小牧市北外山 「城嶋稲荷と北外山砦址」

以前掲載した「外山神社」。
そこから10分程北に「城嶋稲荷」が鎮座する。
以前は田畑が広がっていた一帯も宅地化・区画整理が進み、今やそんな面影はなくなってきた。
城嶋稲荷に辿り着くための大きな目標は「小牧市南部コミュニケーションセンター」を目標にするといいかもしれない。センター北側の通りから一本北筋の住宅街の一角に「城嶋稲荷」は鎮座します。

f:id:owari-nagoya55:20210120182157j:plainこの筋沿いを西に進むと右側に稲荷がありますが、社地は少し中にあるので赤い稲荷の鳥居を目標にしても見通しは利きません。

f:id:owari-nagoya55:20210120182218j:plain道路沿いに防火水槽があり、その奥に赤い鳥居と幟の建つ小さな「城嶋稲荷」があります。
右手のごみ収集ステーションの横から境内に向かいます。

f:id:owari-nagoya55:20210120182236j:plain社地の前に「北外山城(砦)址」の解説板。
そこには
「北外山砦天正十二年(1584)の「小牧・長久手の合戦」で廃城となっていた織田興四郎の居城を利用して築かれた砦で本多忠勝松平家忠らが守った。
東西49㍍、南北36㍍の広さで、四方に高さ1.8㍍の土塁があったと伝わる。
現在では「城島」「城前」というこの辺りの小字名が城跡の名残を留めている。
ここにある「北外山城址」の碑は、ここから50㍍北側の民家敷地内から移設したものである。
平成二十五年三月 小牧市教育委員会」 とある。

境内に城址碑があるようです。
織田興四郎
岩倉城を本拠とした織田伊勢守家の一族とされ、清州城を拠点とした織田大和守家に威勢を示し、後に信長により伊勢守家は滅ぼされることになるようですが、織田興四郎の人物像はよく分からない。
北外山城もそれに伴い廃城の道を辿っていったのでしょう、それも小牧・長久手の合戦で織田・徳川勢の本陣小牧城を中心とした戦略拠点として整備され、秀吉と対峙したようですが合戦以降再び荒廃していったようです。小牧城の南にあたるこの一帯には蟹清水砦や宇田津砦、城址など点在しますが多くは碑のみです。

f:id:owari-nagoya55:20210120182257j:plain境内全景。
左手に板宮造りの社、手前に石の社だろうか、その他複数の石碑があるけれど、どれが城址碑なのかはここからでは分かりません。

f:id:owari-nagoya55:20210120182317j:plain雲はあるものの青い空を背景に鳥居と額の朱が映える。

f:id:owari-nagoya55:20210120182335j:plain正面に城嶋稲荷の社と左は社ではなく観音様が彫られているようだ。
鳥居前には「子孫繁栄祈願」「家内安全祈願」と書かれた奉納幟が立ち、地元のお稲荷さんの雰囲気が漂う。

f:id:owari-nagoya55:20210120182357j:plain自然石の台座の上に祀られる社、その前には小さな狛狐も安置されている。
左の観音像の石仏は右に神社仏閣、左に谷汲山と刻まれています。
西国三十三所観音霊場の結願・満願の地、華厳寺に関連して祀られているのだろうか。

f:id:owari-nagoya55:20210120182414j:plain左の石標が「北外山城址
碑のみ移設されてきたものなので、この場所で遺構や面影を見る事は出来ません。

境内北側にも石碑があり、一つは小川芳次郎顕彰碑と稲荷移設記念碑があり、移設記念碑の裏には「平成24年12月」とある。城址碑同様こちらの城嶋稲荷も同じ時期に周辺から遷座されてきたようですが、残念ながら城嶋稲荷の由緒を伝えるものは見当たらず、元の鎮座地ははっきりしませんでした。
周囲の環境変化を考えれば移転や集約も自然の流れでしょうが、こうして纏められた一画が邪魔もの扱いされないといいのだが。
2021/1/19

「城嶋稲荷と北外山砦址」
城嶋稲荷
祭神・創建 / 不明、2012年近隣から移設

北外山城(砦)跡
状況 / 近隣から碑のみ移設
築城主 / 織田与四郎
築城年・廃城年 / 不明

住所 / 小牧市北外山1142
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