagoya55:20210102182039j:plain 拝殿に掲げられた扁額も社殿同様新しいものです。
拝殿内から本殿方向、内部も綺麗なもの、まずは参拝。
このご時世なのか鈴や鈴緒などは吊るされていなかった。

f:id:owari-nagoya55:20210102182124j:plain 本殿もコンクリート造りのようです。

f:id:owari-nagoya55:20210102182134j:plain 本殿域にも社があるようですが詳細は分かりませんでした。

f:id:owari-nagoya55:20210102182143j:plain 千木は外削ぎだ。

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 拝殿左から奥に続く参道の先には大きな御神木が聳え、そこには2社が祀られています。
鳥居のある右の社は「龍神社」とあるが社には「白龍社」と記されている。
今でこそ高速の高架が聳え、住宅が広がる地域だけど、少し前の一面田畑が広がる頃を思うと、龍神さまはつきもの。
左は「御嶽神社」。

f:id:owari-nagoya55:20210102182330j:plainいかにも御嶽神社の姿です。
石で小高く組まれた頂に社が祀られ、麓にかけ霊神碑と不動明王に仕える三十六童子八大童子の像が安置されています。

f:id:owari-nagoya55:20210102182344j:plain 拝殿右の二社が瑞玉稲荷大明神(左)と四十八祖神(右)が祀られる。

f:id:owari-nagoya55:20210102182359j:plain 右側の「四十八祖社」

f:id:owari-nagoya55:20210102182449j:plain 綿神社を再建した平手政秀の息子久秀は、信長の怒りにふれ放免を願った政秀の願いは聞き入られず政秀は自刀。政秀を追うように47人の家臣も自刃、それを伝えようと馬を走らせていた家臣は、その道すがら信長の使者と遭い放免の知らせを聞き悔しがったという。その家臣も47名の後を追うように自刀したと云う。この神社は亡くなった48名の霊を鎮めるために四十八祖社として祀られたとされます。
信長の怒りの発端は一説に信長が久秀に「久秀の馬を献上しろ」、「できない」という事が発端だったとされます、馬は刀同様に武士にとってなくてはならないもの、頑なに拒んだことは頷けなくもない。
これを機に創建されたという事であれば創建は1553年頃という事だろう。

さあ今の世の中、ここまで上司に意志を貫き、忠誠を誓う者たちがいるだろうか?
本殿域には二社が祀られ、右が四十八祖社、左が富士本宮浅間大社秋葉山本宮秋葉神社の合祀社。

f:id:owari-nagoya55:20210102182507j:plain 瑞玉稲荷大明神
こちらについては伏見稲荷から勧請されたもの思いますが、年代等の詳細は分かりませんでした。

f:id:owari-nagoya55:20210102182519j:plain 拝殿の軒先に元気よさげな飾り瓦、これは犬ではなく獅子だろうか?
獅子、犬、狼、どちらにしても今一つ自信をもって識別できないところがもどかしい。

拝殿から社頭の眺め。
訪れたのは2020/12/17、こちらの紅葉スポットは意外に少ないようです。

「綿神社」
創建 / 不明
祭神 / 玉依比売命応神天皇
境内社 / 四十八祖社、瑞玉稲荷大明神龍神社、御嶽神社
住所 / ​名古屋市北区元志賀町2-53
公共交通機関アクセス / 市営地下鉄名城線「黒川」駅から北に徒歩10分程

薩摩焼発祥の地「照島神社」

​​鹿児島県いちき串木野市「照島神社」
昔から海の守り神として崇拝されている神社だといいます。
神社は「照島」という小さな島の頂に鎮座しています。

f:id:owari-nagoya55:20210101183055j:plain港に朱塗りの鳥居があり、そこから島へ参道が続きます。
右手に美味しい海鮮丼を提供する「照島海の駅食堂」があり、待ち時間を利用し参拝する事も出来る。

f:id:owari-nagoya55:20210101183118j:plain 鳥居をくぐるとすぐ左に神社由緒書きがあり、赤い欄干が島へと導いてくれる。

f:id:owari-nagoya55:20210101183139j:plain 島へはこの朱塗りの「照島橋」がつないでいます。
島の波打ち際にシックな鳥居が建っていて、舟からここに上陸するのが本来の姿なのかもしれません。

橋を渡ると正面に「薩摩焼開祖着船上陸記念碑」がある。
秀吉の朝鮮出兵に出陣した島津義弘、忠恒親子は、文禄、慶長の役の後に、朝鮮の陶工を連れてこの地に凱旋したとされる、その中でここから鹿児島に行くことを拒んだ一部の陶工は照島へ上陸、ここで焼いたのが薩摩焼の発祥とされるようです。

f:id:owari-nagoya55:20210101183159j:plain 鳥居前の海岸はこうした岩盤が続いています。

f:id:owari-nagoya55:20210101183220j:plain 鳥居から境内はこの石段を上っていきます。

f:id:owari-nagoya55:20210101183250j:plain 鳥居には菊紋が入った神額が掲げられています。
不思議なのは貫の上に乗る複数の小石、どうやってこれを乗せたもんかね。

f:id:owari-nagoya55:20210101183310j:plain 鬱蒼とした杜の中に続く石段、ここからは漂う空気が少し変わる気がします。

f:id:owari-nagoya55:20210101183329j:plain 参道中ほどの狛犬
年代は分からないけれど、風化が進むその姿はこの神社の歴史を語っているようでもある。

f:id:owari-nagoya55:20210101183350j:plain 石段を上り切ると視界が広がり、陽光が差し込み明るい雰囲気に一変する。

f:id:owari-nagoya55:20210101183410j:plain 参道突き当りに石の祠。
常夜灯と右手に馬頭観音の石標が建っています。
薄暗い祠の内部には見慣れた観音像の姿はなく、なんだろう?馬の姿そのものが安置されているように見える。

f:id:owari-nagoya55:20210101183431j:plain 馬頭観音の右手に庚申塔

f:id:owari-nagoya55:20210101183449j:plain 参道は右手に続き、三ノ鳥居から先の境内は広くはないけれど、杜の中にポッカリと陽光が差し込む境内に右手に社務所、正面に社殿が鎮座しています。

f:id:owari-nagoya55:20210101183508j:plain 境内右に照島神社参拝のしおりが掲げられています。
それによれば祭神は大己貴命少彦名命、大山津見命を祀ります。
創建年代は不明なれど、古来からの言い伝えによれば常陸國鎮座の大洗磯上神社(大己貴命少彦名命)と伊予國鎮座の大山津見神社(大山津見命)とを勧請し創建されたと伝わるそうです。
1790年(寛政2)島津家第26代斉宣公が市来温泉に湯治の折、この地を訪れた。
境内の海岸にある雄淵と雌淵の奇岩を見て「まさにこれ、玉を抱いてうずくまる龍の姿」として
侍臣の川村宗広に命じて雄淵の奇岩に驪龍巌(りりょうがん)と刻ませたそうで、この岩は今も現存するそうだ。

f:id:owari-nagoya55:20210101183531j:plainしおりの傍らに伊勢神宮遥拝所、この方向に伊勢神宮があるということです。

f:id:owari-nagoya55:20210101183557j:plain 社殿全景は見通しが利きませんでした、社殿右に手水舎。

f:id:owari-nagoya55:20210101183616j:plain 拝殿内の眺め、中には額が掲げられています。
右手の馬の飾りは鈴掛馬と呼ばれ、しおりに書かれている春祭では、本物の馬に飾りをつけ境内を引馬され、最後にこの「鈴掛馬」を奉納するようです。

f:id:owari-nagoya55:20210101183636j:plainこの境内で引き馬が奉納されるようです。
人気の少ないこの光景から想像できないけれど、祭の際は地元の方で境内を埋め尽くす程の賑わいを見せるようです。

f:id:owari-nagoya55:20210101183655j:plain 参拝を終え石段から社頭方向の眺め。
鹿児島神宮の改築の際に島津貴久の枕元にあらわれたという馬頭観音、この神社のリアルな馬頭観音、そしてこの辺りで行われる浜競馬など馬と人の関りは身近なようです。
2020/11/25

照島神社
創建 / 不明
祭神 / 大己貴命少彦名命、大山津見命
住所 / ​鹿児島県いちき串木野市西島平町410
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2020締め括りは 『天神社』

小牧市大字南外山『天神社』
航空自衛隊名古屋小牧基地の東に沿って南北に伸びる県道102号線、犬山街道としても呼ばれ、江戸時代には名古屋城下と犬山城下を結んでいた。

f:id:owari-nagoya55:20201231195721j:plain 名古屋方面から小牧基地左に見て犬山街道を少し北上、南外山交差点を右折するとすぐ左に写真の鳥居が見えてきます、南外山『天神社』です。

f:id:owari-nagoya55:20201231195729j:plain 白い鳥居と額、整地され間もない感じがする境内の先に南を向いて社殿が鎮座します。

f:id:owari-nagoya55:20201231195740j:plain 鳥居から見える南外山交差点とその先に空に浮かんだ建物が印象的。
サイロの上に建つていて恐らくは機械室かと思われますが、遠目に見るとサイロの上に建つ一軒家。

f:id:owari-nagoya55:20201231200102j:plain 境内左に手水鉢、龍はいません。
後方の建物は南外山会館。

f:id:owari-nagoya55:20201231200127j:plain 南外山『天神社』社殿全景。
社殿域は天神社と津島社の二社が祀られているようです。
門松や神社幟も建ち、あと数時間で新しい年を迎える準備は万端のようです。

f:id:owari-nagoya55:20201231200149j:plain 正面が天神社。
祭神は菅原道真、来年の干支の丑がつきものですがこちらで牛は見かけませんでした。

f:id:owari-nagoya55:20201231200214j:plain 覆屋の下の社は流造で3本の鰹木と外削ぎの千木が施されています。
今年は初詣にはいきません、こちらで参拝させて頂きます。

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f:id:owari-nagoya55:20201231200253j:plain 斜めからと側面から社殿。
小さいけれど細かな彫飾り施されているようです。

f:id:owari-nagoya55:20201231200334j:plain 天神社の右が津島社。
こちらも参拝させて頂きました、僅かな賽銭大きな祈願「疫病退散」。

こちらの天神社、色々調べて見ましたが創建に繋がる情報には辿り着きませんでした。

f:id:owari-nagoya55:20201231200402j:plain 年代別の地図でもこの場所に鳥居が記されるのは昭和に入ってから。
境内の白い鳥居に刻まれた年号は2010年(平成22)、一番古そうな手水鉢の年代は分かりませんでした。
平成という事はないでしょうが、周辺の区画整理や犬山街道沿いという事を考えると、近隣から遷座してきた物かも知れません。
いずれにしても詳細は分かりませんが、街道を挟んだ各集落ごとに氏神さまが祀られていても不思議ではない、それほど古い道筋です。
2020/12/31

天神社・津島神社
創建/ 不明
祭神 / 菅原道真
境内社 / 津島社
住所 / ​小牧市大字南外山259

今年一年、このブログを訪れて頂きありがとうございました。
流行病も東京で千人を越えてしまいました、間もなく訪れる新年が皆さまにとって良い年となりますように。

来年もよろしくお願いします、お元気で。

愛知県知多郡美浜町『冨具神社』

愛知県知多郡美浜町野間冨具埼『冨具神社』

f:id:owari-nagoya55:20201230105409j:plain 我家の問題児のナビに冨具神社をセットしたところ、何故だか神社東側の細い山道を登らせ冨具崎公園に導いてくれた。
少しばかり目的地にズレはあったものの、冨具崎公園から眺める野間の街並みと伊勢湾の眺望はなかなかいいものがある。たまには遠景でも眺めて見ればとナビが気を利かせてくれたのだろう。
グーグル先生に尋ねると公園から歩いても10分程、車は公園に駐車して山道を下り神社に向かう。
後で分かった事ですが、冨具崎港沿いを内海方向に走っていれば左側に冨具神社の駐車場がありました。

f:id:owari-nagoya55:20201230105430j:plain 山道を下り集落の先に鳥居が見えてきました。

f:id:owari-nagoya55:20201230105441j:plain 冨具神社社頭。
石の神明鳥居と常夜灯、右に社号標が建っています。

f:id:owari-nagoya55:20201230105452j:plain 石橋を渡ると常夜灯と狛犬、参道はその先から登りの石段が杜の中に続いています。
常夜灯左側の手水鉢と古井戸?

f:id:owari-nagoya55:20201230105505j:plain常夜灯から先は御覧のような石段が続く。
その手前には見慣れない風貌の狛犬が神域を守護しています。

f:id:owari-nagoya55:20201230105627j:plain 顔つきに特徴のある狛犬(嘉永元年)。
双方共に耳が垂れ、阿形は怒らせると鋭利な前歯で噛みついてきそうだ。

f:id:owari-nagoya55:20201230105637j:plainまずは正面の石段から、石段は随分と苔むし、使われている石も古いものの様です。
正面を登り切ると今度は左に続きます。
何段だったか忘れましたが、これだけ登れぱ頂です、後は突き当りを右に進むと社殿に到着です。

f:id:owari-nagoya55:20201230105648j:plain 冨具神社ニノ鳥居から境内の眺め。
鳥居左に手水舎、社務所、正面に拝殿・本殿。
頂きにありながら、やたらと広い境内を持っています。

f:id:owari-nagoya55:20201230105700j:plain 鳥居右に戦役記念敵弾
詳細は語られていないけれど、日清日露戦争の砲弾を記念碑としたようです。

f:id:owari-nagoya55:20201230105718j:plainさざれ石。

f:id:owari-nagoya55:20201230105729j:plain 冨具神社全景。
切妻瓦葺で平入の拝殿、左右に境内社が祀られています。
ニノ鳥居から拝殿にかけて狛犬はいないようです。

f:id:owari-nagoya55:20201230105849j:plain 大きな注連縄が印象的。

f:id:owari-nagoya55:20201230105900j:plain 拝殿内から幣殿、本殿方向の眺め、外見以上に内部は広く、床板はピカピカに輝いています。
近年社殿は一新されているようです。
こちらの祭神は祭神は風神として知られる志那津比古命と志那津比賣命を祀ります。
神社由緒によれば、風宮神社と称された時代もあり嘉永2年に改号された。
創建は明らかではないが、愛知県尾張知多郡旧野間町の総鎮守、総氏神として祭られてきた。
言い伝えで「志那津比古命と志那津比賣命をお祀りし、海上鎮護、風雨の調和、作物豊穣大量満足を祈願するように」お告げをうけて社を設けたようです。

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 古書によれば「従三位冨具神社または冨具天神」。
尾張国神名帳に「智多郡坐明神 天神従三位冨具天神文治二年丙午(1186)三月宣命状國中皆増位階」、尾張史には「冨具ノ社、細目村にあり風ノ宮大明神と称し、ふぐをふうくうと称し風宮となる、当村及び一色村の氏神なり」と記録が残る。
社伝には1509年(永正6)水野氏下野守の再建と記録が残り、尾張名所図会にも描かれるなど、かなりの歴史を持つ神社。
往古より海岸に鎮座する冨具神社は、GPSのない時代に航行する船の見当とされ、伊勢湾の風や潮流による災厄を鎮める神として船人から崇敬され、この沖を航行する舟は必ず片帆を下げ畏敬の念を表したそうです。ポンコツナビの誤差なんぞは道だけの問題、海となれば「ここは何処よ」「魚の宝庫はどこだっけ」となる。

f:id:owari-nagoya55:20201230105911j:plain 拝殿左右に祀られている社。
写真右から山神社、楠宮社、秋葉社、多賀社。
これらも社殿同様に新しいけれど、社務所に伽藍や参道修復の写真が掲げられていましたが、どうやら台風で相当の被害を受けてしまったようです。

f:id:owari-nagoya55:20201230105923j:plain 冨具神社の本殿はなかなか見て取れません。拝殿横から見るに神明造のようです。
社務所に掲げられた由緒もしっかり書かれ、初めて訪れた者にも分かりやすい。
先に見た末社以外にも祀られているようで、社務所左の下り坂を探し歩いてみた。

f:id:owari-nagoya55:20201230105938j:plainアスファルトの整備された裏参道はそのまま国道に通じていました。
 (・・・・・公園に停めた事を後悔)
坂の途中に手水舎。

f:id:owari-nagoya55:20201230105952j:plainここが見落としていた境内社のようで、参道から2段に分かれ社が点在しています。
手前の社は金刀比羅社。

f:id:owari-nagoya55:20201230110135j:plain 樹々の間から伊勢湾が望める高台には社が三社と石像が安置されています。
正面の二社は左から御嶽社、幸宮社が祀られています。
御嶽社の前の石像は覚明行者、普寛行者だろうか。

f:id:owari-nagoya55:20201230110147j:plain 右手の一社は恵比寿社。
参道の向かいにも石段があり、そちらにも向かってみた。

f:id:owari-nagoya55:20201230110205j:plain 古びた石段は二つに分かれ本殿後方に続きます。
そこに祀られていたのは津島社。
裏参道を少し下れば国道に繋がりその先は冨具崎港、国道脇と社務所西に参拝者駐車場もしっかり用意されていました。

f:id:owari-nagoya55:20201230110215j:plainえらい遠回りしたもんだ、ナビがあってもこんなもんだ、これじゃ大海原なんて到底目指せない。
さすがに車までの見当は不要だろう。
車を停めた冨具崎公園まで坂を登るか、その前に正参道の下りの石段が待っている。
2020/10/26

冨具神社
創建 / 不明
祭神 / 志那津比古命、志那津比賣命
境内社 / 山神社、楠宮社、秋葉社、多賀社、御嶽社、幸宮社、金刀比羅社、津島社、
住所 / ​愛知県知多郡美浜町野間冨具埼65
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桜島・錦江湾Geo Park 『腹五社神社の埋没鳥居』

鹿児島県鹿児島市黒神町『腹五社神社

f:id:owari-nagoya55:20201227135740j:plain 朝陽を受け桜島のシルエットが浮かび上がる、観光で訪れた者には記憶に残る短くも美しくい光景です。(鹿児島市内より)
自然は人に感動や恵みを与えてくれる、しかし時に過酷なまでの絶望感に満ちた試練を与えます。

f:id:owari-nagoya55:20201227135749j:plain 黒神埋没鳥居と呼ばれる『腹五社神社』は、鹿児島市からフェリーで島に渡り、桜島港から国道224号線と県道26号線を10分程走った島の東側にあたります。
桜島は現在大隅半島と陸続きとなっていますが、以前は独立した火山島でした。

1779年の安永噴火以降穏やかだった桜島大正3年1月12日の朝、引ノ平付近の噴火から始まり、東山腹の鍋山付近へと活動が広がり、明治維新以降に我が国が経験する最大の噴火「大正噴火」となります。

f:id:owari-nagoya55:20201227135759j:plain 東山腹にあたる鍋山付近から流れ出た溶岩流は、東桜島村の脇・有村・瀬戸の集落を覆い尽くし、幅約360㍍、水深75㍍の瀬戸海峡をも埋め尽くし大隅半島まで到達し陸続きとします、これが今の桜島の姿になります。
当時の桜島は東桜島村と西桜島村に分かれていたそうで、18の集落に約2万人の島民が生活を営んでいた、この噴火により多くの人命と家屋、農地が失われました。
海峡を泳いででも逃げようとして亡くなった方もあり、地獄絵図そのものだったと云います。

埋没鳥居として知られる『腹五社神社』には大正噴火の記憶がそのまま今に留められています。
神社を訪れる気持ち以前に自然が与える試練を目に焼き付け、自然から驕り高ぶった人に対する警鐘を感じ取っておきたかった。

f:id:owari-nagoya55:20201227135837j:plain 県道26号線沿いに無料駐車場があり、道路を渡った黒神中学校の右が目的地。
駐車場には強固なコンクリートで作られた避難壕が、島内の至る所にこうした避難壕が当たり前の様に設置されています。

f:id:owari-nagoya55:20201227135847j:plain 駐車場から黒神埋没鳥居は目の前。
学校の敷地と隣り合わせ、というか一部になっている。
神社のある黒神地区、地名の由来は諸説ありますが、女性の髪の様にふさふさした木が茂っていたことから「黒髪」とついたといわれます。
大正噴火当時に黒神地区には約700世帯あったとそうですが、神社を含めそれらは全て噴火による火山灰により一日で埋没しています、その高さは実に2㍍にもなるそうです。

f:id:owari-nagoya55:20201227135856j:plain 県道を渡り神社へ、右手の石垣は黒神中学校の校庭。
あれから100年を経過し、道路を含めてこれらは堆積した火山灰の上に作られたもの、周囲は黒髪の様な樹々が生い茂り、当時の惨状を伝えるものは少なくなっているようです。
一日にして集落を埋め尽くす自然の力に対し、人が出来る事は時間もエネルギーも遠く及ばない。

f:id:owari-nagoya55:20201227135909j:plain 神社入口の解説。
島へは船で渡っていたものが大正噴火による30億㌧の溶岩により大隅半島と陸続きとなった。

f:id:owari-nagoya55:20201227135921j:plain 「桜島錦江湾Geo Park」、地球・大地からのメッセージから学び、保全し、地域の活性化につなげる公園。ユネスコの認定を受けた世界Geo Parkが国内9カ所、日本Geo Parkが43か所あるという。
以前掲載した「嘉例川駅」のある一帯は2010年に認定された霧島山を中心とした日本Geo Parkの「霧島Geo Park」でした、「桜島錦江湾Geo Park」は20013年に日本Geo Parkに認定されたもの。

f:id:owari-nagoya55:20201227135931j:plain 黒神埋没鳥居と参道全景。
左の石垣と大きな木(アコウ)の陰に包まれた横が参道にあたります。
右に資料館、左に赤い覆屋があり、参道を塞ぐように石鳥居の笠木だけが露出しています。

f:id:owari-nagoya55:20201227135942j:plain 赤い覆屋の中には小さな社が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20201227140101j:plainGeo Park認定の翌年に隣の黒神中学校の生徒らが作成した、桜島の成り立ちから防災情報を伝える解説。Geo Park認定は郷土を知るうえで貴重な経験と知識を得る機会にもなっているようです。
観光で訪れた者から見ると、活動が続く桜島の噴煙と山肌を間近に見ていると「いつなんどき・・・・」を想定してしまうものですが、火山と共に生活を営む住民には長い経験からくる「桜島の掟」があり、火山との付き合い方を熟知しているようです。

自分は活動している山に登ると無意識にペースが上がり、腰掛けて火口や噴気孔を眺める余裕は未だにない、まだまだ肝が据わっていないようだ。

f:id:owari-nagoya55:20201227140112j:plain 『腹五社神社』鳥居
災害前の鳥居は高さ3㍍ほどだったと云われ鳥居、貫の直下まで火山灰が堆積しています。
これが自然の力、大正噴火そのもの。

f:id:owari-nagoya55:20201227140123j:plain 額束の文字「腹」は読み取れるけれど下は欠損し読み取れない、『腹五社神社』と記されている事だろう。今は灰の下に埋もれてしまった黒神集落の氏神さまだ。

f:id:owari-nagoya55:20201227140340j:plainこの鳥居は昭和38年に県の天然記念物に指定を受けている。
噴火により埋没した神社は垂水町の牛根麓稲荷神社も同様ですが、そちらは埋没したものを笠木部分まで発掘したものという。
黒神の埋没鳥居は住民により掘り起こす動きがあったものの、時の村長だった野添八百蔵は自然の脅威を後世に伝える為、発掘を中止し当時のまま保存することにした。
自身を含め神社を掘り起こしたい住民の気持ちと、事実を保存し伝える意義の選択の中での決断だった。
その決断のおかげで人の英知など及ばない自然の脅威を今もこうして感じることができる。

f:id:owari-nagoya55:20201227140352j:plain 埋没鳥居からは参道が続き現在の本殿へと続きます。
参道の左右には複数の境内社が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20201227140405j:plain 左側に一際大きな覆屋があります。

f:id:owari-nagoya55:20201227140418j:plain 内部には小さな石の社が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20201227140427j:plainその中に石像が安置されている。
子安観音なのか、見ようによってはマリア様にも見えなくもない、いずれにしても埋没した神社にあって、穏やかな表情で子供を抱くその姿がとても印象に残る。

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 本殿に至るまでに見られる境内社

f:id:owari-nagoya55:20201227140613j:plain 『腹五社神社』本殿

f:id:owari-nagoya55:20201227140624j:plainこの地にあり、自然の脅威に見舞われた経験から、避難壕のように強靭な造りの社殿は当然の事だろう。

f:id:owari-nagoya55:20201227140638j:plain 普段なら色々と祈願する事があるけれど、この時は何も思いつかなかった、しいて言えば平穏に生かされていることへの感謝だっだように思う。
鎮座は350年前と伝えられているようですが詳細は不明。
五社神社の祭神は瓊瓊杵尊 木花咲耶姫 彦火火出見尊 豊玉姫命 鸕鶿草葺不合尊を祀り、御神体は当時のものが一部を除き焼け残り、今も祀られていると云う。

f:id:owari-nagoya55:20201227140652j:plain 本殿から参道の眺め、右側が校舎で参道を廊下が横切っています。

f:id:owari-nagoya55:20201227140702j:plain 石垣の脇に聳える巨木はアコウの樹。
枝や幹から気根と呼ばれる根が絡み合い、生命力の強さが感じられます。
この樹は大正噴火にも耐え、今も力強く聳えている。
『腹五社神社』は自然の絶望的な脅威と逞しさを感じることが出来、周囲の景観には絶望的な自然災害から立ちなおしてきた人のエネルギーを感じさせてくれます。

黒神埋没鳥居『腹五社神社
創建 / 不明
祭神 / 瓊瓊杵尊 木花咲耶姫 彦火火出見尊 豊玉姫命 鸕鶿草葺不合尊
住所 / ​​​鹿児島県鹿児島市黒神町647
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がん封じ祈願の神社「直會神社」

尾張旭市渋川町3「直會神社」

f:id:owari-nagoya55:20201225165455j:plain 矢田川に架かる印場橋下流から上流の眺め。

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矢田川右岸堤防の北側が渋川町3になり、直會神社は中学校の西側に鎮座しています。
境内に聳える大きな樹々は堤防からも直ぐに目に付くものです。
訪れたのは2020/12/9、玉垣には大祭を知らせる赤い幟と癌封じ祈願と書かれた白い幟がたなびいていました。

f:id:owari-nagoya55:20201225165519j:plain 社頭の眺め。右側に社号標と手水舎、社務所

f:id:owari-nagoya55:20201225165529j:plain 手水舎と龍口。
儺追(なおい)水と呼ばれ、後方に解説が記された碑がある。

f:id:owari-nagoya55:20201225165546j:plain 神殿域。
広い境内の東側の一画が一段高く盛られ、大きな樹々の下に社が祀られています。
神明鳥居の先に石段が付けられ拝所へ続く。

f:id:owari-nagoya55:20201225165557j:plain 鳥居左にも社号標
こんもりとした杜ですが重く澱んだ印象はなく、風の通りもよく陽の空間。

f:id:owari-nagoya55:20201225165609j:plain 切妻、妻入りの社殿で、本殿が祀られた部分を除き吹き抜けになっています。

f:id:owari-nagoya55:20201225165619j:plain 拝所から本殿域。
神社額は本殿域に掲げられています。
土間全体に御影石が敷き詰められ、鏡の様に周囲の景色や光が映り込み明るい印象を受けます。
こちらの神社、幟にもあるように癌封じの御利益があるそうで、祭神は神直日神と大直日神。
「僅かな賽銭・大きな祈願」家族全員分をしっかりとお願いする。

f:id:owari-nagoya55:20201225165632j:plain 拝所右側のお祓い石
「昔から直會神社は腫物、吹出物などの治療に効験あらたかで、神殿の前にある小石で患部をさすると治ると云われていきました。(小石を持ち帰り、患部をさすり、治ったら、その小石を左側の納所へ戻す)
神殿前に御祈祷した黒い小石を置きましたのでご利用下さい。
現在では腫物の中でも癌が一番関心を集めています、癌予防、治療を含めて癌封じにご利用ください。
笑う門には福来るといいます、落ち込みかけた心を笑いの力と信じる気持ちで吹き飛ばしましょう。
心より応援します。直會神社 澁川神社」
こちらの神社に神職は常駐していません、ここから北に鎮座する澁川神社が管轄されているようです。

f:id:owari-nagoya55:20201225165643j:plain 鳥居左の解説
676年(白鳳5)に天武天皇大嘗祭が行われ、その悠紀斎田がこの地(尾張國山田郡)にあったと伝えられる。
大嘗祭とは、天皇が即位したあと、その年に取れた米などを神様に供える祭です。その米は占いによって定められた田んぼで大切に作られました。
田んぼは都より東を悠紀斎田、西を主基斎田と区別して呼んでいた。
直會神社は、悠紀斎田での収穫をお祝いして神様に供えた、お酒や食べ物などの御下がりを頂く「直會」という儀式跡に建てられ、祭神は、罪や穢れを祓う神直日神と大直日神。

この神社にお願いすると、体の穢れ、腫物やできものが治るとされ、「のうらいさま」「にょうらいさん」とも呼ばれ親しまれている。

f:id:owari-nagoya55:20201225165446j:plain 遠方から参拝に訪れる方もあり、名古屋市昭和区紅梅町や守山区森孝新田には直會神社への道標仏も建てられています。直會道と呼ばれた嘗ての道筋も、区画整理と共に失われました。

毎年、3月と12月の第1日曜日には直會神社の大祭が行われ、植木市や露店が参道にたち賑わいを見せる。また、お神楽やお神楽や市指定無形文化財の打ち囃子も奉納される。

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 神社の創建時期は以前掲載した斎穂社と同時期の676年(白鳳5)頃とされる。
1891年(明治24)頃の地図を調べてみる、澁川神社の印は見つかるも「直會神社」は記されていない、形態はともかく実際に鳥居が記されるのは昭和に入ってからでした。

f:id:owari-nagoya55:20201225165655j:plain 直師夢想東軍琉棒の手の碑と二つの境内社
碑文は「古くは村落自衛の為、武者修験者に授けられてきた棒術が神楽芸能として変わっていく時代の文化文政年間、森下理右衛門が出来町蓬師範のもとで修業、代々にわたり在中地区農民に伝授、文政四年「直師夢想東軍琉棒術目録」を授け、農民の手で相伝され現在に至る。
昭和三十二年、尾張旭市棒の手として愛知県無形文化財、同五十一無形民俗文化財として再指定される。」
奥の二つの社は詳細不明。中腰で覗き見れば御札から分かるやもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20201225165709j:plain 境内南奥から社殿を横から眺める。
社殿半分がポッカリと開き吹き抜けになっているのがよく分かる。

f:id:owari-nagoya55:20201225165722j:plain 穢れを払い、禍を直す神を祀る「直會神社」
アスファルトの隙間で懸命に花をつけるスミレの花。

今日の「マスクの方」の話を聞けば聞くほど、今一番穢れを払い、禍を直す必要に迫られている方々が他にいるようでならない。

「直會神社」
創建 / 676年(白鳳5)
祭神 / 直日神(神直日神、大直日神)
住所 / 尾張旭市渋川町3
公共交通機関アクセス / 名鉄瀬戸線「印場」駅下車南へ徒歩20分程
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瑞穂区大喜町3「秋葉神社」

名古屋市瑞穂区大喜町3
過去に掲載した田光八幡社の社頭から東へ、千種郡道を超えて徒歩2~3分も歩けば大喜町の「秋葉神社」が現れます。

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街並みの先のこんもりした樹々が田光八幡社の杜、その手前に見える交差点が南北に伸びる千種郡道。

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上は大正の頃(左)と右がほぼ現在の当地、赤い線が千種郡道。
1909年(明治42)に南区呼続東海道から北の飯田街道を結ぶ目的で整備された道で、整備といっても道幅が広い訳ではないけれど、群道界隈には当時の街並みを垣間見ることが出来ます。
大喜町の「秋葉神社」の印は描かれてませんが町のほぼ中心に鎮座し、この一帯の火伏を司っているのが分かります。
現在は周辺の家屋は建替えられ静かな住宅街の趣ですが、道は狭く隣家と隣り合うような環境なので火伏の神は今も地元では大切にされています。

f:id:owari-nagoya55:20201223203944j:plain細い路地の片隅に周囲を玉垣で囲った一角が社地として与えられています。
社頭右に社号標が建ち、境内は二段に整地され、上段に台座が組まれ社が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20201223203955j:plain社頭全景。
住宅街の神社でありがちな、左右や後方に壁の様に住宅が迫り、閉塞感すら感じる空間とは少し違い、解放感のある社地。
鳥居や狛犬はないものの、街中の「秋葉さん」としては形が整った大きめの神社かもしれません。

f:id:owari-nagoya55:20201223204004j:plainこちらの神社詳細は分かりませんでした。
社前に建つ春日灯籠に刻まれた1931年(昭和6)が創建に繋がる一番古い年号でした。

f:id:owari-nagoya55:20201223204014j:plain社全景
まずは参拝させて頂きます。
右手が細い路地、後方は駐車場という事で風が通り、境内の樹々も綺麗に選定され、良く手入れされていることもあり明るく気持ちの良い空間。

f:id:owari-nagoya55:20201223204025j:plain板宮造りの二社宮。
祭神は一柱は火之迦具土神だと思いますが、もう一柱は分かりません。
社名札が欲しいところ。

f:id:owari-nagoya55:20201223204036j:plain東の路地から見る社、見上げる高さから大喜町を見守っているようにも見える。

f:id:owari-nagoya55:20201223204048j:plain狭い路地が多く、住宅が密集したこの地域、火災でも起これば他人事では済まされない、路上駐車でもあろうものなら消防車の身動きはとれないだろう、運命共同体のようなもの。
綺麗に手入れされた秋葉神社や、見事に路上駐車のない光景を見ていると、我家の近所にはないあるべき姿を見た様な気がする。地域の結びつきの強さのようなものが感じられ。

瑞穂区大喜町 「秋葉神社
創建 / 不明
祭神 / 火之迦具土神
住所 / 名古屋市瑞穂区大喜町3-23-4
公共交通機関アクセス / ​地下鉄鶴舞線「瑞穂運動場西」から西へ徒歩15分ほど
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