下街道の御嶽社 岐阜県瑞浪市

岐阜県瑞浪市土岐町「御嶽神社
 前回掲載した「下街道の不明社 岐阜県瑞浪市」の中で御嶽神社参道は結局🐍が怖くて立ち入れなかった。
後日元善光寺御開帳の際、帰り道に瑞浪を通りかかり再び訪問する事にした。
 今回は松阪町西交差点の北角に建つ不明社の裏から上に続く細い上り坂から向かってみた。

坂を上り切ると左に注連柱があり中は広場になっていたので車はこちらに停めさせていただいた。
 社頭には社標もなく一抹の不安が残るがかみさんに待ってもらい一人で御嶽神社に迎う。

広場から奥に杜の中に向かって参道が続く、右手の常夜灯から参道は右に折れているようだ。
 杜の中に踏み込む事だけは避けられそうだ。

鳥居から境内の全景。
 普段なら参道の先に拝殿が・・・・で書く所だがここは少し様相が違う。
個性的な鳥居の形状に視線が行き見惚れてしまう。
 普通なら柱の上に貫、島木、笠木と乗っていくのだが御嶽神社の鳥居は少し違う。
貫きから飛び出た二本の柱の先端には島木や笠木はなく、山型が乗せられている。
 しかも中央の山型は額束の上に山型が乗せられ、三つの山型が笠木の様に配されている。
しかも一体物ではなさそうで、絶妙のバランスで笠木の形を作っている。
 その形は御嶽神社らしい御山の形を作り出している。

額束には御嶽山とある。
 下街道沿いの鳥居はここに繋がるものだろう。
それにしてもこの額束と山型、どう見ても一体ではない、願掛け石が乗せやすいからと云って安易に乗せるといつかバランスを失うような気にさせる。

境内から見る鳥居。
 表からは樹々に隠れ分からなかったが柱の左右に脇柱を持った三輪鳥居の形状をしている。
笠木の緩やかな曲線が美しく、御嶽山を強くイメージさせる印象的な鳥居だ。

笠木。
三つの山型が並び、御嶽講の山丸三の紋を強く意識した外観。
 こうして斜めから見ても其々単独で乗せられている様にしか見えない、斬新な造りの鳥居。
額束は裏側にも御嶽山とある。
 寄進年度は大正6年(1917年)とある。
建立後100年を経て、この間の自然災害でもこのバランスは崩れていないようだ。
 鳥居ばかりに目が奪われていては先に進めないので先に進もう。

境内左の天徳天神社。
 詳細は分からないが天徳と聞くと自然崇拝色の香りが漂う。

常夜灯後方に手水鉢。

御嶽神社社殿全景。
 入母屋瓦葺妻入りで大きな向拝が付く。
創建・由緒等の情報はなく調べて見たが分からなかった。

拝殿に掲げられた大きな額「御嶽神社
 額には「三河西加茂郡本城村日面 明治36年(1903)講社中」とある。
創建は不明ですが、御嶽講自体江戸後期から大正後期にかけ最も流行ったとも云われます、創建はその時期かもしれません。
 拝殿内を窺うがガラスに景色が映り込み内部の様子は掴めなかった。

拝殿斜景。
 拝所左には「修行道場」の大きな木札が掲げられていました。
ここでふと気が付く、御嶽神社の個人的の印象は岩と多くの霊神碑が立ち並ぶ印象があるけれど、こちらにはそうしたものを目にしない。
 山岳信仰でいう修業は個人的主観で云えば自らの足で御山を訪れ、登拝するイメージが強い。
ここ瑞浪は御山に続く道沿いとなりひょっとすると修験者たちの坊的な位置づけなのか?

 御嶽講は霊峰御嶽を崇敬対象として大きく覚明系と普寛系に分かれている。
この御嶽社がどちらの流れをくむものか定かではないが、人の手に負えない巨大な山の姿と山が育む木や草花、森がもたらす水、雲や風など、そうした事象に人は神や仏の存在を感じるのだろう。

 すべての根源は山に生まれ、山に戻る、そうした自然崇敬の素朴な宗教観なのかもしれない。
山岳民族などそうした宗教観があり、先祖に会いに険しい山に登拝し手を合わせ礼拝する。
 年寄りなど日々朝陽に向かって手を合わせ拝んでいる姿を見た事があると思う、自然に対する素直な畏敬の念の現れなのかもしれない。
山岳信仰もある意味それに似ているような気もする、山が育む自然の一つに人も含まれているのだろう、御嶽神社は忌み嫌う対象ではない事だけは間違いない。

参拝を終え個性的な鳥居をくぐり下を覗いてみる、なんとなく下街道の鳥居に続く踏み跡らしきものはあるがやはり降りる度胸はない、自然の中のパズルの一つおやじ、🐍の傍には入れて欲しくない。
 行き先が分かっただけでもスッキリした、まさかその先で見事な鳥居が待っていたとは、立ち寄って正解だった。

御嶽神社
創建 / 不明
祭神 / 御嶽大権現
境内社 / 天徳天神社
参拝日 / 2022/05/25
所在地 / ​岐阜県瑞浪市土岐町
関連記事 / 「下街道の不明社」岐阜県瑞浪市

「下街道の不明社」岐阜県瑞浪市

以前掲載した一日市場八幡神社から下街道を西に下っていくと街道は県道352号線と出会う。

県道と街道の分岐には「下街道」を示す看板が立てられています。
左に進めば一日市場八幡神社の西参道に至ります。

目の前の県道352号線松阪町交差点沿いの歩道を右に進みます。

県道沿いを少し進むとすぐに写真の松阪町西交差点に至ります。
 下街道はここから県道を外れ交差点北角から一本北側を県道に沿う様に細い道が続きます。
今回はこの交差点角の小さな覆屋と、下街道沿いに鎮座する耳ノ木神社方向で見かけた覆屋の二つを掲載します。
 
まずは交差点北角の覆屋。

最初は空き地と思い気にも留めなかった、近づくにつれ覆屋の存在に気付き立ち寄ってみた。

覆屋全景。
 祠が建つ一画は左に用水が流れ、上手に育てられた野菜が栽培される畑。
おやじが油を売っている間にかみさんがグーグル先生に問いかけ「ここは津島神社」と教えてくれた。

津島神社」とあるが社名札はなく御札も分からない。
 後日、瑞浪市の下街道マップを見ても紹介されておらず、創建など詳細は全く分からなかった。
ここでは不明社としておこう。
 地域から今も崇敬されているようで、御幣のついた注連縄も新しい。
下街道は左の県道から右に別れ、不明社の後方から西に伸び集落の中を続いて行く。
 集落に降りかかる禍をここで見定めている様にも見えなくもない。
思いあって祀られたものながら、通りすがりの者に思いは推し量れない。


不明社
創建 / 不明
祭神 / 不明
境内社 / -----
所在地 / ​​岐阜県瑞浪市土岐町664
参拝日 / 2022/04/30
車アクセス / ​-----

不明社から下街道を進む。
 道は狭くなり下街道は地元の生活道路として生きている。


先に掲載した耳ノ木神社、そこに至る少し手前にも不明社が祀られていた。
 道の右側に建つ小さな赤い屋根の覆い屋がそれです。

赤い屋根の覆い屋の中には社が祀られいた。

 後方に石の明神鳥居があり手前には神橋が架けられている。

赤となれば身近な印象では津島社か天王社のイメージがあるがここは瑞浪、そのイメージも通用しないだろう。

 こちらも先程同様下街道マップに紹介されておらず詳細は分からない、こちらも不明社としておこう。

後方の鳥居。
 社標はなく鳥居から先の参道は荒れ果て、踏み跡もなく立ち入りがたい雰囲気が漂う。

しかし鳥居には注連縄も架けられ人の温もりは感じられる。

鳥居の額には御嶽山とある。
 地図で見るとこの山の頂に御嶽神社がある事からそこに至ると思われます。

鳥居から先の参道は御覧の通り。
 御嶽山への道は厳しそうだ、これ以上進めば🐍と遭遇しそうな予感。

この日はこれ以上立ち入るのは諦めましたが、後日再び瑞浪を通りがかり御嶽神社に立ち寄ってきましたので改めて掲載する事にします。
 この鳥居と手前の不明社が関りがあるのかそれすら分からなかった。

不明社
創建 / 不明
祭神 / 不明
境内社 / -----
所在地 / ​岐阜県瑞浪市寺河戸町
訪問日 / 2022/04/30
車アクセス / ​-----

下は周辺のマップ。
 下街道(緑色)を西に進みJR瑞浪駅方向を目指して歩いています。

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全国一之宮巡り 二泊三日で栃木県 part3

5/10~12
二泊三日で下野國一之宮「日光二荒山神社、宇都宮二荒山神社」を訪れた。
 最終日の三日目は鬼怒川温泉から大谷資料館、宇都宮二荒山神社を巡る。

いつものように目覚めは早い。
 朝風呂に浸かった後に一人ホテルから徒歩10分もかからない距離にある鬼怒川温泉ロープウェイの山麗駅まで散歩。

ホテル西側を南北に伸びる国道121号線を渡れば山麗駅は目の前。
 上は藤原町護国神社、山麗駅に隣接し右に鬼怒川温泉神社も鎮座する。
朝の爽やかな空気に包まれた二社を参拝。

 藤原町護国神社
創建は昭和28年。
 日清・日露・太平洋戦争により亡くなられた地元藤原町の英霊256柱をお祀りする。

鬼怒川温泉神社。
 創建は不明、万病を癒す鬼怒川温泉の効力を神格化し祀られたようだ。
祭神 / 大己貴命(おおあなむちのみこと)、少名彦命(すくなひこのみこと)
 寝ぼけ眼に朝陽を浴びた朱色と新緑が鮮やかに飛び込んでくる。
清々しい一日の始まりだ。
所在地 / 栃木県日光市鬼怒川温泉滝834

鬼怒川温泉ロープウェイ山麗駅。
 標高700㍍の丸山山頂まで約4分で送り届けてくれる。

山頂の展望台から鬼怒川温泉街が一望できるという。
 そろそろ朝食の時間も近い、ホテルに戻ろう。

昨晩もそうだったが朝食も多様な料理を提供してくれるバイキング。
 よく聞くホテルと比較すると質が高くて美味しいもので食べ過ぎ。

眺めの良い露天風呂や内湯などいい一晩を過ごさせてもらった。
 湯は弱アルカリ性単純温泉で無色透明、無味無臭、温泉としては個性がない。
お腹も満たされ8:00チェックアウト。
あさやホテル
所在地 / 栃木県日光市鬼怒川温泉滝813

ホテルから腹ごなしに滝見橋を渡り、対岸にある東武鬼怒川線鬼怒川温泉公園」駅まで歩く。

滝見橋から鬼怒川左岸の廃墟となったホテル群の眺め。
 美しい鬼怒川の流れと新緑に包まれた光景にこの眺めは対照的だ。
高度成長期のイケイケ日本時代とこれからの日本を象徴するモニュメントかもしれない。

鬼怒川温泉周辺マップ。
 過去の慣例となった感のある慰安旅行、社会人となり訪れた頃の宿泊客で賑わう鬼怒川温泉のイメージはなく、寂れた光景ばかりが印象に残る。

ホテルから滝見橋を渡り15分程で鬼怒川公園駅到着。
ここから下今市駅まで移動。​
あさやホテル🚶鬼怒川公園駅
東武鉄道鬼怒川線鬼怒川公園駅👉下今市駅

9:15下今市到着。
レトロな外観で温もりのある色合いの駅舎。
 コンクリートの味気ない質感より遥かに趣があっていいものだ。

ここから旧日光街道沿いの今市追分地蔵に寄り道してJR今市駅へ。

9:30近くともなると歩いていると暑い。
 雨天を想定して来ただけに一枚脱ぎたい陽気となった。

今市追分地蔵
 日光例幣使街道と旧日光街道の分岐に鎮座する今市追分地蔵。
街道と街道の追分にあることから追分地蔵尊と呼ばれ、地元では古くから崇められている。
 3㍍はあろうかと思われる座像の製作年代は不明で室町時代ではないかと推測されるようです。
記録には8代将軍吉宗が日光参拝時には既に祀られていたとされます。 
 ここから次の目的地「大谷資料館」に向かいます。
大谷資料館へは宇都宮方面からのアクセスがいいが、ゴールを宇都宮とするためJRに乗り換えて宇都宮市大谷町の最寄り駅鹿沼駅に向かいそこからタクシーで向かいます。

徒歩 / ​東武鉄道下今市駅🚶追分地蔵尊🚶JR日光線今市駅​​
JR日光線今市駅👉JR日光線鹿沼駅

10:15JR鹿沼駅到着。
 バスはあるものの本数が少ないので駅前からタクシーで「大谷資料館」に。

10:30「大谷資料館」到着。
 JR日光線鹿沼駅👉​タクシー大谷資料館
 
コロナで委縮していたのは過去の事、資料館には修学旅行で訪れた子供達を乗せた多くのバスが駐車し資料館は活気のある声に満ちていた。

資料館周辺は緑の山々に剥き出しの大谷石が露出し一帯が一大採掘地なのがよく分かる。
 採掘抗は地下深く延々と宇都宮市街地方向にも続くと云う。

資料館から採掘抗地下深くへ。
 坑内の温度は7℃ほど、採掘されてできた大きな地下空間が幾つも連なっている。
ライトアップされた岩の殿堂は幻想的でもある。
 こうしてできた空間は音楽イベントや撮影、結婚式などにも使われているという。

坑内の至る所に機械化されるまえに人によって採掘された鑿跡が残る。
 坑内の安定した気温は米の備蓄やワインなど寝かせるのに最適だろう、明りが無ければウドなんかも栽培できそうだ。
きな臭いこのご時世、この広い空間はシェルターとしても使えそうだ。

地下空間にはこうしたオブジェが展示、ライトアップされ地上とは別世界。
 涼しい異空間を後に地上に出るとメガネは一瞬で曇る。
所在地 / 栃木県宇都宮市大谷町909


 時間は11:50
この後はバスで宇都宮市街地に向かい、宇都宮二荒山神社と宇都宮餃子を食べに向かう。
資料館入口バス👉馬場町バス停

12:20 宇都宮みんみん本店

 神社参拝は後回しにして先に餃子で昼ご飯。
空いてるじゃんと思ったのは大きな間違い、向かいの立駐が待機スペースとなっていて、整理券をもらって呼びたしを待つ10組ほどの先客。
 この待ち時間を利用して二荒山神社と摂社下之宮の社頭を撮りに行く。
この日は生憎と二荒山神社参道で翌日から開催するFIBA3×3宇都宮オープンの設営でてんてこまい。
 どちらの社頭も資材やら人やらでごちゃごちゃ、数枚撮ってみんみんに戻る。

みんみんのメニューはいたってシンプル。
 左のヤキ(焼き餃子)と右のアゲ(揚げ餃子)にスイ(水餃子)のみで一人前各300円。
この三種を一枚ずつ頼み、忘れてはいけない冷えたビールで少し早いお疲れさんの乾杯。
 とにかくこの日は暑かった、冷たいビールがおいしい。
野菜たっぷりで肉汁を吸い込んだジューシーな宇都宮餃子を堪能し二荒山神社へ。
 所在地 / 栃木県宇都宮市馬場通り4-2-3

13:00二荒山神社
 明日からの開催に向け会場設営は急ピッチで行われていた。
社頭の社号標は「式内二荒山神社」、その先に両部鳥居の大鳥居。
 参道は封鎖され、左のビルの脇から石段に向かう。

鳥居付近の雑踏に対し石段から先の境内は人気もなく静かさに包まれていた。
 神門からから望む拝殿。
下野國一之宮二荒山神社の創建は過去幾度かの火災で記録を焼失定かではないが、社記には仁徳天皇の御代に毛野国が上下の二国に分けられ、御祭神豊城入彦命の四世孫奈良別王が下毛野国の国造に任ぜられ、この時、祖神である豊城入彦命を荒尾崎(下之宮)に祀ったのが始まりという。
 その後承和5年(838)に現在の地、臼ケ峰に遷座されたと伝えられる歴史のある神社。
この地の祖神、総氏神さまとして広く崇敬されている。

祭神 / 豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)
相殿神 / 大物主命(おおものぬしのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)
創建 / 不明
所在地 / 栃木県宇都宮市馬場通り1-1-1

これで二泊三日の下野國一之宮「日光二荒山神社、宇都宮二荒山神社」巡りはコンプリート。

   宇都宮駅から新幹線で一路東京に向かい帰路に・・・・ではなく東京駅の地下にある酒造所によって行く。
はせがわ酒店グランスタ東京店、駅から出る必要もなく美味しい酒が飲め、隣接する店舗では販売も行っている。
 出張帰りに何度か探してみたが結局見つからくて縁がないものと思っていたが、かみさんの方向感覚は絶大だ。
迷うことなく辿り着けた、おらには東京の地下の雑踏や地上の雑踏と狭い空は向いとらん、忙しないところや。

ここで飲んでおいしいと感じたのが上のどぶろく
 爽やかでヨーグルトのような風味のものでお土産に小瓶を買ってきた。
店員に「絶対横にしないでください」と念を押され大切に持ち帰ったものの小瓶では役不足だった。
 まぁいい、他にも買ってきた、おらのザックは酒で重い、買い出しツアーか?

それにしても楽しい三日間だったがそこで感じた事は確実に世の中動き出している。
 海外観光客の少ない時期にベタな観光名所に行って正解だったかもしれない。
宇都宮👉東京👉名古屋

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大宝山権現院千光寺

広島県尾道市東土堂町「千光寺」

 艮神社社頭脇の千光寺ロープウェイ麓駅から大宝山の山頂駅まで3分の空中散歩。
途中艮神社を上から眺めながら山頂駅を目指す、山頂から千光寺までは徒歩で参道を下っていく。

ゴンドラから眼下の尾道の町と約200㍍対岸の向島、それを隔てる尾道水道が一望できる。
 手前の森は艮神社の楠の杜。

ゴンドラからは尾道水道に切れ落ちる急峻な山肌に建てられた舞台造りの千光寺本堂が良く見渡せる。

 狭い参道が続く千光寺、本堂の全景が一番よく見渡せるのがゴンドラからの眺めかもしれません。

玉の岩
 これもゴンドラからの眺め。
解説によれば千光寺に多くある巨岩の中では三番目の大きさを誇る岩。
 宝珠岩又は烏帽子岩とも呼ばれると云う。
昔、「岩上宝玉あり、遥かに海上を照らす故にこの名あり、尾道を古来玉の浦と云い、山を大宝山、寺を千光寺と云う、亦是によると云う」
 月明りで照らされた宝玉は光り輝き、尾道水道を行き交う舟の山たて(道標)、灯台になったという事だろうか。
玉の岩の頂には宝玉が取り付けられていた痕跡が今も残るという。
 現在この頂きに付いている丸い宝玉は夜になれば内部照明で明るく輝くようだ。

山頂駅を降りるとこのスロープに出られる、ここから眺める尾道の街並みと遥か先に続く尾道水道の眺めは絶景。

 陽も傾きだしオレンジ色の陽差しとスロープの影のコントラストが印象に残る。
 
千光寺へはここから文学の小道を下っていく事になります。
 千光寺に続く山肌には多くの岩が点在し、それらに名の知れた文豪たちの名句が刻まれ、解説も置かれている。
最初はそれを詠んで行くのだが数の多さに途中で折れてしまった。

千光寺に続く(下る)参道には千光寺に導く看板が整備され迷う事はないと思います、ただしアスファルト等で整備されていないので履物は考えた方がいいかもしれない。


 写真は千光寺に向かう途中の注連柱、奥には左から金丸明神、勝七大明神、勝義大明神、祐七大明神。
更に下ると千光寺裏門の石標が現れ境内に至ります、参道は舗装路に変わり一段と狭くなります。

鏡岩。
 裏参道から境内に入りすぐ右手の山肌に聳える巨岩。
その最上部は岩肌を丸く平滑に削り取り鏡に見立て神が宿る崇敬対象として崇められている。


鏡岩の下にある守り本尊。

守り本尊の祀られている裏参道
 右手は客殿、太子堂、鐘楼の伽藍が連なるが、何れも断崖の上の僅かな平坦地に寄り添うように建てられ、建物の全景は捉えにくい。


太子堂
堂から右に進むと鐘楼があるが撮り忘れたようです。

太子堂前の壁のような巨岩が玉の岩、その下にお願い地蔵が祀られていた。
 千光寺で感心したのは線香や蝋燭など購入時に電子決済(paypay)が利用できるが、境内は無数の地蔵が安置されているので大量の小銭が必要。


太子堂から少し進むと右手の岩肌に護摩堂が聳えている。
・宝永七年(1710年)の建立とされる。
・本尊の不動明王、東脇壇の地蔵菩薩は運慶作と伝わる。
・300年ほど前までは当山城主杉原民部太夫元恒の守り本尊毘沙門天を安置する三重塔があったが落石により崩壊、護摩堂はその跡地に建てられたもの。

本堂を筆頭に伽藍全体はいつ落石が起きてもおかしくない、そんな立地に建てられている。
 それらの巨岩が何百年も安定していること自体が不思議なものを感じる。

護摩堂から玉の岩と太子堂
 玉の岩には「昔、この岩の上に宝珠あり、夜毎に異光を放ちて、遥かに海上を照らせし」と伝わる玉の岩伝説が残る。
寺名の千光寺や山の名の大宝山はそこからきていると云い、風光明媚なこの地を玉の浦と呼ぶのも玉の岩伝説によるものらしい。


護摩堂から本堂全景。
 後方にくさり山の巨岩群が迫っている。
巨岩の下の僅かな空間に入母屋瓦葺の本堂が建てられ、外陣は舞台造りで岩壁に浮いた錯覚を覚える。

本堂側面、参道は外陣を通り抜け先に続く。

千光寺略縁起。
・大宝山権現院千光寺は標高140㍍、尾道港を一望する大宝山の中腹にあり、(大同元年・806年)弘法大師の開基で中興は多田満仲公と伝えられています。
・本堂は貞享三年(1686年)の建立とされこの地方には珍しい舞台造り。
・堂内に置かれた須弥壇は応永から永享(1394~1440年)頃の作で、和様に唐様を取り入れた様式で、ここに安置する本尊は聖徳太子作の千手観世音菩薩を祀る。
・俗に火伏の観音とも云われ、多田満仲公の守り本尊。
・西脇壇の阿弥陀如来聖徳太子の作、脇侍の不動明王毘沙門天覚鑁作とされる。

本堂外陣の山号額と外陣格子天井に描かれた天井絵。
 近年山紫陽花など一部補修されたようで鮮やかさは歴然としている。
額後方の壁をよく見ればそこにはこちらを睨む龍の姿がある。

天井絵は内陣にも描かれているが流石にそこまでは許してもらえなかった。

本堂外陣を過ぎると石の明神鳥居と目の前に三重岩と呼ばれる巨岩が現れる。
 以前はここから先のくさり山は修験の場で参拝者は立ち入れなかったそうだ、現在は一般の立ち入りも許され参拝が出来る。

巨岩が幾重にも積み重なり一つの岩山を築いている。
 大正時代ここに石鎚蔵王権現が祀られ、大正15年に石鎚山に登る女鎖と男鎖が取り付けられたそうです。
それも戦時中の供出でなくなり、後に女鎖のみ復元取り付けられ一般客の登攀が許されています。
 男鎖は復元されていませんが、岩の下に祀られた石鎚大権現の社後方に男鎖跡として鎖場の後が残っています。

右側巨岩をよく見ると熊野権現の神使とされる烏天狗が刻まれている。
 岩の下の社は熊野大権現、石鎚大権現を祀る社がある。

社の横を通り抜けた先の男鎖跡。
 鎖場からくさり山にかけては手摺も整備され最低限の安全対策は施されていますが、ここは修業の場であり奉納料100円に保険料は含まれていません、一つ間違えば後悔する事になりそうです。


鎖場から見下ろす本堂と尾道市街。

瓦葺の入母屋の本堂を下で支える舞台造り。
 外陣から下を見下ろすと体は自然に持っていかれる感覚になる。

本堂の下に建つ三十三観音堂。
・寛保3年(1743年)の建立。
・西国観音霊場各札所の本尊三十三躰の観音菩薩を安置。

ここから麓に向けどんどん下っていきます。

途中で見かけた摩崖仏と解説。
・山と一体化した千光寺の石造物を代表するもの。
・一つの岩に阿弥陀三尊像が彫り込まれた摩崖仏で室町時代のもの。

一番奥に千光寺阿弥陀三尊像。
 写真から表情は伝わりにくいけれど肉眼では素朴な表情や輪郭が伝わってくる。
平安の時代を生きた先人の思いは今も形となって残っている。(尾道市重要文化財)


毘沙門堂
・現在の建物は宝暦4年(1774年)に再建されたもの。
・本尊は毘沙門天
・本尊の毘沙門天、脇侍の𠮷祥天、善膩師童子ともに仏師鞍作止利の作で、当山城主の杉原氏の守り本尊。
・中国観音霊場十三番札所、備後西国観音霊場七番札所。

参道を下り注連柱付近から千光寺伽藍の眺め。

注連柱から左方向に進み、目の前の多宝塔方向に向かう。


天寧寺三重塔
 もともとは五重塔として1388年(嘉慶2)に建立されたと云い、1692年(元禄5)塔の上層部の劣化が進み三重塔に改築されたもの。
一見すると下層と上層のバランスに違和感を感じるのはその為のようだ。(重要文化財)

 塔と尾道の街並みを一望できる光景は尾道を代表する光景とも云われ、直下から見上げる姿よりこの光景が美しい。

直下から相輪、宝珠を見上げる。
 水煙の装飾はシンプルなもので、落ち着いた佇まいの塔外観にマッチしているかもしれない。

塔の手前で小道は二手に別れ左の猫の細道方向に下りて行きます。

福石猫神社。
 白い陶器製の福猫があり、願をかけながら三回撫でると福がやってくるらしい。

猫の細道
 一帯には多くの猫が住んでいるようで、猫の顔写真が貼られたマップを頼りにお気に入りの猫を訪ねるもの。
住民や観光客からも可愛がられているため警戒心はなく、容易に触る事が出来る。
 デフォルメされたマップですが千光寺から艮神社までのルートを黄色で示しておきます。

この道を更に下ると艮神社の脇を通りロープウエイの麓駅に戻る事ができます。
 山頂駅から麓駅まで参拝、観光込みで50分程で降りてきました。
千光寺、巨岩ひしめく岩山に同化するように建てられた伽藍、赤い舞台造りの本堂や玉の岩など尾道の顔と云っても過言ではない歴史を持つ寺院でした。

千光寺
山号 / 大宝山
院号 / 権現院
寺号 / 千光寺
開基 / 806年(大同元年)
所在地 /  ​広島県尾道市東土堂町15-1

参拝日 / 2022/04/19
公共交通機関アクセス / JR山陽本線尾道」降車👉​千光寺ロープウェイまで徒歩20分程
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岐阜県瑞浪市 耳ノ木神社

岐阜県瑞浪市土岐町「耳ノ木神社」
 一日市場八幡神社から下街道を10分程西に向け進む。
途中の松阪町西交差点の津島社、御嶽神社の鳥居を過ぎ間もなくすると右手に常夜灯が見えてくる。

「耳ノ木神社」社頭全景。
 街道筋の民家の間に山の斜面に石段が続きその最上段に覆屋が建つ。

常夜灯の寄進は明治の頃、四十とあるがその下がよく分からなかったが1900年代初期に寄進されたもの。

境内右の石碑。
 耳ノ木神社建立に伴い寄進された方々の名が刻まれている、表には寄進年度は見当たらなかった。
碑の表面は時の経過により苔むし趣のある姿をしている。
 後方に「一日市場区 耳ノ木神社」の看板が立てられている。
社標も鳥居もない社頭、神社名を知る術は唯一「土岐地区まちづくり推進協議会」の地道な活動によるこの看板のみ。

覆屋に続く石段。
 訪れた当日は石段中央に朽ちた木が置かれていた、丸太鳥居の名残かも知れない。

石段の右にも寄進者の名が刻まれた碑が立てられている。

覆屋右の斜面に石の祠が祀られています。
 「山神社」とある。
祭神は大山津見神かと思われますが、いつ頃祀られたものかなどの詳細は不明。

岐阜県神社庁で耳ノ木神社の由緒として以下のように記されていた。
「常盤姫の哀話に因むお社

耳ノ木神社という珍しい名前の神社ですが、それには次のような言い伝えがあります。
 今から約700年程前、明智の豪族の娘、常盤姫がこの地を領していた土岐頼兼の妻となりました。
或る時、姫の衣擦れの音をおならの音と聞き違えた家臣達から嘲笑を受け、それを苦にして川に身を投げてしまいました。
 その時、杉の若木を切って杖にしていたのを川岸に突きさして置いたのですが、それが根づいたのを見て、人々は姫の潔白を知ったのです。
そして自分たちの耳の誤りを深く恥じ、そこに耳木神社を建てたというのです。
 祭神は高御産巣日之神(タカミムスビ)という古事記の最初に出てくる神。
天文9年(1540)奉上葺耳木大明神の棟札があることからも古い由緒をもつ神社と云える」

 高御産巣日之神は天地創世・天地開闢(かいびゃく)神話のなかで、天地のはじめに高天原に出現した造化三神で、天之御中主神(アメノミナカヌシ)の次に現れた第二の神で五穀豊穣、無病息災・延命長寿にご利益があるとされる神とされる。

覆屋の中に祀られる檜皮葺きの流造の社は大きなものではないが、高欄や脇障子がつき、木鼻に獅子と象、向拝に龍の透かし彫り、脇障子に彫など施され手間をかけたもの。


 訪れた時は雑草が茂り、奥に踏み込む気になれなかったが、往古の先人達や多くの寄進者の思いから祀られた神社、本殿や覆屋を見る限り今もその思いは受け継がれている。

耳ノ木神社

創建 / 天文9年(1540)の棟札が残る
祭神 / 高御産巣日之神
境内社 / 山神
所在地 / ​​​​ 岐阜県瑞浪市土岐町476-1
訪問日 / 2022/04/30

艮(うしとら)神社

広島県尾道市長江「艮(うしとら)神社」
海岸近くまで山が迫る尾道、大宝山山頂と麓を結ぶ千光寺山ロープウェイはこの辺りを歩くと何処にいても視界に入ってくる。
良(ウシトラ)神社に訪れる目標はロープウェイの麓駅を目指せばいい。

尾道市役所駐車場から西方向に進み、住吉神社から北方向の山陽本線を越えると駅は近い。

艮(うしとら)神社社頭。
右の看板が示す様に千光寺山ロープウェイ麓駅の西隣りに社頭を構えている。
社頭左に良神社社標と注連縄の架けられた1841年(天保11)に寄進された鳥居がある。
そのすぐ背後の石の鳥居は笠木の曲線が強く、笠木中央に唐破風の屋根が付き、その下に「良宮」と記された額が付く。
鳥居の左の柱には1660年(萬治3)と刻まれていた。

艮神社は尾道一の古社とされ、創建は806年(大同元年)と伝えられ、火災で焼け落ち1475年(文明7)に平盛祐が再建したと伝わる。

木製の破風の下に掛けられた額も木製。
派手さはないがシックで重厚感のある味のあるもの。
鳥居から石畳の参道が神門に続く。

参道右の艮神社由緒。
・祭神 伊邪那岐命天照大御神、素戔男命、吉備津彦命
・例祭 10月初旬
・本殿 三間社神明造、銅板葺(間口三間、奥行二間)
・天然記念物 大楠4本

由緒
・大同元年(806)の創建とされ、火災により文明7(1475)平盛祐が再建。
・文禄4年(1595)本殿葺替、慶長16年(1611)再興、寛文6年(1666)に本殿・拝殿造立、元禄2年(1689)葺替、宝永2年(1705)本殿・幣殿造立など度々の造営があった事が棟札より知れる。

参道中ほどにも注連縄鳥居があり、その先は神門に続く。

四つ足で切妻銅板葺で屋根の平側前後に唐破風が付けられている、棟には5本の鰹木と外削ぎの置き千木が付く。

神門左に境内社の稲荷社。
詳細は不明。

参道を挟み稲荷社と向かい合う様に祀られる境内社
瓦葺の流造で小さいながら大棟には鯱が乗る立派な社、社名札は見当たらず詳細は分からない。

神門の全景、建立年代など詳細は不明。

神門から境内の眺め。
境内はほぼ天然記念物の4本の大楠に包まれていると云ってもいい。
社殿上空を千光寺山ロープウェイが大宝山山頂まで架けられている。
ロープウェイは神社の上空を通過し大宝山山頂まで所要時間3分。あっという間です。15分間隔で運行され、片道500円、往復700円の料金。
お勧めは行きはロープウェイ、帰りは30分程かけて下山する事をお勧めします。
頂上から尾道の眺望を楽しみ、中腹から麓にかけて千光寺参拝や猫の細道を見て廻れば普通に麓の良神社に到着します。
境内は山の傾斜をそのまま生かし何段かに分かれて社地が作られています。
正面の石段左に手水舎、右に境内社の明神鳥居がある。

手水舎と手水鉢。
ここでは龍ではなく蓑を被った亀が清水を注いでいる。
亀とは言ったものの、玄武か神亀かもしれない、頭部に耳があり大きな鼻を持つ。

石段右の境内社
鳥居には「塞神社」とあり、社前には小さいが精悍な目つきの狛犬が守護していた。
詳細は不明。

天然記念物の大楠が拝殿上空を覆う様に枝を広げている。
鮮やかなこの緑色も僅かな期間だけのものかも知れない。
祭神は伊邪那岐命天照大御神、素戔男命、吉備津彦命
本殿は神明造
創建は806年(大同元年)と伝えられ、火災で焼け落ち1475年(文明7)に平盛祐が再建。その後も1595年(文禄4)本殿・拝殿葺き替え、1611年(慶長16)再興、1666年(寛文6)に本殿・拝殿造立、1689年(元禄2)に葺き替え、1705年(宝永2)に本殿・幣殿造立など棟札が残存する。

古社を象徴する巨大な楠。
この他にも天然記念物の大楠が緑の天幕となり社地全体を覆っている。
推定樹齢1000年とも云われる巨木で、上空を行き交うゴンドラに届くような勢いがある。

拝殿全景。
切妻妻入り拝殿で向拝が付く、丸に亀甲四方花菱が神紋の様だ。
拝殿前には一対の狛犬が守護している。

その前に石段脇に目を転じる、そこには見るも無残な姿の狛犬が一対。
これを狛犬としてすぐ気付く人は多くはないかもしれない。
寄進年度も識別不能でかなりの年代を感じさせる、拝殿域を今も現役で守護する姿に哀愁を感じる。

境内右に境内社が纏められている、少なくとも6社はありそうだった。
写真はその右半分の眺め、右の鳥居の先には遥拝石が建てられていた。
訪れた当日は拝殿に続く参道以外はロープが張られ立ち入り制限されていた。

上の写真の左側の境内社
左の石段の先にも鳥居があり社が祀られているようだが見通しが効かず詳細は分からなかった。

拝殿左側の境内社、右側以上に複数の社が入り組んで祀られている。
右の鳥居の後ろには注連縄が張られた大きな岩がある、趣から磐座?と思いたくなる堂々とした佇まい。
左の鳥居には唯一「金山彦神社」と記されているが、この一画だけでも4社は祀られている様子。
こちらも立ち入りが制限され参拝して回る事は出来なかった。

拝殿前を守護する狛犬
目鼻立ちのフォルムが強調されたもので肉付きがいい。
髪はロン毛で阿形の方はカールまで施し身だしなみに気を使っているようだ。
1800年(寛政12)当時のトレンドだったのか。


向拝の外削ぎ千木と拝殿の内削ぎ千木の眺め。


拝所から本殿方向の眺め。
由緒には伊邪那岐命天照大御神、素戔男命、吉備津彦命の四柱の神を祀るとある。
境内社を参拝できなかった分ここは賽銭をはずんでおこう(五重縁)
ひょっとしていい事もあるやもしれない。

さて社殿の全景・・・となるところ、これがなかなか一望できる場所が見当たらない。
諦めて千光寺を参拝し下山途中の猫の細道から社殿を見渡す事が出来た、以下はそこからの眺め。

本殿。
神明造で5本の鰹木と内削ぎの千木が付く、屋根は銅板葺。

拝殿と境内社


瓦葺の流造の社は恵美須神社猿田彦神社豊玉彦神社の相殿。

磐座の左の鳥居の社になる。

銅板葺で外削ぎの千木が付く流造の社、朱の鳥居を構える事から稲荷社と思われます。

金山彦神社(境内から撮影)。
これら境内社の詳細は不明。

すっきりしないので大日本名所図録 広島県之部に目を通してみたがスッキリしなかった。


神門から千光寺山ロープウェイ麓駅。


ロープウェイから緑の天幕と神門を上から眺める。
それにしても良く神社の上に架けたものだ。

大宝山の麓に楠の巨木に包まれ鎮座する艮神社、鬼門封じとしてその名が付くとすると、その反対側は尾道という事だろうか。

艮(うしとら)神社
創建 / 大同元年(806)
祭神 / 伊邪那岐命天照大御神、素戔男命、吉備津彦命
境内社 / 恵美須神社猿田彦神社豊玉彦神社、金山彦神社、不明社多数
参拝日 / 2022/04/19
所在地 / ​広島県尾道市長江1-3-5
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八柱神社

豊田市御作町小子「八柱神社

八柱神社を訪れたのは4/4、穏やかに流れる犬伏川の堤沿いの桜並木は桜の花が見頃を迎えていた。

県道486号線を南下、犬伏川に架かる落合橋を越えすぐ左に写真の八柱神社の社標が立っている。
ここから左折し御作公民館方向に車を進めると八柱神社が鎮座する。

八柱神社全景。
 西側は田畑が広がり、田畑の外れに大きな巨樹が聳える森がある。
樹々に包み込まれる様に八柱神社が鎮座します。
 右側には先ほど越えたはずの犬伏川が間近を流れている、対岸の小高い山〃は河岸まで迫っている。

社頭全景。
 常夜灯の先に明神鳥居、杉の巨木が並木となり拝殿に繋がっている。

社頭左に手水舎、近年建替られたようで新しく立派なもの、ここも龍はお休みだ。

石の明神鳥居に掛けられた「八柱宮」の額。
 離れて見た境内の印象は暗いイメージでいた、杜の樹々が一定の間隔を持っていることもあり外光が入る明るい境内。

社頭右の由緒書き。
「九等級 八柱神社 旧指定村社
 鎮座地 豊田市御作町小子191番地
祭神 天忍穂耳命天穂日命天津彦根命、熊野樟日命、湍津彦根命、市杵島姫命田心姫命湍津姫命
 由緒 社伝に、安元三年(1177)九月一八日、山内摂津守正信がこの地に来住し鎮守の神として勧請した。
爾来住民の崇敬厚く、明治六年村社に列し大正四年九月二十三日指定社となる。
 境内社 神明社、八幡社、八剣社、洲原社、秋葉社、稲荷社、御鍬社、金刀比羅社、津島社が祀られ、
それらは一六五四年から一八三六年にかけて創建された。
 昭和四十七年七月一三日、奥三河地方大水害により社殿を流失。
住民総意のもと昭和五十一年二月七日工事着工、同年十月一八日新社殿が竣工した」

水害とは昭和47年7月豪雨を指しているのだろう。

「同年7/10~13日かけて全国的に豪雨に見舞われ、西三河山間部、特に小原村、藤岡村では総降雨量が400㎜近くに達し、それに伴い沢や渓流に流出した土砂や流木により多くの犠牲者と家屋に被害を与えた」

猿投神社の奥宮に向かう尾根道を歩くと花崗岩が風化したまさ土と呼ばれる土壌を目にするはずです。
 この辺りも同様でいざ強烈な雨が降ると不安定になりやすい性質があるといいます。
八柱神社の鎮座地は社地北側と南側に犬伏川の流れがあり、境内の奥で犬伏川は大きく右に蛇行する先端に位置し、記録的な豪雨の際は水も集まりやすくなる。
 由緒に移転や補修の記録はないが、安元三年の創建から延々と鎮座、崇敬され続けた神社も聞き慣れた「経験のない豪雨」には為す術もなかったようです。

古くから鎮座する寺社周辺は安全と信じて来たが、やたら耳にする「経験のない」言葉や事象からそうした事も妄想でしかないのかもしれない。
 被災後神社は立派に建替えられ碑が残された、この地を担う次の世代への継承(警鐘)として有意義な事だ。

参道中程から見る社殿。

 杜を形作る樹々の高さには目を見張るばかりだ、社殿が小さい訳でもなく山間に佇む神社としてはむしろ規模は大きい。

拝殿付近に建てられた由緒書き。
 社頭のものと同じ内容のものだ。

社殿全景。
 拝殿、幣殿、覆殿が繋がり本殿脇の左右に境内社が祀られている。

御作の欅。
拝殿手前に聳える樹高27.7㍍、樹齢約400年とされる欅。
新芽が芽吹く前で枝の一本〃がうねる様に伸びる姿に自然の力強さが伝わってくる。
今頃は新緑に包まれている事だろう。

境内にはこの欅以外にも樹齢200年以上樹高35㍍を越える杉などが杜を形成している。

拝殿全景。
切妻平入の銅板葺の二重屋根で大棟から切妻の向拝が続く鉄筋コンクリート造りのもの。
 水害で社殿を流失した過去を踏まえての選択なのだろう。
杜はその水害を耐え抜いたという事だろう。

拝殿前の狛犬
1959年(昭和34)に寄進されたもので目つきが鋭いもの。

向拝から杜を見上げる、真っすぐに空に伸び続ける杉の巨木(御作の杉)。

拝殿額「八柱神社

左三つ巴が神紋のようだ。

拝殿から渡廊を介し入母屋平入の幣殿、覆殿に繋がる。

大きな本殿を覆うだけに覆屋は社殿の中で一番高く立派なものだ。
 右に境内社三社祀られている、右側の小さな社は三社相殿で社名札はあったが読み取れなかった。
ここだけで5社が祀られている。

本殿、三間社流造。

本殿左の境内社
ここに6社祀られ、右の大きな社二つは右から八幡神社、八剣神社。

八剣神社から左の社、御鍬社、金刀比羅社、左二つは退色も進み読めなかった。

棒の手碑 見当流
「御作の棒の手は、はじめ江戸後期の享和2年垣平作衛門が加茂郡尾形氏より検藤流を学び、この地に門下百余名を指南して盛事を開いたが幕末の世情変転の中に断絶した。
 明治13年山内新平ほか数名は棒の手再興を志し見当流三河宗家 八草の粕谷菊平に師事して免許目録を授かりこれを広め今に伝えた。
見当流は尾張の本田遊撫を流祖とし勇壮闊達な演技を伝承するもの、鎮守八柱神社に奉納のほか川通合属に加わり永く猿投神社に奉納を続けた。」

御作神社の南側の城ヶ根山の頂は鎌倉時代に建てられたものと云われる御作城址があるが、御作神社との繋がりは分からなかった。

八柱神社
創建 / 安元三年(1177)
祭神 / 天忍穂耳命天穂日命天津彦根命、熊野樟日命、湍津彦根命、市杵島姫命田心姫命湍津姫命
境内社 / 神明社、八幡社、八剣社、洲原社、秋葉社、稲荷社、御鍬社、金刀比羅社、津島社
所在地 / ​​​​豊田市御作町小子
訪問日 / 2022/04/04
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