桜天神社 (名古屋市中区錦3)

既に掲載した朝日神社が鎮座する広小路通りを西に進み、広小路七間町交差点で右に折れ、桜通りを目指します。
桜通りを左に折れて2分程先の桜通り沿いに桜天神社は鎮座します。

9月に入り、空は秋の訪れを告げはじめ、少しは暑さも和らいだだろうと出かけてみたものの、なにが〃
風が通らないビル群では日陰を探しながらの移動となる。

桜天神社全景。
合格祈願で知られる名古屋三大天神(山田天満宮、上野天満宮)の一つで、誰しも一度は訪れた事はあるだろう神社だと思います。
社名の桜天神社は桜通りの名前の由来となるほどの歴史を持つ神社です。

上は尾張名所図会(江戸時代末期から明治にかけて刊行)の挿絵に描かれている桜天神社。
描かれた当時は桜天満宮と呼ばれていたようです。
始まりは信長の父織田信秀に遡り、道真を深く信仰した信秀は京都の北野天満宮から道真の神像を勧進那古野城中に祠を祀った事に始まり、天文7年(1538)に現在の地に遷座したもので、境内には桜の大木があったと伝わる、県内では最も由緒のある天神社とされます。
挿絵の社殿配置と現在の配置では随分と違っているようです。

天満宮社頭全景。
社頭は北側の桜通りに面していますが、本殿は参道先で右に折れた先に東向きに鎮座しています。
社頭のある北側以外の東・西・南側は全てビルに囲まれているので、境内は風の通りは今一つで陽射しも遮られる環境にあります、ある意味日陰を求めて逃げ込むにはいい環境かも知れない。
社頭は左に時分鐘のレプリカ、中央に「桜天神社」の社標、参道の先に朱の明神鳥居、その先の神楽殿を望む。

時分鐘解説。
「万治4年(1661)3月藩命によりここに鐘楼を造り昼・夜12時に鐘をついて時を知らせた。
鐘に鍋屋町水野太郎左衛門藤原則重の作であった。
しかし宝暦13年(1763)の火災で焼失。
翌、明和元年(1764)藤原孝政により鐘は新調され時を知らせた。
この鐘は特に音色がよく、名古屋城下に鳴り響いたが明治6年(1873)に廃止された」
先の挿絵にも優に社殿の高さを凌ぐ袴腰の大きな鐘楼が描かれ、城下に時を知らせていた様子が見てと取れます。

鳥居から境内の眺め。
鳥居の先には一対の狛犬が守護しており、参道左に二つの手水舎、筆塚がある。

鳥居扁額は「天満宮」。

桜天神社由緒。
「桜天神社由緒
祭神菅原道真
例大祭 3月25日、9月25日
織田信秀(信長の父)は菅原道真を深く信仰し、京都の北野天満宮より、公の神像を勧進して那古野城中に祠を祀った。
これを天文7年(1538)現在の地に移した。
愛知県下で最も由緒のある天神社で元治、宝暦年間、昭和20年3月の大空襲など三度の戦火にも御神体は氏子により守られ現在も祀られている。
祭神菅原道真公は代々文章博士を務める家に生まれ、10歳にして全ての学問を修め、特に書道では弘法大師小野道風菅原道真の三人は書道の三聖と云われた事から学問の神様として崇敬されてきた。
市博物館に所蔵されている「名古屋名所図絵 尾張名所断扇絵」には桜天神社祭礼(3月・9月)の植木市のの賑わいの様子が描かれ、昭和初期までの繁栄ぶりが偲ばれる。
現在春秋の大祭には献書会が開かれ学業向上、入試合格祈願の参拝者が多い」

鳥居の陰に隠れるように佇む小型の狛犬
寄進年は明治31年(1898)、阿形の体に残る割れは先の大戦の空襲によるものだろうか。

参道左の神社敬称の由来と社碑。
織田信秀が天文7年(1538)京都北野より、菅原道真公の木像を迎えこの地に遷座しお祀りした。
この境内には桜の大樹あり「桜天満宮」といい多くの人に親しまれて来たが、明治維新神仏分離令の折り「菅原神社」と敬称し明治35年(1902)菅原公千年祭を記念して「菅原神社」の社碑を建立した。
「桜天神」と敬称し崇敬されている」

参道左の手水舎。
左に「願の水の牛」の解説。
「京都北野天満宮参拝した人の言い伝えによると、この牛に自分の歳の数だけ柄杓で水をかける願いが叶うと云われました。
またこの水で字を書くと上手に書けるとも云われています。
戦後に柄杓の裏に願い事を書く様になり、それを見た参拝者の人達から柄杓を授与して欲しいと求める声が多くなり当社でも授与するようになりました。
歳の数え方
当社では水の掛け方にも決まりがあり、10歳まではその歳の数だけ、10歳以上は10年を1歳と数えこれを加えます。
(例)5歳は5杯、15歳は6杯」

…とある、自分だと…〇杯かぁ、結構大変だぞ。

右隣りは天神井戸。
これも同じ作法だろうか、今日は井戸もお休みのようだ。
注ぎ口は鷽(うそ)の形をしており、鷽は菅原道真が謂れのない罪で流罪となり、太宰府へ向かう海上で遭難した際に、鷽が船の舳先にとまり先導し命を救ったと云われ、天神さまと鷽は縁のある鳥で天神社では鷽替え神事も行われ、桜天神社では珍しい土製のうそが手に入る。

伏せ牛の手前は筆塚。
紙にすらなかなか上手く書けないがこの碑に刻まれた文字の達筆な事。

正面神楽殿と手前の撫で牛。
楽殿は入母屋銅葺屋根の妻入りで大きな梅鉢の紋が印象的。

楽殿の額…読めない。

楽殿から参道は右に折れ、正面に拝殿と左に境内社があります。
拝殿は平入の入母屋造りで一間の向拝が付くもの。
この奥にあるであろう本殿は全く見ることが出来ない。

鈴を鳴らすと妙に反響して聞こえるのは気のせいか?
賽銭投入、参拝。
拝殿額は「桜天神社」

拝殿扉には木目の綺麗な梅鉢紋が彫られています。

拝殿左の境内社は銅板葺の流造。

祭神は蛭子社、大黒社、少彦名社、秋葉社猿田彦社、金刀比羅社、白太夫社の7社相殿。

桜天神社境内から桜通りの眺め。
往古のこの辺りは萬松寺の境内だったとされ、桜天神社はその鎮守として置かれたようですが、名古屋城築城(1610)に伴い萬松寺は大須に移され、桜天神社だけがここに残されたとされます。

いま門前にある時分鐘、レプリカとはいえ昔ながらに時を告げる魔改造を施して見てはどうだろう。
国内・海外を見ても古い町にはシンボリックな時を知らせるツールが見受けられます。
喧騒に溢れた殺風景な街中に辰鼓楼のような存在がひとつくらいあってもいい気がする。

桜天神社
創建 / 天文7年(1538)那古野城下から遷座
祭神 / 管原道真
境内社 / 蛭子社、大黒社、少彦名社、秋葉社猿田彦社、金刀比羅社、白太夫社の7社相殿
参拝日 / 2023/09/01
所在地 / 名古屋市中区錦2-4-6 
公共交通機関アクセス / 地下鉄桜通り線丸の内駅下車 ​桜通りを東に2~3分程​​
朝日神社から桜天神社 / ​北へ徒歩10分程
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