名駅東側に鎮座し徒歩圏内で参拝できる神社巡りの3社目となります。
今回は中村区名駅南2に鎮座する須佐之男神社。
前回の柳里神社から須佐之男神社へは南に5分程の距離にあります。
上は明治31年(1898)とほぼ現在の地図。
今回は中村区名駅南2に鎮座する須佐之男神社。
前回の柳里神社から須佐之男神社へは南に5分程の距離にあります。
上は明治31年(1898)とほぼ現在の地図。
この辺りに来ると南に下広井町線があるお陰か、圧迫感のあるビルの森もなくなり、見上げると空が広がる。
社地周辺には西に住友生命名古屋ビル、北には特徴のあるスパイラルタワーが聳えている。
須佐之男神社社頭の一区画東には青空のような外壁の名古屋四季劇場がすぐ近くにある。
基準がもとめるのか、冷たい色合いのビルばかりですが、こうした色合いのビルがあってもいいと思うのだが。
須佐之男神社社頭全景。
ここまでの2社に比べると大きなビルが迫る事もなく、南向きの社頭の前と左がパーキングのため境内は明るく風が良く通る。
社頭は右に「村社須佐之男神社」の社号標と一対の燈籠があり、石の神明鳥居の先の参道右が社務所、中央に社殿、左に小さな建物ある。
燈籠は明治33年(1900)に寄進されたもの。
須佐之男神社の由緒について地史や愛知県神社庁など調べて見ましたがこれといったものは見当たらなかった。
「下笹島町東側に鎮座し、勧請の年月は不明。
当初は中笹島に氏神として祀られていたもの。
明治12年(1879)、村社に列格。
祭神は須佐之男命。
例祭は10月17日」
これによれば、一面葦が茂る湿地帯だったこの辺り、明治19年に笹島停車場の完成以降、鉄道整備や名古屋駅の開発に伴い目まぐるしく鎮座地を求め彷徨ったのが窺われます。
それはこの地に住む氏子達も同様だったはず。
現在も笹島再開発やリニア中央新幹線建設に伴う開発の波が収まる事はない。
石灯籠は再遷座後に寄進され、ここに移設されたもののようです。
社殿全景。
参道は須佐之男社の門に続き、そこから左右の門に続きます。
参道脇を守護する狛犬。
狛犬の寄進年は昭和3年(1928)。
戦火を経験した狛犬達だ、上の石灯籠やこの狛犬の一部に欠損や罅があるのは空襲によるものなのか。
本殿域は板塀で囲まれ、三つの門は手前が金刀比羅神社、中央は須佐之男神社、左が秋葉社の門。
本殿域の全景(2枚貼り合わせ)。
左から銅葺流造の秋葉社、神明造の須佐之男神社、銅葺流造の金刀比羅神社。
須佐之男神社本殿は6本の鰹木と水平カットの千木が付く、女神も祀られているのか?。
境内右手の社務所と左の石灯籠。
右手の鳥居の柱には大正7年(1918)と刻まれており、現在地に鎮座後に寄進されたもの。
社務所横の石燈籠の竿には大正元年(1912)の寄進年が刻まれ、社殿再建時に寄進されたものようです。
今も変貌を続ける名駅周辺。
この神社も文明開化と高度成長期の荒波に翻弄されて来た神社のひとつ。
それらを支え、今に繋げられているのも氏子をはじめとする熱心な崇敬者によるものだろう。
これによれば、一面葦が茂る湿地帯だったこの辺り、明治19年に笹島停車場の完成以降、鉄道整備や名古屋駅の開発に伴い目まぐるしく鎮座地を求め彷徨ったのが窺われます。
それはこの地に住む氏子達も同様だったはず。
現在も笹島再開発やリニア中央新幹線建設に伴う開発の波が収まる事はない。
石灯籠は再遷座後に寄進され、ここに移設されたもののようです。
社殿全景。
参道は須佐之男社の門に続き、そこから左右の門に続きます。
参道脇を守護する狛犬。
狛犬の寄進年は昭和3年(1928)。
戦火を経験した狛犬達だ、上の石灯籠やこの狛犬の一部に欠損や罅があるのは空襲によるものなのか。
本殿域は板塀で囲まれ、三つの門は手前が金刀比羅神社、中央は須佐之男神社、左が秋葉社の門。
本殿域の全景(2枚貼り合わせ)。
左から銅葺流造の秋葉社、神明造の須佐之男神社、銅葺流造の金刀比羅神社。
須佐之男神社本殿は6本の鰹木と水平カットの千木が付く、女神も祀られているのか?。
境内右手の社務所と左の石灯籠。
右手の鳥居の柱には大正7年(1918)と刻まれており、現在地に鎮座後に寄進されたもの。
社務所横の石燈籠の竿には大正元年(1912)の寄進年が刻まれ、社殿再建時に寄進されたものようです。
今も変貌を続ける名駅周辺。
この神社も文明開化と高度成長期の荒波に翻弄されて来た神社のひとつ。
それらを支え、今に繋げられているのも氏子をはじめとする熱心な崇敬者によるものだろう。
須佐之男神社