富士神社(名古屋市東区東桜1)

金刀比羅神社から南東方向の桜通りを高岳交差点方向に向かう事約10分程、桜通り沿いに社頭を構える富士神社へ向かいます。

桜通りから東方向の高岳交差点を眺める。

桜通りの沿いにビルが連なる一帯、そこにぽっかり空が抜ける一画が今回取り上げる冨士神社。
大きなイチョウや楠の巨木が聳え、歩道から社殿も容易に見渡せる。

気安く車で訪れる事の出来ない桜通りの南側に北を向いて社頭を構えている。

左の大正時代の地図には桜通りは当然描かれていませんが、赤マーカーが富士神社の鎮座地。
9月に入って久し振りに街中の神社を巡りましたが、ここ富士神社が最後の目的地です。

歩道から境内の眺め。
一ノ鳥居の右に「富士神社」の社標(明治42年寄進)と「冨士神社と築城石」の解説があり、鳥居左に神社由緒書きが掲げられています。
鳥居は石の神明造で歩道からではニノ鳥居までしか見えませんが、ニノ鳥居から参道は右に曲がり、その先に三ノ鳥居まで構えています。

「冨士神社と築城石

冨士神社は、もと冨士浅間宮、冨士権現社又は冨士塚権現とも呼ばれ、木花咲耶姫命を祭神とする。
昔は社地六十間四方(尾張志は二町又は四町四方とも伝える)と、ほかに控地を有し、うっそうとした森に囲まれていたといわれる。
名古屋城築城の際、浅野幸長が社域に普請小屋を設けたため、社は幅下(西区浅間町)に遷された。
その後再びこの地に社殿を建て冨士浅間宮を祀った。
境内には今も□の紋様が刻まれた築城石の残石がある。」
とある。

上は江戸時代末期に纏められたとされる尾張名陽図会巻之6富士権現に描かれていた挿絵。
挿絵とともに以下のように記されていた。
富士塚権現 富士塚町と所の名に呼ぶ。
元は諸士屋敷の内に有りしを、今は別に神門を建て、境内を別つ。
名古屋御普請の節、浅野幸長侯小屋場になりて、この本社を巾下の九尺町に移し、その後また旧跡に社を建つ。
相伝ふ、この地内の宮居を巾下にうつせし頃は何も無かりしが、折ふしその宮の跡に美女あらはる事しばしばなり。
これを思へば、久しく住み給ひし所ゆえに、むかしを忍ばしくもおもしめされての神意ならんと、その後居をたつとかや。
この富士塚の社はいつの頃の建立はしらず。
もとは大社と見えたり。
神木あるいは末社等今に残りて、屋敷方に在せり」とある。

尾張名所図会にも多くは語られていないけれど記されていて、築城に伴い普請小屋設置のたため、一時の巾下に遷座し、その後はこの地に戻るはずが、冨士神社の神主が亡くなり、戻る機会が逸している間に社地周辺に武家屋敷が立ち並び、神社はそのまま冨士浅間神社として留まったようです。
巾下に遷座後もこの地には小さな小山と小社が建っていたようで、上の挿絵には表門も描かれている事から、その後下に出てくる享保20年(1735)の津田喜蔵の話に繋がっているような気がする。

下は名古屋市史の富士社に書かれていた内容から一部抜粋したもの。
徳川時代は除地で明治9年(1876)当時は165坪とあり、その後増減し現在の社地に至る」
「西区富士淺間の舊地にして往古は60間四方と他に扣山を有し鬱蒼たる森林で、慶長築城時、浅野幸長社域に普請小屋を設けたことから一時巾下に遷された」
享保20年(1735)この地を拝領した津田喜蔵が北の一部を社地となし、寛政12年(1800)新に表門を建てた」
「門は東向きにあったが駿河町の火災後、社は南向きとされたが現在は東向き」
「明治初年村社に列し、同30年に神殿、祭文殿を改造し遷宮
「祭神は木花之佐久夜日賣命なり、殿宇は神殿・祭文殿・神殿・神楽殿
明治43年(1910)改造、社務所等あり」
「境内神社は稲荷社、祭神は宇賀御魂、大田命、大宮媛命、伏見稲荷神社の分霊で勧請年度は不明。
明治13年(1880)再興の一所在り」

社頭左の由緒記
「祭神 木花咲邪姫命
当社は人皇九十九代後小松天皇の御代應永5年(1398)6月、この地の郷士前山源大夫なる人、駿河の国大宮(現静岡県富士宮市)の冨士本宮浅間神社へ参詣し其の御分霊を勧請し此の地に奉祀せられたるを創始となす。
その頃この地は山口の前山と称し、地域は四町四方並に外山を加え宏大にして老松杉等繁茂幽寂なる神苑は参拝者の心身に自ら清浄感を抱かす近郷稀に見る霊地であった。
偶、正親町天皇の御宇天正10年(1582)7月1日には徳川家康公の参詣された事が旧記にある。
御祭神は縁結び安産及鎮火の神として崇敬者多く大祭は毎年5月11日に執行せらる」

現在の冨士神社は先の大戦の空襲で社殿は焼失してしまいますが、昭和30年(1955)に氏子により社殿が再建され現在にに至っています。

一の鳥居をくぐるとすぐ二の鳥居があります。
境内はここで一旦突き当たりとなり、参道は直角に右へ曲がります。

ニノ鳥居の正面に円筒形の手水石、外周に五・隹・疋・矢と彫られ、中心の四角を口と見立てると吾唯足知(われ ただ たるを しる)となり、プーチンに捧げる言葉が彫られている。

名古屋城石垣残石の由来
「此の地、往昔、山口の前山と呼ばれ、老杉古松四方に繁り、四季に春鶯秋虫の音が、玉とひびき神威を感じさせる霊域であった。
慶長十五年(1610)名古屋城築城に当り、この地に、普請小屋が設けられたため、この社は幅下に移された。
この度この造苑を成すに際し巨大石数多出土し、中の一つに□あるものを発見し、ここに利用することになった。
名古屋城石垣の残石であり、当地が築城の普請小屋の一つであったことを証明することとなった。」

赤く〼と記されているのは発掘時からこうなのか定かではないが、江戸城などの城石にはそこを担当した藩や武家のロゴが入れられ、それぞれの出来栄えを競り合っていたという。

手水舎。
寄進年を見忘れましたが鉄分を含むのか茶色に染まっていました。

冨士神社の龍。
九種の動物の特徴を合体させた姿がこの姿で、龍の九似と云われます。
角も髭もとても立派ですが前脚のトゲトゲに視線が行く、これはトカゲか?

参道左の井戸。
名古屋市史にも境内に井戸の存在が記されており、木札には「50年振りに蘇った 御神水復元 平成19年(2007)11月 富士神社」とある。
昭和32年(1957)を境に井戸は御神水を湛えていなかったようですが、今では昔懐かしい手押しポンプも付けられ、絶えることなく御神水を湛えているようです。

三ノ鳥居。
唯一青銅で包まれた神明鳥居。
ここから参道は拝殿に向かい真っすぐ伸びていき、その間を二対の狛犬が守護しています。

最初の狛犬明治39年(1906)に寄進された小型のものでボリュームたっぷりの尾を持っています。

参道左の神楽殿
戦災で焼失後、昭和30年(1955)に再建されたものでしょう。

二つ目の狛犬
この狛犬は先の狛犬より一回り大きな体格で毬と子持ちのもので、昭和3年(1928)に寄進されたもの。
阿形は大きく口を開け、吠えかかる姿勢のイメージだがこちらは少し違う、突然口を開け噛んでくるタイプで接し方が難しいタイプのようだ。

拝殿左の稲荷社、広く崇敬されているのだろう、多くの奉納旗がはためいている。

稲荷社に続く朱のトンネル。

伏見稲荷から勧請された稲荷社覆屋全景、右に赤い屋根の小さな社が祀られています。

目つきの鋭い健康体の狐。

稲荷社本殿。
覆屋かと思ったがそうではなかった。
本殿は一間社流造で脇障子の付く立派なもの。

右側の小社は木札に白龍社とある。
しかし扉が二つある事から白龍大神ではなく高龗神、須佐之男命かもしれない。
どちらにしてもこの白龍社について語るものが見つからないので詳細は良く分かりません。

冨士神社拝殿全景。
8本の鰹木と内削ぎの千木が付く拝殿の紋幕には細川桜の紋が入っています。
社殿側面が見通せず本殿の造りははっきりと分からなかったが、6本の鰹木と内削ぎの千木が付く神明造かとおもわれます。

拝殿額。
往事は境内も広かったのだろうが、名古屋城築城を契機に遷座に至り、気が付けば鬱蒼とした杜は縮小し武家屋敷に囲まれ、今では三方をビルが取り囲む富士神社だが今も多くの崇敬者に支えられている。

冨士神社
創建 / 應永5年(1398)
祭神 / 木花咲耶姫命
所在地 / 名古屋市東区東桜1-4-12
境内社 / 稲荷社、白龍社
参拝日 / 2023/09/01
金刀比羅神社から徒歩 / ​桜通りを高岳方向に約10分
公共交通機関アクセス / 地下鉄名城線久屋大通駅から​​東へ​徒歩5分
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