中村天神社(名古屋市中村区名楽町)

中村区竹橋町の不明社から太閤通りを西に進み、太閤通6の信号を右折、次を左折すると右側に次の目的地中村天満宮の社頭が現れます。
竹橋町から徒歩20分もあれば社頭に立てる。

社頭から東の竹橋町方向の眺め、近くに迫っていた名駅ビル群も再び小さくなってきた。
鎮座地の名楽町は昭和25年(1950)に中村区米野町太閤通・中村町・則武町・日比津町・若宮町の各一部を名楽町として成立した町。

今年最初の目標は本陣駅から、東西に延びる県道200号線を境にして、南端を太閤通り、西端を鳥居通りまでと定め、再び本陣駅に戻る予定で歩いています。

年末からろくに歩かなかった事もあり、平坦な道ですがなまった足には結構こたえる、何とか一周の目標は達成したい。

上は中村天神社の鎮座地。
右がほゞ現在、左が明治31年の地図で、当時はまだ田圃しかない一帯。
鎮座地付近は大正時代、中村遊廓が作られた場所で、湿地ばかりのこの地に土を盛って遊郭が作られました。
その土はここより西の一画から掘り出して盛られたそうです。
掘った所には水が溜まり遊里ヶ池と呼ばれる池が出来たそうで、一時は憩いの場にもなっていたという。
遊郭の完成と共にこの池は病死した遊女の亡骸が捨てられるような場所になり、供養のために竹生島から弁財天を勧請し祠も建立された。
戦後も名楽園と名をかえ存続したが、売春禁止法と共に衰退化し現在はソープに変わり、住宅やビルの中にそうした店が見られ、嘗ての遊里ヶ池は埋め立てられ中村日赤病院となり、祠は病院敷地内の片隅に今もひっそりと佇んでいます。
町名はその名楽園からきているという。
因みにその祠は、中村日赤駅2番出口から左に進み、中村日赤駅信号から病院敷地に入った左側に今もひっそりと祀られています。

通りから見た中村天神社。
静かな住宅地の通りにあって、広い社地が与えられ広々とした印象を受ける。

社頭全景。
提灯櫓の右に天満宮の社標があり、石の明神鳥居とその先に二つの朱の鳥居が見える、手水舎は境内左側ににある。

境内の眺め。
左が中村天神社拝殿。

参道右の由緒。
「由緒
中村天神社の祭神は菅原道真公です
今から凡そ千百年前宇多醍醐の両朝廷に右大臣として仕えたが、藤原時平の讒言により延喜元年(901)九州太宰権帥に左遷された事は史実であり、後に天神様・学問の神様として祀られるようになりました
この中村天神社も、初め徳川尾張藩名古屋城清水御門の社に祀られていました
明治43年(1910)10月25日、当地愛知郡中村郷日比津字野合の守護神として名古屋城より遷座お迎えして以来、勉学の先達として土地住民の尊崇の中心となりました
昭和25年(1950)正月、神社本庁所属の認承を得て格式ある中村天神社として待遇され広く皆様の崇敬の要として奉齋の誠を捧げ今日に至っています
平成八年十月吉日 」

創建には言及されていないけれど、「名古屋城清水御門」とあり、築城当初から祀られていたかは定かではないが、創建は慶長年間(1596~1615)あたりまで遡るのかもしれない。
こちらへの遷座明治43年(1910)とあるので、明治時代の当地の地図に鳥居の姿がないのも理に適う。
中村天神社について幾つかの地史に目を通すも、見落としたのか中村天神社としては見つからなかった。

唯一、中村区解説に以下のように記されていた。
「中村区の中心を東西に走る太閤通
その脇道を少し入ると、おいなりさんの赤い鳥居がたくさん並ぶ、中村天神社(天満宮)があります。
中村天神社は学問・勉強の神様、菅原道真公が御祭神で、古くより土地住民の尊崇の中心としてまつられています。
江戸時代、徳川幕府文治政治指向にともない名古屋城清水門の守護神とされていましたが、時勢の推移によって清水門の取り壊しの明治43年10月25日に現在の地に移されました。」
とあったが、神社の歴史や由緒についてはここまで。

社殿全景。
境内は拝殿前に大きな松が聳えており、拝殿右側の公孫樹は最近上が抑えられ、枝も剪定されたのかスッキリして綺麗な印象を受ける。

境内左の手水舎。

なかなか形のいい石だ、澄んだ清水も張られているのでここは清めさせてもらおう。
手前の生花もまだ正月モードのようだ。

境内右の稲荷社、二つの奉納鳥居の先に其々の社が祀られているようですが、鳥居に額はない。

右の鳥居をくぐる。
街中の稲荷にしては多くの奉納鳥居が建てられている。

鳥居の先に稲荷神の使い狐の姿と本殿。

年代不明の狐、空襲の影響か耳が一部欠け落ちている。

今くぐってきた鳥居は豊川稲荷大明神に続き、左にも同様の稲荷社が祀られている。
祭神は吒枳尼真天。

左は伏見稲荷大明神祭神は宇迦之御魂神。
日本三大稲荷(諸説あり)の二つの社寺が隣同士で鎮座する。
何れも創建時期などは不明ですが、この地に二つのメジャーな稲荷が祀られた背景には、遷座以後の遊郭で賑わった土地柄もあるのだろうか。

伏見稲荷大明神から見上げる中村天神社の鞘殿。

拝殿は妻入り瓦葺で幣殿と鞘殿がひとつに繋がる。

拝殿左に石の撫で牛。
後方の解説の内容は以下。
「天神様と牛(丑)と梅
道真公は承和12年(845) 丑歳丑月丑刻 梅花馥郁と盛んなとき生誕しました
牛(丑)は古くから人間にとって有益な家畜として務めると共に天神様のお使いとしてたいへん尊ばれて参りました
延喜3年(903)丑歳太宰府配所で没したと伝えられています
「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 主なしとて 春な忘れそ」
道真公が太宰権帥として延喜元年(901)正月25日、梅の花咲く頃醍醐天皇を少しも怨み奉ることなく懐かしくお慕い申し上げた忠愛の詩です
右のように牛と梅の花とは深い関係として伝えられています」

中村天神社の祭神菅原道真豊受大神迦具土命、熱田大神が祀られているという。
創建当初からこの四柱なのかは定かではないが、菅原道真はともかく、三柱は戦前・戦後にかけて地域の変貌に伴い祀られたものかもしれない。
拝殿に掲げられた「神徳馨(しんとくかぐわし)」の額。
明治43年(1910)に遷座後の昭和47年(1972)に補修の手が入れられているのかもしれない。

境内左側から社殿全景、左側は社務所
拝殿壁面一杯に吊るされた絵馬の数が、地位に住む方々から崇敬されているのが伝わってくる。

中村天神社
創建 / 不明(明治43年(1910)名古屋城清水御門より遷座)
祭神 / 菅原道真豊受大神迦具土命、熱田大神
境内社 / 豊川稲荷伏見稲荷
所在地 / 名古屋市中村区名楽町3-16
参拝日 / 2024/01/09
竹橋町不明社から中村天満宮 / 太閤通りを西進、太閤通6の信号右折して次を左折、​徒歩移動時間17分、1.2㌔
関連記事 /