『川越氷川神社』(川越市宮下町)

川越氷川神社

氷川神社表参道。

瘡守社から北に向かい20分程、三叉路の突き当りに社頭がある。

氷川神社への入口は写真の石鳥居を構えたここと、社頭から右に向かうと左に大鳥居を構えた広い参道、そして社地北側を流れる新河岸川沿いの脇参道の三か所があります。

宮下町日本武尊山車庫。
三叉路の手前にあり、川越氷川祭の山車行事で曳航される川越市登録歴史文化伝承山車「日本武尊の山車」を保管しています。
川越氷川祭は、慶安5年(1648)に時の城主だった松平信綱が、川越に町をあげた祭礼がない事から祭具を寄進し、江戸の天下祭り様式に則った神幸祭を奨めたこともあり、元禄11年(1698)初めて踊屋台が出たのをきっかけに300年を越えた現在に受け継がれ、川越の蔵造りの残る町並みを煌びやかな山車が曳行される。
こうした山車は川越には29台受け継がれているようで、有形民俗文化財や歴史文化伝承山車に指定されているようです。
2016年には「川越氷川祭の山車行事」として、ユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台行事」に登録されたそうだ。

普段はシャッターが下ろされ、見る事は出来なかったが、10月第3土・日にはその姿が見られる。

社頭右の風鈴。
7月から9月にかけて川越の夏の風物詩縁結び風鈴廻廊が行われますが、参拝時は既にその時期を過ぎており江戸風鈴が吊るされた廻廊は見られませんでした。

氷川神社社頭全景。

石造靖国鳥居とその先に石造明神鳥居の二つを構えてる川越の総鎮守。
創建は古く、歴代の川越城主からも庇護を受け、川越城下の人々から崇敬されてきた神社で、縁結びや夫婦円満の御利益があるとして今も多くの参拝客で賑わう。

社頭から右手に向かい、朱の大鳥居が聳える参道から境内に向かう。

大鳥居は朱塗りの明神鳥居で、高さは15㍍の木製鳥居。
木製鳥居では国内唯一の規模を持つそうです。

扁額の文字は勝海舟の揮毫とされる。

鳥居をくぐった参道左に小川が流れる庭園があり、注連縄の張られた岩と奥に小さな社が祀られています。
澄んだ細い流れを境に参道脇に庭園が造られています。

戌岩。

「その姿が鼻先を神前に向けた戌(犬)の形をしていることから名付けられた。
犬はお産が軽く多産であることから、古くから安産・子宝を象徴する動物とされます。
今日でも毎月戌の日には祈願に訪れる参拝客が多い。
祈願の作法はこの戌岩の鼻先を撫でるといい。」

想像力の乏しい自分は解説のように見えないことが多い。
この角度から見る岩は、穏やかな表情をし、垂れ耳で頬肉が垂れた大型犬の横顔と健康的な鼻が良く分かる。
二人の子育てを終え、この歳で子宝もないが、鼻先を撫でさせてもらった。
参拝に訪れた若いカップル、どちらかが撫でようもんなら、それは無言のアピールとして捉え、年貢を納める時期と悟った方がいいかもしれない。

戌岩の前の御神水
鉢の底から絶え間なく地下水が湧き出し、苔とシダを育んでいる。
神水は自由に汲み取って持ち帰り、煮沸し飲用してもいいらしい。

水神。
現在は一筋の細い流れですが、往古は御手洗川という小川が流れ、神社脇の上尾街道を通る人々の喉を潤してきたという。
そうした恵みをもたらす水源にはこうした水の神様が祀られます。
蛇口を捻れば飲適の水が出るのは当たり前、電気は自給できても命の水はやすやすとは賄えないだけに、当たり前に感謝する意識はもはやないのかもしれない。
祭神は弥都波能売神(ミヅハノメノカミ)。

境内全景。

右が拝殿でこの左手に二つの鳥居がある、奥は八坂神社。
境内左には授与所と舞殿が主な建物。
 


拝殿右は護国神社

 

明治14年(1881)、川越出身の西南戦争以降の戦没英霊をお祀りするため創建された。

氷川神社拝殿。
入母屋平入の銅葺屋根で現在の拝殿は1874年(明治7)に改築されたもの。

氷川神社境内マップ。
社地は新河岸川の右岸の杜に鎮座し、広い社地の半分が社殿、残りは会館が占めており、意外に境内は狭い。
当日は七五三の御祈祷に訪れた家族連れと大陸から訪れた観光客が多かった。
以下はHPから引用。
「川越氷川神社は今から約1500年前、古墳時代欽明天皇(507~571)二年に創建されたと伝えられています。
室町時代の長禄元年(1457)、太田道真・道灌父子によって川越城が築城されて以来、城下の守護神・藩領の総鎮守として歴代城主により篤く崇敬されました。

江戸時代に入っても歴代の川越藩主から社殿の造営や特別の計らいを受けました。
現在の本殿には緻密な彫刻が施されており、県の重要文化財となっています。
また、昔より縁結びの神様としての信仰を集め、人々のご縁を取り持ってまいりましたのは、お祀りしている五柱の神様(ご祭神)にあります。」
 
お祀りされる五柱は主祭神素盞鳴尊の他、脚摩乳命と手摩乳命の夫婦神様と娘であり、素盞鳴尊の妃神でもある奇稲田姫命、そして、素盞鳴尊奇稲田姫命の子で縁結びの神様として知られる出雲大社大己貴命の五柱の神様。

入母屋銅葺屋根の舞殿。

舞台の正面に一本の老松と左右の脇戸に松と鶴が鮮やかに描かれている。

舞殿左の覆屋は境内社の一つ柿本人麻呂神社。

本殿前の狛犬

御祭神は柿本人麻呂
歌道・学問に優れた柿本人麻呂をお祀りする。
直系の子孫、綾部氏が戦国時代に川越に移住してきたことからお祀りされるようになった。
歌道・学問の神様、安産・火防の神様として古から信仰を集めている。
柿本人麻呂を社名に冠する神社は初めてお目にかかるかもしれない。

拝殿左の八坂神社。
「八坂神社は素盞嗚尊・奇稲田姫命をおまつりする摂社。
毎年7月には例祭・八坂祭が行われ、お神輿が街中を巡行します。
八坂祭では神前にキュウリを2本お供えして1本を持ち帰り、このキュウリを食べると夏負けしないといわれています。
京都の八坂神社の神様で、かつては牛頭天王とよばれ、疫病退散のご神徳があります。」

この社殿は寛永14年(1637)に江戸城二の丸の東照宮として建立されたが、後に空宮となった事を契機に明暦2年(1656)川越城内の三芳野神社の外宮として移築、明治5年(1872)に氷川神社境内に移築されたもの。

拝殿脇の社殿解説。

朱塗りの本殿は内部は見られませんが、外観には東照宮らしさが漂っています。

氷川神社拝殿。
欽明天皇の時代に大宮市の武蔵一宮から勧請されたと伝えられ、江戸時代には川越城下の総鎮守となり、歴代の城主をはじめ城下の人々の厚い信仰を得てきました。
嘉永3年(1850年)に建てられた本殿は、川越まつりの山車の人形を主題にした彫刻がほどこされています。

拝殿左に本殿を周回する参道があり、入口には無数の絵馬が吊るされた絵馬廻廊があります。

馬廻廊を抜けた本殿左側には境内社20社が纏められています。

上は右が琴平神社御嶽神社
下は蛇霊神社。

上は三峯神社
下は右から雷電神社、嶋姫神社、水神社、厳島神社疱瘡神社、子ノ権現社。

上は右から春日神社、稲荷神社、左の石標が小御嶽神社
下は右から八幡神社馬頭観音松尾神社、菅原神社、加太栗島神社、日吉神社、稲荷神社。

本殿。

玉垣で囲われた本殿域には一対の狛犬と銅製燈籠が見える。
本殿は入母屋銅葺屋根の平入で千鳥破風と唐破風向拝が付くもの。
天保13年(1843)に起工し嘉永2年(1849)に竣功したもの。
一見して視線を釘付けにする色彩や意匠は見られないが、当時の名工とされる嶋村源蔵による精密な彫刻が全周に施されておりそれは見事なもの。

氷川神社本殿。
以下はHPより。
「江戸後期に川越城主松平斉典公の寄進と氏子の寄付によって建立されました。
ご本殿には木の良さを生かした江戸彫とよばれる関東特有の精緻な彫刻が全面に施されており、名工嶋村源蔵・飯田岩次郎が7年の歳月をかけて彫りあげたものです。
これらの彫刻はそれぞれ川越氷川祭で繰り出される山車に乗る人形をモチーフにしています。
江戸時代の名工の技が静かに息づくご本殿は県の重要文化財に指定されており、大森貝塚を発見したことでも有名なE.モースも本殿の彫刻を見てその緻密さに驚いたといいます。
また、モースは当社のお札をアメリカに持ち帰り、保存しました。」

全周は透塀に囲われ細部を見る事は難しいですが、虹梁、肘木をはじめ「強度大丈夫か?」と思いたくなる程彫りこまれている。

遮るものなく一間〃じっくりと眺めてみたいところですが、まだ次の予定もあり氷川神社を後にする。

帰りは正参道から手水舎の龍にご挨拶。
平日とはいえ多くの参拝客、縁結びを祈願しに訪れる女性の参拝客が多いのには驚いた。

ニノ鳥居扁額。
黒地の額に金で「川越総鎮守 氷川神社」とある。
ひと昔前に小渕さんが掲げた「平成」の元号を書かれた蜂城河東氏の揮毫によるもの。
正参道から訪れた際にはニノ鳥居を見上げて見ては如何だろう。

川越 氷川神社

創建 / 欽明天皇二年(540)
祭神 / 素盞鳴尊、脚摩乳命、手摩乳命、奇稲田姫命大己貴命
境内社 / 八坂神社、柿本人麻呂神社、護国神社など
所在地 / 川越市宮下町2-11-3
瘡守(カサモリ)社から川越高校方向に北へ / ​​20分程
参拝日 / 2023/9/25

関連記事

一泊二日武藏國一之宮巡り一日目
『浄楽院 光西寺』(川越市小仙波町)
​・『無量寿寺 中院』(川越市小仙波町)
『南院遺跡』(川越市小仙波町)
・​『仙波東照宮』(川越市小仙波町)
『川越大師 喜多院』(川越市小仙波町)
『白山権現、仙波日枝神社』(川越市小仙波町)
『瘡守(カサモリ)社』(川越市久保町)