熱田神宮境外末社『南楠社』と『村社笹宮』 名古屋市熱田区伝馬1

なかなか節目がつかない熱田区宮の渡し周辺です

焙烙地蔵​から旧東海道を東に歩き、ひと筋目を右に曲がり少し歩くと交差点の左に杜が見えます
そこに熱田神宮境外末社『南楠社』と『村社笹宮』が鎮座します

f:id:owari-nagoya55:20190915080352j:plain

歩道に設けられたこの案内が目に入ると、ついつい先を目指す事になります
どこかで見切りをつける意思が無いと一日あっても足りない

f:id:owari-nagoya55:20190915080421j:plain

『南楠社』と『笹宮』を南から見た全景
古い区割りの住宅街に残る杜はそこを目指す者にとってはありがたい目標にもなります
グーグル先生も無かった時代、昔の人はこうした目標物で進むべき方向を定めていたのでしょう

f:id:owari-nagoya55:20190915080445j:plain

玉垣はないので、小振りの神明鳥居と杜がある事で神社と知る事になるのかも
鳥居は南に向いて建てられ、北向きに広がる境内は東西に長いものです

f:id:owari-nagoya55:20190915080529j:plain

鳥居右の笹宮社号標、1916年(大正5)と刻まれてます
境内は4社あり、東西に並び全てが南を向いて祀られています
鳥居の先には小さいけれど随分と貫禄のある狛犬が一対

f:id:owari-nagoya55:20190915080556j:plain

 阿形はとても大きく口を広げているように見えます

f:id:owari-nagoya55:20190915080619j:plain

小さいながら精一杯口を開けているワイと思ったけれど、近くによって良く見れば、鼻から上あごにかけて欠損しているようです
恐らくは戦災によるものかもしれませんがその姿は痛々しいものです

f:id:owari-nagoya55:20190915080645j:plain

参道右の手水鉢、元号は読み取れません

f:id:owari-nagoya55:20190915080708j:plain

参道は右に折れ三つの社に続きます

f:id:owari-nagoya55:20190915080739j:plain

左の小さな社、表札もないので笹社境内祭神の案内書きのまま記載します
それよれば、この社は熱田神宮南新宮社末社素戔嗚尊を祀る「天王社」

f:id:owari-nagoya55:20190915080805j:plain

 中央が遠州秋葉社末社の「秋葉社」軻具突智神を祀ります

f:id:owari-nagoya55:20190915080831j:plain

三つ並ぶ社の右端が天宇受賣命を祀る「笹社」

f:id:owari-nagoya55:20190915080900j:plain

 冒頭境内の4社と書いたけれど、3社から少し離れた右端に熱田神宮境外末社「南楠社」が祀られています
こちらは南側の道路から直接参道に入る事ができます

f:id:owari-nagoya55:20190915080932j:plain

道路から参道に入った左に手水鉢

f:id:owari-nagoya55:20190915081000j:plain

 南楠社正面全景
熱田神宮に奉納される神剣(草薙剣)を奉納された宮簀媛命が楠の木の下で御休憩された事より神木としてここに祀る」とある
休憩したと言われる御神木の楠木は現在は残っていない様です

f:id:owari-nagoya55:20190915081024j:plain

f:id:owari-nagoya55:20190915081050j:plain

神社西角に掲げられた祭神の解説板(上)
中村宗十郎出生地の案内板(下)
本名は藤井重兵衛、1835年(天保6)尾張国熱田富江町(現在の伝馬1)で生まれ
17歳の時、田舎回りの旅役者嵐亀太郎に入門、実力が認められて、やがて明治期の京阪劇壇の重鎮にまで出世した立志伝中の名優、写実的な芸風と和実を得意とし、立役の他、敵役、女形、老役を演じた
劇界の慣習の近代化に尽力、明治1889年(明治22)に没

歌舞伎は全く見たことないけれど、この地から市川団十郎と同等の待遇を受ける歌舞伎役者がいた事を笹宮を訪れ教えてもらう事になりました

『南楠社』と『村社笹宮』
創建 / 不明
住所 / 名古屋市熱田区伝馬1丁目8-2
アクセス ​市営地下鉄名城線「伝馬町」下車、焙烙地蔵経由徒歩10分程