『瘡守(カサモリ)社』(川越市久保町)

瘡守(カサモリ)社。
喜多院から北に10分程の川越市久保町、県道15号線北側の緩やかな高台の住宅街の一画に鎮座します。
当初は素通りしようと思いましたが、棟の水板の意匠に視線が行き立ち寄ってみた。

県道から一筋上った左角に、東西に長い瘡守(カサモリ)社の社地が見えてきます。
東を向いた社頭に社標はなく、社頭から奥まったところに神明系の靖国鳥居が立つ。

大正12年(1923)健之の石造鳥居から拝殿の眺め。

木造瓦葺の切妻で平入の拝殿。
外観はいかにも生活と密着した集落の神社の佇まいですが、棟瓦ののし瓦と呼ばれる側面に注目すると手の込んだ意匠が施されています。
一般的に棟の瓦はのし瓦が積まれ、その頂に冠瓦が載り、棟の側面はのし瓦の端が見えるもの。
遠目に見ると波と龍らしき姿が描かれた水板のようにも見えます。
水板とは側面を面でカバーする瓦で覆われ、そこには様々なデザインが施されたりします。
個人的に水板は無地のキャンバス、ここは瓦氏の腕の見せ所だと考えている。

近付いてよく見ると水板ではなく、波はのし瓦で青海波をデザインし、そこに龍が施されたもの。

拡大すると、大きく口を開けた白い体の龍が描かれており、鮮やかに彩色された跡も残る。
鱗の細かな部分まで描かれ、今にも動きだしそうな見事なもの。
小さく素朴な拝殿ですが、意匠に拘った棟瓦が瘡守(カサモリ)社の見所かも知れない。

拝殿額は「瘡守社」とある。
神社の由緒書きは置かれていませんが、瘡(かさ)から守ってくれる社名からすると、かつてこの地に流行病が迫ってきた時期があったように窺われる。
人々が恐れた瘡が梅毒だったのか或いは天然痘、それとも他の感染症だったのか川越の地史を調べるしかないが、流行病の正体や治療法も確立しない時代、救いを求めるため創建されたものだろう。
こうした得体の知れぬ病から守っていただく神社は瘡守社に限らず各地で目にすることができる。

過去の事のようになってしまったが、国内にコロナが上陸し誰もが怯え、マスクやアマビエを求め東奔西走した時期もつい最近の事。
ひとたび得体の知れない流行病が蔓延すれば、人々が取る行動は昔も今も変わらない。

こちらの参拝方法は災いから逃れるため、土で作った団子を神社に供え祈願し、心願成就の暁には米の団子を供えお礼をするのが習わしだと云う。
土団子は用意できないが、格子から賽銭を入れ参拝させてもらいました。

覆屋の下に祀られる本殿は6本の鰹木と内削ぎの千木が付く神明造。
本殿前には幾つかの小さな狛狐が安置され、稲荷であることが分かる。
武蔵三芳野名勝図会に目を通すが、瘡守の名は記されておらず、神社庁からも創建や祭神は分からなかった。

詳細は全く分からなかったが、鳥居が寄進された大正時代を始まりと仮定すると、明治から大正の川越を見ていくと病の正体が見えてくるのかも。
或いは歴史のある川越、瘡守社が必要になったのは更に遡るのかも、いずれにせよ訪れた当日は土で作られた団子は供えられていなかった。

境内北側から社殿側面の眺め。

瘡守(カサモリ)社
創建 / 不明
祭神 / 不明

所在地 / 埼玉県川越市久保町4-8
日枝神社から北へ向かい県道15号線を越え一筋目 / ​北へ10分
参拝日 / 2023/9/25
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