『教王護国寺(東寺) §1 』(京都市南区九条町)

伏見稲荷御旅所を後に、次の目的地東寺に向かう。

伏見稲荷御旅所の社頭の通りは東寺通りと呼ばれ、名が示す様に、西に5分程向かうと世界遺産東寺の慶賀門に至ります。

門右に「史蹟 教王護国寺境内」の石標。
 あれぇ、東寺ではないの?となりますが、東寺の正式な呼称を教王護国寺といいます。
真言宗の総本山で、平安遷都とともに都の南玄関、羅城門(南区唐橋羅城門町に碑が残る)の東に建立されたのが東寺で、唯一残る平安京の遺構です。

 桓武天皇のあとに即位した嵯峨天皇は、唐で新しい仏教、密教を学び帰国した空海に託し、日本ではじめて誕生したのが密教寺院の東寺で、官寺の寺格を有した国営の寺院。
空海密教の教えを、21体の仏像で立体曼荼羅(胎蔵界曼荼羅金剛界曼荼羅)として視覚に表し、講堂に安置しました。
 空海の東寺と対峙する形で羅城門を挟み、守敏に西寺(南区唐橋西寺公園に遺構)の建立を下賜しましたが、空海の東寺の隆盛ぶりに比べると西寺の荒廃は寂しいものがあります。
二つの大きな伽藍と五重塔が聳え立つ姿は壮観そのものだった事でしょう。

 東寺へは空海の思い描いた立体曼荼羅と特別拝観の五重塔初層を拝観する目的で訪れました。

慶賀門をくぐり境内に入る、左に視線を移すと手前の宝蔵と奥に五重塔が聳えています。

 東寺を訪れた時期は11/24、この時期は紅葉のピークは過ぎ、銀杏の黄葉がピークを迎えていた。

宝蔵。
 校倉造の瓦葺寄棟造で現在はこの一棟のみですが、創建当時は南北一棟存在し、宝物や経巻が収蔵されていた。
長保2年(1000)と大治元年(1126)に消失し、建久9年(1198)に再建されたとされたが、解体修理の際にそれらを覆し、東寺創建時期とされる延暦15年(796)に近い年代に建立された根拠となるモノが見つかったようです。
 堀の先でひっそり佇んでいるので目立たないが、高床式の校倉造は正倉院や宝蔵などが示す様に、素材の特性を知り尽くした日本の誇れる技術。

瓢箪池から望む五重塔
 紅葉の時期の東寺はライトアップされ一層美しいようですが、日中以上の長い列ができるらしい。
東寺の拝観時間は8:00から、少し早めに訪れればそれほど混雑していなかった。
 行列が苦手な自分には向かない状況の様です。

食堂。
 当時の伽藍は南に金堂、講堂、食堂が南北に配置され、配置そのものが仏法僧を表していると云う。
南の金堂は本尊の「仏」、講堂は密教の教え「法」、この食堂が「僧」を意味する。
 食堂は日常の修行を行う所で、四国八十八ヶ所巡礼や洛陽三十三所観音霊場などの納経所になっています。
 
建立は、平安時代とされ、足利尊氏は東寺に本陣を置き、この食堂に居住していたこともあったとされ、本尊は約6メートルの千手観音菩薩持国天増長天広目天多聞天の四天王が護っていました。
 昭和5年(1930)の火災により堂は焼失、仏像は大きく損傷したと云い。
それらは修復を受け本尊は宝物館に保管、新たな本尊となった十一面観音像を修復を受けた四天王が守護しています。
 現在の建物は焼失後、3年間の工事を経て建てられた、入母屋瓦葺の建造物。

食堂正面と夜叉神堂。
 東西2棟の小さな堂は左が雄夜叉、右が雌夜叉の堂。

内部に安置されていた本地文殊菩薩と本地虚空蔵菩薩は修復を受け宝物館に遷座されています。
 歯が痛い方は宝物館にお参り下さい。

講堂から金堂の眺め。
 講堂は幅約35㍍の入母屋瓦葺で、講堂正面の漆喰壁に三間の扉があるだけで、一見見所がないように見える。
しかしここが東寺の核心といっても過言ではなく、内部には21体の仏像が安置され、空海が伝えたかった密教の世界観を、曼荼羅や文字ではなく仏像により立体的に再現されています。

上は東寺栞から抜粋。
 堂の中央に宇宙の根源とされる大日如来を中心に、右側に五大菩薩坐像、左側に空海が初めて伝えた五大明王像などの国宝が安置されており、堂内は全面撮影禁止ですが、点眼鏡で間近に見る事は許されています。

東寺の建立は弘仁14年(823)から始まり、承和6年(839)に16年の歳月を経て完成したとされます。
 建立当初は講堂と金堂の周囲を廻廊が巡り、ふたつの伽藍をつないでいたという。
それも、文明18年(1486)に金堂、南大門などを焼失。
 その後の再興は桃山時代(1573~1603)に金堂が、南大門は江戸時代に入るまで再建を待たなければならなかったとされます。
しかし、この講堂だけは焼失後僅か5年後に再建されたと云い、東寺にとって如何に重要な存在だったのかが窺われます。

金堂。
 延暦15年(796)東寺の創建で最初に建造がはじめられたのが金堂で、国営の東寺として荘厳な姿を求められたとされ、そうした事もあり、伽藍の中で唯一、二層の様に見えますが、内部は一層で一階の屋根は裳階、中央の切り上げは東大寺大仏殿の意匠にも通じ、意図した荘厳さが伝わってきます。

金堂内部には本尊の薬師如来坐像を中央に、右に日光菩薩、左に月光菩薩を配している。
 特に薬壺を持たない薬師如来坐像、七体の化仏を配した光背や、台座に施された十二神将など緻密な意匠が見所、東寺拝観に点眼鏡は外せない。

 空海は伽藍全体でも曼荼羅を再現しようとしたのかもしれません。
いずれも桃山時代の金堂再建時のもの。

五重塔
 空海が講堂の次に着手したのが五重塔とされる。
しかし、造営から30年を経過し費用も人手も不足、そこで天長3年(826)に朝廷に東寺の塔を作る支援を求め完成にこぎ付けたのがこの塔。
 塔は過去に4度焼失、その都度再建され、現在の塔は寛永21年(1644)に徳川家光が再建しもので、高さ54.8㍍の日本最高の塔とされる。

塔の傍らに五重塔の側面構造図と初層の平面図。
 初層の特別拝観は平面図の東側から内部を見ることが出来た。

上は拝観時に頂ける解説。
 こちらの方が分かりやすいか、この技術は現代のスカイツリーに応用されるなど、昔から木と接し代々受け継がれて来た日本人の誇る知恵の一つ。

(画像は東寺HPより)
初層内部。
 中央心柱の大日如来を四尊の如来、八尊の菩薩が脇を囲み、四方柱に金剛界曼荼羅、四面の側柱に八大龍王、四方の壁に真言八祖像が描かれています。

胎蔵界曼荼羅(右)と金剛界曼荼羅(左)(画像は東寺HPより)
 空海は其々もとになる経典の違う二つの曼荼羅を持ち帰り、一つのものとして独自の教えを説き、生きとし生けるものの平安を願ったのだろう。
この空間にも空海の思い描いた世界観が視覚化されている。
 有料になりますが、これらの保全に貢献できると思えば安い物です、点眼鏡片手にじっくり拝観したいところです。

この時期は瓢箪池から望む五重塔が一番印象的なんだろう、結局ここに戻ってきた。

平安京の正門、羅城門を挟んで建立された東寺と西寺。延暦15年、796年に東寺が創建され、最初に工事がはじめられたのが金堂です。
 
ここから南の南大門方向へ。

南大門の左に鎮座するのは八嶋社。
 石の明神鳥居の先に朱色の拝所を構えている。

伽藍は五重塔の西に位置し、鳥居に掲げられた額には「八島社」とある。

唐破風屋根の拝所に掲げられた額には「八嶋社」とある。

八嶋社。
 祭神は東寺の地主神とも、大己貴神とも云われるようです。
八嶋社の由来は我国を大八洲瑞穂国という所から起った社号で、それ故にこの社は東寺以前から鎮座していたとされる。
 弘法大師空海はこの神の夢想を被ってここに伽藍建立に先立ち、この神へ寺門建立成就、方位安全、法道繁栄を祈願し地主神と崇めたと伝わる。
 長い歴史を誇る東寺、それより更に創建は古いという。
本殿は銅板葺流造で、年代は分からないが痛みのない外観から近年再建されているようだ。

本殿前の狛犬
 滑らかな曲線を描く小さな狛犬、恐らく木造だろうか。
小粒な体つきてありながら、立派な尾や角を持っている、「体の大きさで決めるなよ」とでも言いたげだ。
 空海にして祈願をしたと云う地主神八嶋社、参拝しておくべき所です。

 周囲の紅葉に引けを取らぬ鮮やかな朱色の社殿です。 

 

八嶋社
創建 / 不明
祭神 / 不明

南大門。
 現在の南大門は明治元年(1868)に焼失。
明治28年(1895)、豊臣秀頼により建てられた三十三間堂西大門の八脚門を移築したものらしい。

南大門の右の東寺鎮守八幡宮
 入母屋銅板葺の拝殿と流造の本殿を持ち、東寺創建時の王城鎮護を願って祀られた社と云われる。

本殿には僧の姿をした僧形八幡神と二尊の女神が祀られ、それらは空海自ら彫ったものされ、わが国最古の神像だと云われ、他に武内宿禰も祀られているそうです。

 鎮守八幡宮は、平安時代に起った薬子の変(810)を鎮めたと伝えられ、以来、戦勝祈願の社として崇敬され、足利尊氏も祈願に訪れたと伝わります。
現在の伽藍は明治元年(1868)に焼失後、平成4年(1992)に新たに再建されたもの。

社殿周辺の解説。

八幡宮社頭の前に立つ 灌頂院東門。
 鎌倉時代後期のもので寛永11年(1634)に再建された切妻瓦葺の四脚門。
 灌頂院北側にも似た形状の北門があります。

ここから南大門の門前に出て見る。

南大門門前から金堂の眺め。

門脇の教王護国寺解説。

南大門の門前は東西に堀があり、水辺を求めて訪れるアオサギ?が群れ、南大門は止まり木になっていた。

東寺は一辺約300㍍のほゞ正方形の広い境内と伽藍を誇っています。
 一度で済ませたいところですが、まだ御影堂もあり、二回に分けて掲載する事にします。
今回は赤枠部分、次回は灌頂院東門から御影堂方向に向かいます。


教王護国寺(東寺)
創建 / 延暦15年(796)
開基 / 桓武天皇
宗派 / 真言宗(総本山)
山号 / 八幡山
院号 / 祕密傳法院
本尊 / 薬師如来
所在地 / ​京都市南区九条町1番地
参拝日 / 2022/11/24
関連記事 / 

owari-nagoya55.hatenablog.com

伏見稲荷御旅所から東寺慶賀門 / ​東寺通りを西に徒歩5分程

五条橋袂の屋根神さま

名古屋市西区那古野1
  堀川に架かる五条橋を西に渡ると正面に円頓寺商店街のアーケードが現れます。

ここは円頓寺商店街の東にあたり、ここから西に向けアーケードが続いています。
 清州越しに伴い掘削された堀川、水運の要衝となり、美濃路を行き交う旅人や清州から移転した寺社の門前町として発展してきた通り。

五条橋。
 堀川に架かり、円頓寺商店街の東に位置します。
今から約400年程前、家康により名古屋城築城に伴い、それまで政治の中心となっていた清州城から名古屋城に機能を移す清州越しが行われ、清州城下の人や物、寺社、商店、町名など一斉に移転されました。
名古屋城下を形成する中心的存在になったのが人の手で掘削された堀川です。

堀川に架かるこの五条橋も清州越しに伴い、清州城の西を流れる五条川に架けられていたのを移転したもので、五条橋の名の由来はそこから来ています。
 堀川が完成し最初に架けられた橋が五条橋です。
現在見る橋は鉄筋コンクリート製のもので昭和13年(1938)に建替えられたものです。
 当時、こうした技術があろうはずもなく木造の橋でしたが、幾度か補修を繰り返し昭和の時代まで使われていました。
架け替えはオリジナルのデザインを意識したものだと云います。

橋の袂には昭和の頃の五条橋の姿や江戸時代に水運で栄えていた当時の光景が掲げられています。
 水運が栄えると両岸には荷下ろしの為の石畳や荷を保管する蔵が立ち並び、人が集まると町屋も広がっていきます。

五条橋右岸の親柱の脇に流麗な曲線を描く山型造りの社は地に下りた屋根神様。
 人が集まり長屋が連なる堀川沿いは一度災いが起れば他人事では済みません。
元禄13年(1700)に起きた大火では1640軒余りの町屋を焼失、当時の尾張藩主の徳川吉通は、こうした被害拡大を抑えるため、堀川沿いの商家が連なる通りの道幅を4間(約7㍍)に拡張させました。
 現在の四間道と呼ばれる通りの名の語源といわれます。

そうした過去の経験もあり、災い除けの拠りどころとなる神社は必然的に祀られていきます。
 普段の社は扉が閉ざされていますが、祭礼時にはこの扉が開かれるのでしょう。
五条橋を渡る機会はあっても、扉の開いている姿は見た事はありませんが、恐らくは津島神社秋葉神社熱田神宮の三社が祀られているでしょう。

扉が開かれる祭礼は恐らく、正月や毎月1・15日の月次祭、その際は中に祀られている三社の提灯が吊るされている事でしょう
 こうした屋根神様の起源は定かではなく、堀川の歴史と共にあるのかもしれません。
主に明治、大正に祀られたものが多いようですが、昭和に入り、戦災やその後の家屋の建替を契機に数を減らしていったようです。

五条橋親柱の擬宝珠、慶長7年(1602)と刻まれています。
 現在の擬宝珠はレプリカでオリジナルは名古屋城で見ることが出来ます。 
堀川の開削が慶長15年(1610)とされます、この橋はその8年前に清須の五条川に架けられていた証でもあります。

五条橋から名古屋城方向の堀川の眺め、名古屋の街づくりに文化に大きな役割を果たしてきた堀川、現在の工事が終われば本来の姿を取り戻す。

五条橋袂の屋根神さま
創建 / 不明
祭神 / 不明
祭礼 / 正月、毎月1・15日 
所在地 / ​名古屋市西区那古野1-1
参拝日 / 2022/12/08
関連記事 / 中村家と屋根神様 - owari-oyajiの放浪記四間道の屋根神さま #2 - owari-oyajiの放浪記四間道の屋根神さまと子守地蔵尊 - owari-oyajiの放浪記

「中橋の袂で佇む屋根神さま」名古屋市西区那古野 - owari-oyajiの放浪記

 

白龍稻荷大神 (別府海地獄)

大分県滞在二日目。

気持ちのいい朝焼けから始まった二日目、本日の予定は温泉地湯布院を目指す。
 その前に、折角別府に来たのだから、旅館から歩いて廻れる距離でもある地獄巡りを楽しんでからにしよう。
今回はその地獄巡りの際に海地獄で祀られていた白龍稻荷大神と小さな社を取り上げて見ます。

名勝海地獄。
 茅葺屋根の長屋門が入口。
白龍稻荷大神へは地獄巡りの共通観覧券か、個別のチケットを手に入れないと参拝ができません。

海地獄の施設マップ。
 これより下に出てくる写真を撮影場所に貼りつけておきます。

門をくぐると目の前に蓮池が現れる。
 訪れたのが10月27日、水面には季節外れの睡蓮が咲き誇っていた。
紅葉に睡蓮、大鬼蓮、温泉地ならではの光景かもしれない。
 海地獄園地には青い湯の海地獄と真赤な湯を湛えた赤池の熱泉があり、他に温泉の熱を利用した温室が見所。

海地獄で見かけた覆屋。
 地獄を目当てに訪れる人が多いなか、お参りする観光客もなく、園内の片隅にひっそりと祀られていた。

中には三体の地蔵が安置されており、穏やかな表情をした左右の地蔵は安政4年(1857)に寄進されたもの。
 中央の小さな地蔵の年代は不明で、風化により表情はもはや分からない。

こちらは海地獄の展望台入口脇の少し上がった場所に祀られていた小社。
 海地獄を見下ろす様に鎮座する社。
案内板はなく、地獄を行き交う観光客は通り過ぎて行く。

板宮造りの小さな社ですが、榊も供えられており地獄を鎮護する社なのだうか。
 地獄を前にすると小さな社は存在感がないかも知れないが、外国から訪れた観光客には「Cool」に映るかも。

海地獄。
 園内の一番奥にあり、鮮やかなコバルトブルーの熱泉を湛える。
今から約1200年前の貞観9年(867)正月、鶴見岳の火山活動に伴い出来た熱泉のひとつが海地獄です。
 地下200㍍から湧き出す湯が海のようなブルーに見えることがその名の由縁で、湯温は約98℃と煮えたぎる地獄の熱さ。

青い熱泉と白い湯気が一面立ち上る海地獄、湯気の切れ間の先に朱の明神鳥居が垣間見れる。
 白い湯けむりの中で朱の鳥居は一段と鮮やかに映る。

一ノ鳥居の扁額には「白龍稻荷大神」とある。
 朱の鳥居は「Cool」に映るようで、鳥居の前や柱に抱き着いて、記念写真を撮影する人が途切れることはない。

神橋前の鳥居。
 橋を渡って右側に手水舎がある。

手水鉢に注がれる清水は湯だった。
 外国人観光客の多くは、鳥居や朱の橋、手水舎まで足を運ぶものの、ここから覆屋へは意外に訪れないようでした。

朱の鳥居にはためく赤い幟、その先の朱の覆屋など外国人観光客が好みそうなんだが。
 覆屋に足を向けないように見えた。
内部には流造の白龍稻荷大神の社と、左脇に白龍稻荷大神と彫られた石標が立ち、更に左に狐と思われる石の立像が建てられ、その左に小さな社が祀られていました。

白龍稻荷大神本殿。
 家内安全、商売繁盛、交通安全の御利益が得られると云う。
大分県神社庁などに目を通したが、白龍稻荷大神の由緒などはよく分からなかった。

左に安置された石の立像。狐でいいと思いますが。

左の小さな社。
 こちらも社名や由緒などよく分からなかった。

手水舎から一ノ鳥居と海地獄方向の眺め。

真赤な湯を湛えた赤池
 血の池地獄ではありません、鳥居の鮮やかな朱色とは違い暗い赤。
あちらこちらで噴気が上がり、地下では今も盛んに活動している。
 噴気で隠れていますが後方に温室があり、そこには色とりどりの熱帯性睡蓮が咲き誇っていた。

温泉の熱を利用したもので、あまり見慣れないカラフルな色の睡蓮を見ることが出来た。
 睡蓮好きには良い場所かも知れません。
白龍稻荷大神について詳細が掴めず、内容が乏しく申し訳ないですが、青や赤の湯の色と白い湯煙に朱の鳥居、そしてこの鮮やかな睡蓮の色。
 地獄巡りの中で自然の営みと多彩な色が見られるのが海地獄の様な気がする。

別府白龍稻荷大神
創建 / 不明
祭神 / 不明
所在地 / ​大分県別府市大字鉄輪​(かんなわ)559-1
参拝日 / 2022/10/27
関連記事 / 

owari-nagoya55.hatenablog.com

中村家と屋根神様

名古屋市西区那古野1「中村家と屋根神様」

浅間神社の南側の路地を西に向かい、二つ目の交差点を右へ進むと円頓寺商店街に続く路地が伸びている。

円頓寺方向の眺め。
 その昔は写真の様な町屋が軒を連ねていたのだろう。
壁一枚で臨家と接した建物も、新しい建物に置き換わり、今ではその連なりも一部歯抜けになったり、分断された建屋が連なる光景に移り変わっている。
 それでも、表通りはコンクリートの四角いビルが立ち並び、見上げるようなビルも聳えているが、一歩入ればこうした街並みが一部に残り、どこかホッとする場所でもある。
中央の木造瓦葺の建物が中村家で二階軒下に祀られた屋根神様が今回の目的地。
 時間の流れと共に、この区画で唯一残ったのが中村家。

那古野1丁目まちづくり研究会による「中村家と屋根神様」の解説。

「築200年と云われる旧家・中村家は江戸時代の商家の佇まいを良く残しています。
 当家の屋根にある屋根神様はこの地方独特の風習で、津島神社秋葉神社熱田神宮の三社を祀り、そのお祀りは今も続けられています。
ここは仏教系の秋葉さんで、静岡県袋井市の秋葉総本殿可睡斎という寺院が本山です。
 鎮火防火の秋葉信仰は静岡県秋葉神社から起りましたが、明治の神仏分離令で、仏教系の秋葉神社は火の神「火之迦具土神」を祀る様になりました。
 中村家の秋葉神社秋葉三尺坊大権現を祀っています、この神は室町時代以前に秋葉信仰で活躍した修験者の事で、天狗又は烏天狗が白狐に乗る形に象徴化されています。
 この辺りは円頓寺筋とつながって、昔はにぎやかな御本坊筋とも云われました。」

地方から訪れた人にはとても有難い解説です。

二階の軒下に祀られた屋根神様。
 今でも現役なのが見て取れます、左右の壁には枠に囲まれた額があり、絵なのか、こて絵だったのか分かりませんが、意匠が施されていたようです。
こちらの屋根神様は四角い箱型の中に祀られ、祭礼の時はこの扉が開けられ社の姿が現れる。

こんな高い所に祀られているので御世話も大変。
 梯子を架けてお世話する事になります。
なぜ敢えてこの場に祀る事になったのだろう。
 軒が連なる町屋の生活は一度火災が起きればすぐに延焼してしまいます、運命共同体のようなもの。
火伏の秋葉さんは必然的に祀りたくなるものです。
 見渡せば長屋が連なり地面に社を祀る土地も資金もない、そうした環境下で着目されたのが軒下だったのでしょう。
信心深かった当時、町内で祀られた屋根神様を住人が世話するのが自然に受け入れられていたはず。
 自然に当番札が作られ、持ち回りで面倒を見る神社当番が生まれ、それと共に住民同士のコミュニケーションができ、町内は上手く回っていたのだろう。
こうした屋根神様はこの地域ばかりではなく、小牧や木曽川を越えた岐阜県の街道沿いなどに一部残っていますが、高所の御世話は高齢になると難しくなり、建て替えと共に姿を消しつつあります。

海外と違い、日本は古い家屋に価値が生まれないので、家のライフサイクルが短く、築200年の家が残るのは歴史的価値がないかぎり、取り壊されていきます。
 古い家屋に対する価値観の違いも屋根神が消えていく要因になっているのでしょう。
お洒落な家が立ち並び、住民も変われば、人の繋がりも薄れ神社当番も回らなくなっていくのだろう。
 個人宅や公園の片隅に佇む小さな社が、以前は町民で世話した守り神だった事すら風化していくのだろう。
こうした光景が見られるのも長くはないのかもしれない。

中村家と屋根神様
所在地 / 名古屋市西区那古野1-17-5
関連記事 / 

owari-nagoya55.hatenablog.com


「淺間神社」から徒歩 / 西に2~3分程

年末恒例 「滋賀県酒買い出しツアー」

12月27日
バスツアーで湖東のワイナリーと彦根周辺の酒蔵を巡り試飲する、ただそれだけのツアーに参加してきました。
ほぼ酒を飲み、気に入った酒の買い出しツアー。
名古屋発の同じツアーがありましたが、それぞれ昼食内容が違い、湯豆腐が食べられる小牧駅集合のツアーに参加。

小牧駅7:00集合。
名古屋からだと結構朝が早い。

ツアースケジュールは上の内容。
何処にも寄らず、唯々酒蔵を巡り飲む、飲みたい人だけ参加する分かりやすいツアー。
今回、当日が最後となる支援を利用し、夫婦二人で9,000円程の出費。
それに二人で6,000円分(酒の購入で消えるのだが…)のクーポンが付くので実質一人1,500円。

酒蔵には行きたいが、個人では絶対に行けないツアー。

最初の目的地は栗東ワイナリー。
名神栗東ICから約20分。県道上砥山上鈎線を信楽方面、北の山交差点右折。県道栗東信楽線 山入交差点を右折、県道石部草津線草津方面へ。美之郷交差点を左折
所在地は滋賀県栗東市荒張字浅柄野1507-1

葡萄は青い小粒の形が出来ていて順調に育っていました。

琵琶湖ワイナリーは、地主より譲り受けた山林を拓き開墾を行ったのが始まりです。
葡萄栽培に適した土壌づくりのため、葡萄畑の荒地を開墾し、表土と底地を取り替える天地返しの大工事の末に葡萄栽培に適した土壌を作り上げたという事です。
昭和34年に果実酒の製造免許を受け、ワイン造りが始まったそうです。

ショップ外観。
ガラス張りの内部から眼下に広がる葡萄畑は、この時期実も葉もありませんが、海外の田舎に来た趣があります。

工場見学もあり、ワイン造りの行程を丁寧に説明して頂けました。
上は収穫したブドウを、房の状態から粒と房の芯に分離する機会の内部。
分離、搾汁、移送は機械化され、品種に応じタンクに遷され、そこから手作業による熟成管理で育てられています。
有機栽培の葡萄は収穫、搾汁、醗酵、熟成、貯蔵、瓶詰めの全行程を自社で一貫して行い製品化しています。

オーク樽。
熟成室には多くの樽が眠り、それと共に少しずつ仕込んだワインは減っていきます。
所謂「天使のわけまえ」というやつですが、定期的に実測により保管量を測定し税務署に申告し直すようです。
こうした事は日本酒も同様で、酒造者と税務署は密接な関係にあります。

見学後はずらり並んだ製品から好きなだけ試飲する事ができました。
試飲に含まれていないものもリクエストした所わざわざ試飲させて頂けました。
その中で上の浅柄野ブランドの「レッドミルレンニューム白ワイン」の印象が良かった。
微炭酸で僅かに濁りを持った白ワイン、香りもフルーティーで美味しかった。
納得するまで飲ませてくれ、摘みがあればここは天国です。

栗東ワイナリー
所在地 / ​滋賀県栗東市荒張字浅柄野1507-1

栗東ワイナリーから彦根方向へ向かう道すがらの道の駅アグリの郷栗東で買い物休憩。

ここはクーポンが利用可能でした、地元の赤こんにゃく、丁字麩を期待していたが残念ながら赤こんにゃくのみ、次の目的地彦根に期待。

道の駅としては小規模な方で、地元の特産品の品揃えは多くはなかった、ここは目の前を新幹線が走り抜け、ドクターイエローを待つ写真愛好家の中でも知られる場所という。
バスはここから再び高速に乗り、約小一時間程の彦根市街を目指し昼食を摂る。

彦根では昼食時間は1時間。
 夢京橋キャッスルロード周辺の散策時間は食事時間に左右される。

ひこね食賓館四番町ダイニング2Fの個室ダイニング赤鬼で湯豆腐の昼食。
バスツアーの昼食としては上品な方だと思う。
既にワインでほろ酔い、御飯は完食できなかったが温かい湯豆腐はありがたい、そして冷たいビール。
飲んだくれツアーなのでこれでいい。
バスの車内も飲食制限は撤廃、但し騒がない、大声は出さないマナーは求められる。
個室ダイニング赤鬼
滋賀県彦根市本町1-7-34

ゆっくり昼食を摂り過ぎ、散策時間はさほど取れず、周辺にある寺町を少し眺める程度。
上は祥壽院大信寺の山門。
1603年(慶長8年)創建、開基は井伊直政とされ、彦根藩第2代・井伊直孝の歯骨を祀る御廟がある。
下は聖聚院来迎寺の山門。

慶長8年(1605)宗誉来極の開基とされ、木造阿弥陀如来坐像は建久7年(1196)造立のもので彦根市内の本尊仏の中では最古とされる。
 

ささっと寺を拝観しキャッスルロードを後にして食後の酒蔵巡りへ。

創業安政元年の老舗、岡村本家。
何度か飲む機会があり自分の中では気に入っていった銘柄。
一度酒蔵を訪れたかっただけに、今回の酔いどれバスツアーに魅かれた。

こちらの搾りの行程は機械で圧縮して絞り出すものではなく、1枚ずつ袋に入れて搾る「木艚袋搾り」で搾る製法を用い、効率も悪く手間もかかるが譲れないとして受け継がれている。
食後の試飲、こちらのラベルには数値が書かれていてその数値が精米度を表しています。
低ければ低いほど磨かれているという証、個人の好みにもよりますが、精米度が高ければ美味しいとは限らないのが日本酒。

こちらでは写真のしぼりたてと背番号40を買い求める。

岡村本家
滋賀県犬上郡豊郷町吉田100番地

次はここから10分程の藤居本家に向かいます。

「旭日」「琵琶の舞」「杜氏の舞」の銘柄で知られ趣のある蔵はTVのロケでも使われたといいます。
店舗と蔵は少し離れていますが、どちらも見事な欅の柱を用いた老舗らしい風格ある建物。

酒蔵入口。

蔵内部、こちらでロケが行われたとか。
薄暗い内部に灯るやさしい明るさの白熱電球は酒が眠るのに相応しい。
見学を終え、店舗で試飲。
いくらでも飲んでください、但し飲み残しは絶対にやめて欲しいとの事、丹精込めて育てた製品に対する作り手のプライドを感じる。
どれも美味しいものばかり、結局こちらでも大量買い。
落ち着いた雰囲気の蔵の中には「かくれ蔵 藤居」もあり、酒を味わい飲食も出来る。
ここは宿も近くにあるようだし、蔵開きには電車で訪れたい。
藤居本家

酒蔵の西隣りに鎮座する伊邪那美命建速須佐之男命大山咋命、大物主命をお祀りする神社。
古くは白山権現と称したそうで、創祀の年代は明らかでないが、往古は大きな伽藍を誇っていたようです。
大隴神社
滋賀県愛知郡愛荘町長野1170

冬の夕陽が鳥居から差し込み始めました。
各自お気に入りの酒を買い求め、バスの車内には酒瓶が何本あるのだろう。
今日一日、参加したツアー客は十分美味しいお酒を味わえたことだろう。
気分も上々、あとは寝て帰るばっかりだ。

気が付けば、小牧駅到着、交通渋滞もなく予定の19時に戻ってくることが出来た。
これから重いリュックを背負い家路に着く。
飲んだくれツアー、普段できない体験なので面白いイベントでした。

これが今年最後のお出かけかぁ、一年過ぎるのは本当に早い。
土壌も出来ていない一億総労働社会でしたか? 体が動く間に適当に楽しまず何時楽しむ?
今回の​走行ルート

今夜は息子も御泊りとか、今夜のメニューは居酒屋メニュー、お供のお酒は…
岡村本家のしぼりたて、甘辛で云えば甘口、香りは日本酒らしからぬフルーティーな味わい。
明日息子が帰ってくると「この二人、目を離せばなにやってんだかぁ」と云われそうだ。

​京都府京都市「伏見稲荷大社御旅所」

久し振りの京都。
 名古屋から新幹線で一時間もあれば京都の地を踏みしめられる。
車で訪れようものなら駐車場に困り、観光名所や食事処は何処に行っても海外旅行者とツアー客で溢れ、
 気安く訪れたいと思えないのが京都の個人的な印象かもしれない。
しかし瑠璃光院の紅葉を見るためにもここは受け入れるしかない。

京都駅から西に徒歩10分程。
 東寺に向かう途中、油小路東寺道の交差点の西角で、古い寄進者銘の連なる玉垣に囲まれた「伏見大社御旅所」の前を通りがかる。
伏見大社の神様が祭礼の際に臨泊される場所で、普段神様は伏見大社におられるので今は不在。

境内は北と南に二つの鳥居があり、写真は南の鳥居から境内を見ています。
 境内は落葉した赤いもみじの葉が朝陽を受けて赤い絨毯を敷き詰めたようだ。

この時ばかりは朱の鳥居の存在感も薄くするほどだ。

境内の伽藍は左の建屋は奉安殿?と奥の赤い建屋は神楽殿、参道中央に神輿台車庫、右に境内社の伽藍。
 伏見稲荷はとんでもなく人が集まるが、駅から近い御旅所は誰一人出逢わなかった。
意外な穴場かもしれない。

境内右に横一列に四つの社が並んでいる。

社頭の御旅所解説。
「此処は伏見稲荷大社(伏見区)の御旅所です。
 この御旅所は、かつて七条油小路と八条坊門猪熊の二か所に分かれてありました。
天正年間にこの地に移り現在に至ります。
 稲荷祭りでは五基の神輿、田中大神(田中社)、佐多彦大神(中之社)、宇迦之御魂大神(下之社)、大宮能売大神(上之社)、四大神(四之大神)が駐輿し、その間神輿の氏子区域(不動堂、西九条、塩小路、中堂寺、東九条、八条東寺)の巡幸、神楽殿での湯立神事、六斎踊り等々により境内は氏子、参詣者で賑わう。

境内社殿、神輿台車庫、神楽殿、奉安殿の整備は平成19年より順次行われ、社殿(下命婦社、上命婦社、御旅殿、大神宮)は平成27年に竣功。
 御旅殿を除いた社殿は、神宮遷宮後の古殿舎の使用材が使われている。
周囲の石玉垣明治40年に新設され令和元年に改修されたもの。
 所在地京都市南区池ノ内町98
祭礼日 菜花祭 4月初巳の日、稲荷祭・神幸祭 4月20日前後近接日曜日、区内巡幸 4月氏子祭の日、還幸祭 5月3日、火焚祭 11月10日」

全国津々浦々のお稲荷さんの本店、伏見稲荷大社、その神様が御旅所に訪れるのは神幸祭の時。
 天正年間(1573~1592)、下社(七条油小路)、中社・上社(八条坊門猪熊)の御旅所は秀吉により統合され、この地に遷されたもので、旧地は古御旅所と云われ、ここから北西の南区古御旅町に地名として名が残っています。

稲荷祭は貞観年間(859~877)から続き、室町時代の1442年には山鉾も登場するなどし、祇園祭に匹敵する祭りだったといいいます。
 その祭も応仁・文明の乱(1467~1477)の戦乱で中断、それと共に山鉾も姿を消したそうだ。
戦乱後の1476年に神幸が再開され、江戸時代には賀茂祭祇園祭と共に京の三大祭の一つとして称されたようです。
 神輿台車庫に保管されている神輿は、一基の担ぎ手が300人を要する大きなものという、普段はシャッターが下ろされその姿を見る事は出来ない。
楽殿も普段は引き戸が閉じられ祭礼時の賑わいを感じさせない、駅近くにありながら静かさが漂う境内です。

赤い絨毯の先の四つの境内社

 正面が稲荷社で祭神は稲荷大神、右の神明造の相殿には左に豊受皇大神、右に天照皇大神が祀られています。
稲荷社の左の上命婦社、祭神は上之命婦、その左が下命婦社で下之命婦を祀ります。

境内社右から四社の眺め。
 2015年(平成27)に手を掛けられただけに、稲荷社始め何れの社も綺麗な状態で、鮮やかな朱塗りは鏡の様に輝いていた。
この稲荷社と東寺は空海に纏わる言い伝えも残る。

駅からほど近く、本来の静かな京都を感じられる場所かも知れない。
 ここから僅かばかり西に歩けばそこは東寺、こんなに落ち着いて参拝や写真に収めるのは難しいのかも。

伏見稲荷大社御旅所
創建 / 不明、天正年間(1573~1592)遷座
所在地 / ​京都府京都市南区西九条池ノ内町98
境内社 / 稲荷社、神明造の相殿、上命婦社、下命婦
参拝日 / 2022/11/24
JR京都駅から目的地まで / ​徒歩10分程
関連記事 / ​

owari-nagoya55.hatenablog.com

owari-nagoya55.hatenablog.com

​、