仙波東照宮の拝殿右から女坂を下ると、そこは小さな池と朱塗りの小さな太鼓橋が見えてきます。
この太鼓橋は八ツ橋と呼ばれ、池の中央の小島に架けられています。
そこに小さな社が祀られ、この一帯は仙波東照宮の葵庭園と呼ぶそうです。
小島には朱の明神鳥居が建てられ、その先に鎮座する社はいかにもの佇まいの弁財天厳島神社。
大正6年出版の三芳野名勝図会に目を通すが創建時期については書かれていなかった。
また、「喜多院東南にあり龍池弁天と云われ、龍神が棲み弁財天女と崇め、竹生島弁財天を模し祀る」とあった、これはここから東南に15分程の龍池弁財天を指しているようです。
この葵庭園では、平成15年から毎年6月末に蛍の鑑賞会が催されるという。
源氏か平家なのか記されていませんが、餌となるカワニナ(貝)が自生しているのだろう。
この庭園が蛍の自生地となる事を目指し環境維持活動が行われているようです。
ここから左を見上げると、そこには方形で瓦葺の建物が見えてきます。
隣接する喜多院の慈眼堂で、なんの境界もなく喜多院境内に入ってしまいます。
葵庭園から緩やかな坂を上れば喜多院境内。
右手に鐘楼門が現れます。
入母屋瓦葺で袴腰が施された二層の門で、扉と上層は朱塗りで、上層中央の火頭窓と左右の間に施された彫に視線が行く。
いきなり裏側、正面から山門を目指しがてら鐘楼門をひと回り。
裏側左の間の花鳥の彫物。
同じく右の間の彫物、鶏は鷹か?花は何だろう梅かなぁ。
鐘楼門妻側。
鐘楼門正面。
手前の透塀は右手で途切れていますが、往古は山門まで連なっていたのでは。
左の間の雲龍。
右の間の龍。
寛永十五年(1638)の大火では、鐘楼門は焼け残ったとも云われ、造営時期は定かではないようですが、全体的に脱色はありますが大きな傷みは見られず、現在まで幾度か保存修理が行われているようです。
番所(県指定建造物)。
目的はその字が示す通り。
天保12年(1841)の喜多院境内図では、番所の位置は山門より境内後方に描かれており、山門に接するような現在の配置は、その後の改修によりこの形になったようです。
山門、番所の解説。
太子堂の創建は、弘化4年(1847)に末寺の混合院境内に創建されたと伝わり、明治以後混合院廃寺にともない日枝神社に移築、明治42年に喜多院多宝塔建立地に移築さたが、昭和47年現在の場所に六角太子堂として再興されたもの。
太子堂後方は市指定史跡五百羅漢。
喜多院の五百羅漢は日本三大五百羅漢(栃木県徳蔵寺、神奈川県建長寺)の一つに数えられ、天明2年(1782)から文政8年(1825)の長きにわたり建立されたものと云います。
写真の中央の釈迦如来、脇侍の文殊・普腎の両菩薩含め538体が鎮座しています。
有料拝観になりますが、人生そのものを思わせる様々な表情の羅漢像が見られます。
慈恵堂
「県指定有形文化財
慈恵堂は、比叡山延暦寺第18代座主の慈恵大師良源(元三大師)をまつる堂宇です。
大師堂として親しまれ、潮音殿とも呼びます。
天井に描かれた数々の家紋は、その際に寄進をされた壇信徒のものです。
喜多院の本堂である慈恵堂(大師堂)のことを「潮音殿」とも呼びます。
お参りする時に少し上を見上げると、「潮音殿」の額がかかっています。
それは昔、広くて静かなお堂の中に入り正座し、耳を澄ませていると、なんと不思議なことにザザザー、ザザザーと、まるで潮の満ち引きのような音が聞こえてきたのだといいます。
それを仙芳仙人というお坊さんがお寺を建てるために海の主である竜神にお願いして陸地にしてもらったというお話も伝わっています。
喜多院のすぐ近くの小仙波3丁目には「小仙波貝塚」(市指定史跡)もあり、近くまで海水が来ていたことが分かっています。」
尚、上にある正安2年(1300)に造られた銅鐘について三芳野名勝図会には「背仙波下之深田之内より引き上げられ、鳩井郷(現鳩ケ谷)の筥崎八幡宮の鐘也とある。」
慈恵堂の額と紐のない鰐口。
慈恵堂から多宝塔と手前の手水舎の眺め。
手水舎龍口。
鉢に立てられた剣に2頭の龍が絡み合いながら清水を注ぐ姿のもの。
慈眼堂。
境内左の古墳のような盛り上がりの上に鎮座する方形の建物で後方には歴代住職の墓基が並ぶ。
斜め左から見る慈眼堂と歴代住職の墓基。
慈眼堂内に安置されている天海僧正の木像。
慈眼堂や歴代住職の墓基が建つ小高い盛り上がりは古墳で、仙波古墳群の一つ慈眼堂古墳と呼ばれる前方後円墳。
現在見る姿からは前方後円墳の面影は感じられず、若干高い墓基側が後円部なんだろうか、それとも慈眼堂側が後円部なのか定かではない。
どちらにせよ、喜多院の長い歴史と伽藍の移り変わりにより、古墳の姿も変わっていったのだろう。
多宝塔は、寛永16年(1639)に、山門と日枝神社の間にあった古墳の上に建立されました。
その後、老朽化が進んだため、明治43年(1910)に慈恵堂と庫裏玄関との渡り廊下中央部分に移築されました。
多宝塔解説から抜粋。
「この多宝塔は元々山門前の現在白山権現とその先の日枝神社の間に建てられていた。
道路新設に伴い慈恵堂脇に移築され、復元のため解体され現在地に移築、昭和50年に完成したもの。」
多宝塔下層から相輪を見上げる。
慈恵堂脇に一旦は建てられながら復元を迫られるほどの塔とは、どんな姿をしていたのか気になる。
復元を終えた塔は朱も鮮やかで青い空を背景に浮き立っていた。
慈恵堂右手の覆屋は大黒堂、小江戸川越七福神の大黒天が祀られていました。
大黒堂脇の客殿・書院・庫裏の解説。
慈恵堂側面の眺め。
右に廻廊が付けられ客殿・書院・庫裏に繋がっています、これらは川越大火で焼失した伽藍を復旧する為、徳川家光が江戸城から移築したもので、いずれも国指定重要文化財のもの、拝観券が必要です。
使者の間から紅葉庭園内の鮮やな曼殊沙華が印象に残った。