五条橋袂の屋根神さま

名古屋市西区那古野1
  堀川に架かる五条橋を西に渡ると正面に円頓寺商店街のアーケードが現れます。

ここは円頓寺商店街の東にあたり、ここから西に向けアーケードが続いています。
 清州越しに伴い掘削された堀川、水運の要衝となり、美濃路を行き交う旅人や清州から移転した寺社の門前町として発展してきた通り。

五条橋。
 堀川に架かり、円頓寺商店街の東に位置します。
今から約400年程前、家康により名古屋城築城に伴い、それまで政治の中心となっていた清州城から名古屋城に機能を移す清州越しが行われ、清州城下の人や物、寺社、商店、町名など一斉に移転されました。
名古屋城下を形成する中心的存在になったのが人の手で掘削された堀川です。

堀川に架かるこの五条橋も清州越しに伴い、清州城の西を流れる五条川に架けられていたのを移転したもので、五条橋の名の由来はそこから来ています。
 堀川が完成し最初に架けられた橋が五条橋です。
現在見る橋は鉄筋コンクリート製のもので昭和13年(1938)に建替えられたものです。
 当時、こうした技術があろうはずもなく木造の橋でしたが、幾度か補修を繰り返し昭和の時代まで使われていました。
架け替えはオリジナルのデザインを意識したものだと云います。

橋の袂には昭和の頃の五条橋の姿や江戸時代に水運で栄えていた当時の光景が掲げられています。
 水運が栄えると両岸には荷下ろしの為の石畳や荷を保管する蔵が立ち並び、人が集まると町屋も広がっていきます。

五条橋右岸の親柱の脇に流麗な曲線を描く山型造りの社は地に下りた屋根神様。
 人が集まり長屋が連なる堀川沿いは一度災いが起れば他人事では済みません。
元禄13年(1700)に起きた大火では1640軒余りの町屋を焼失、当時の尾張藩主の徳川吉通は、こうした被害拡大を抑えるため、堀川沿いの商家が連なる通りの道幅を4間(約7㍍)に拡張させました。
 現在の四間道と呼ばれる通りの名の語源といわれます。

そうした過去の経験もあり、災い除けの拠りどころとなる神社は必然的に祀られていきます。
 普段の社は扉が閉ざされていますが、祭礼時にはこの扉が開かれるのでしょう。
五条橋を渡る機会はあっても、扉の開いている姿は見た事はありませんが、恐らくは津島神社秋葉神社熱田神宮の三社が祀られているでしょう。

扉が開かれる祭礼は恐らく、正月や毎月1・15日の月次祭、その際は中に祀られている三社の提灯が吊るされている事でしょう
 こうした屋根神様の起源は定かではなく、堀川の歴史と共にあるのかもしれません。
主に明治、大正に祀られたものが多いようですが、昭和に入り、戦災やその後の家屋の建替を契機に数を減らしていったようです。

五条橋親柱の擬宝珠、慶長7年(1602)と刻まれています。
 現在の擬宝珠はレプリカでオリジナルは名古屋城で見ることが出来ます。 
堀川の開削が慶長15年(1610)とされます、この橋はその8年前に清須の五条川に架けられていた証でもあります。

五条橋から名古屋城方向の堀川の眺め、名古屋の街づくりに文化に大きな役割を果たしてきた堀川、現在の工事が終われば本来の姿を取り戻す。

五条橋袂の屋根神さま
創建 / 不明
祭神 / 不明
祭礼 / 正月、毎月1・15日 
所在地 / ​名古屋市西区那古野1-1
参拝日 / 2022/12/08
関連記事 / 中村家と屋根神様 - owari-oyajiの放浪記四間道の屋根神さま #2 - owari-oyajiの放浪記四間道の屋根神さまと子守地蔵尊 - owari-oyajiの放浪記

「中橋の袂で佇む屋根神さま」名古屋市西区那古野 - owari-oyajiの放浪記