『白山権現、仙波日枝神社』(川越市小仙波町)

川越大師 喜多院の参拝を終え、山門を出てすぐ左側に一本の大きなもみじの樹があります。
そこに石の明神鳥居と天海大僧正(慈眼大師)の銅像が立てられています。

訪れた時には鳥居前の緑濃いもみじも、今頃は赤く染まり始めているかもしれない。

右手の天海大僧正(慈眼大師)の概説は以下
喜多院第27世住職であり、会津高田(現 福島県会津美里町)出身。
江戸時代初期、喜多院を復興しました。
将軍徳川家康公の信頼あつく、宗教政策の顧問的存在として助言を行い、将軍も度々、川越城または喜多院を訪れています。
108歳遷化後、朝廷より「慈眼大師」の称号を賜る」

白山権現全景。

大きな石の額には「白山権現」とあり、その先に見世棚造の社がある。
紅葉のピークを迎えれば、真赤に染まったもみじに包まれた温かみのある姿を見せてくれるだろう。

喜多院の山門横に鎮座していますが、立ち止まって参拝されていく参拝客が意外に少ない。
目の前に喜多院の山門があるので気持ちはそちらに行ってしまうのだろうが、さり気無く鎮座する白山権現ですが、創建は喜多院創建と同時期の平安時代に遡る。
白山権現は明治政府の神仏分離廃仏毀釈により、修験道に基づいた白山権現は廃されます。
白山三馬場もそれにともない、加賀国の白山寺白山本宮は廃寺、白山比咩神社に改められ、越前国の平泉寺も廃寺、平泉寺白山神社に改められ、美濃国の白山中宮長滝寺は長滝白山神社天台宗の長瀧寺に分離されした。
白山三馬場は何れも訪れていますが、特に平泉寺白山神社神仏分離廃仏毀釈により翻弄された痕跡が残り印象的だった。
それまで白山権現を称した多くが菊理媛神を祭神とする「白山社」や「白山神社」など神社に改められました。
鳥居の白山大権現の額が大きいのにもなにか意味有り気でもある。

鳥居脇の解説を下に記載します。
白山権現
天長7年(830)慈覚大師円仁が喜多院を創健された時に、天台宗修験道霊場である白山より、守護神として白山の神仏の分霊を祀ったと伝えられています。
右道路の向かい側の日枝神社は、同じく創建時に、天台宗の本山である比叡山麓の日吉大社の神様の分霊を祀った神社です。
天台宗では、神仏習合といい、お寺も日本の神様にお守りいただきながら、神仏ともに礼拝し、人々の幸せをお祈りします。修験道=神様と仏様の両方の力を得る修行方法」

創建 / 天長7年(830)
所在地 / 埼玉県川越市小仙波町1-19-2
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喜多院を訪れた際は、山門前の道路向かいにある日枝神社にも訪れて見たい。

日枝神社

山門から徒歩1分程に鎮座し、石の明神鳥居と参道先の朱塗りの拝殿が印象的。

天海大僧正(慈眼大師)が再興した喜多院の門前に南向きに社頭を構えています。
天長7年(830)、慈覚大師円仁により喜多院創建のおり、鎮守として貞観2年(860)に近江坂本(滋賀県大津市)に鎮座する平安京の鬼門封じの日吉社(現 日吉大社)を勧請したものといわれ、東京赤坂に鎮座する日枝神社の本社にあたる。

社頭の手水舎。
鉢の寄進年を見忘れましたが、木造の手水舎は控柱が付くもので意外に新しく感じる。

日枝神社は小仙波の町、喜多院の山門前に鎮座します。
慶長17年喜多院に広大な境内と五百石の寺領を下し、日枝神社も二石が与えられ、喜多院境内に含まれていました。
当時、喜多院が社務を務めていた頃は日吉山王社と号し、寺領小仙波村の鎮守として村人から崇敬されていた。
寛永一五年の川越大火で喜多院は鐘楼門、山門を残し焼失したとされますが、日枝神社が被災したか否かは不明のようです。
その後の大正13年(1924)に県道工事に伴い、現在の地にあった仙波古墳群のひとつを掘削し社地として遷座したもので、神社施設が新しく見えるのもそうしたことがあるのかもしれません。

拝殿。

入母屋銅葺屋根で朱塗りの拝殿とされ、宝暦一四年(1764)の再建とされる。

拝殿右の玉垣で囲われた一画は、昔の井戸跡で不思議な言い伝えが残ると云う。
この井戸は底が見えず、井戸に物を投げ込んでも一向に物音はせず、人々から「底なしの穴」と呼ばれていたそうです。
ある時不思議な事に井戸に投げ込んだ物が近くの龍の池弁天を祀る双子池の水面に浮かび上がったと云われます。
実に不思議な話、地下で双子池と繋がっていたとして、音も聞こえない深い井戸が機能したのか…夢のないことを思ったりする。

拝殿横の解説。
日枝神社本殿 付宮殿 一棟(国指定重要文化財建造物)
日枝神社は、慈覚大師円仁が無量寿寺(中院・喜多院)を中興する際に、近江国坂本(滋賀県大津市) 日吉社 日吉大社)を勧請したといいます。
本殿は朱塗の三間社流造で、銅板葺の屋根に千木、鰹木を飾ります。
三間社としては規模が小さく、架構も簡素です。
見舎の組物は出三斗ですが、背面中央の柱二本は頭貫の上まで延び、組物は大斗肘木になっています。
中備は置きません。
妻飾は虹梁大瓶束であっさりとしています。
縁を正面だけにもうけ、側面と背面にはまわさず、正面縁の両端のおさまりは縁板を切り落としただけの中途半端なもので、高欄や脇障子をもうけないため簡易な建築に見えます。
庇は切面取の角柱を虹梁型頭貫でつないで両端に木鼻を付け、連三斗・出三斗を組んで中央間だけに中備蟇股を飾ります。
ただし、この蟇股は弘化四年(1847)頃、修理工事の折に追加されたものといいます。
身舎と庇のつなぎは、両端通りに繋虹梁を架け、中の二通りに手挟を置きます。
本殿の建立年代について、それを明確にする史料はありませんが、構造の主要部分は近世初頭の技法によりながら、装飾意匠の一部に室町時代末期頃の様式をとどめ、また、中央の保守的伝統的な技法によらない地方的な技法も見うけられます。
虹梁に絵様をほどこさず袖切・弓眉だけとする点、庇木鼻の形状と正門に近い渦の絵様、実肘木の絵様、手挟のおおまかな斂形、などは室町末期の様式です。
また、正面の緑のおさまり、大棟上に飾棟木をもうけず直接千木・鰹木を載せる点、背面の粗物だけを大斗肘木とする点、組物の枠肘木と実肘木が同じ断面寸法でかつ背と幅が同一な点、巻斗の配置が六支掛の垂木配置と関係なく決定されている点、などは地方的技法といえます。
とくに枠肘木・実肘木の断面寸法、垂木割にかかわらない巻斗の配置は珍しく、幕府作事方に収斂される中央の木割法とは異なる設計システムが存在したことを推測させます。
喜多院は慶長十七年(1612)頃に再興されており、 日枝神社本殿もその一環として造営された可能性もありますが、それ以前に地方工匠の手によって建造された可能性も残されています。」
詳細に記され初めて訪れた者にはありがたい。

仙波日枝神社の鎮座地の西側はこんもりとした盛り土があり、いかにも古墳らしさが残っています。

仙波古墳群の一つで、約1500年前の仙波日枝神社古墳で前方後円墳だった云われます。
社地の西側の歩道から見上げると日枝神社本殿が隠れてしまう程の高さが残っており、西側が後円部だったのかと思わせる。

墳丘の東側は低く削られ、本殿を取り囲む玉垣沿いに見て廻れる。
造りは解説の通り、縦切りカット(外削ぎ)の載せ千木に4本の鰹木が飾られています。
三間の間の中央に室町時代に作られた厨子が安置され、中に日枝山王権現像が納められていると云う。

綺麗な曲線を描く本殿の屋根。細かな意匠を避けたシンプルな姿です。

北側道路から見る社殿。

東角から眺める社殿。
目立った傷みもなく鮮やかな朱色が印象に残る、古墳の上に鎮座する仙波日枝神社です。

仙波日枝神社
創建 / 貞観2年(860)
祭神 / 大山咋命
所在地 / 埼玉県川越市小仙波町1-4-1
喜多院山門から東へ / ​徒歩1~2分
参拝日 / 2023/09/25
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