「嫩桂 山久昌寺」愛知県江南市

江南市田代町郷中
名鉄犬山線の布袋駅から南東に徒歩20分程、そこは東に柳街道が南北に延び、西に名鉄犬山線の線路が続く、嫩桂山久昌寺はその中間に鎮座します。

f:id:owari-nagoya55:20210911172349j:plain周囲は宅地化も進んでいますが、嫩桂山久昌寺の西側にかけては今も水田が多く残り、こうした昔ながらの長閑な風景が残っている。

f:id:owari-nagoya55:20210911172406j:plain鮮やかな緑の稲田の先に、浮島の様にこんもりとした杜が残されています、久昌寺の杜です。

f:id:owari-nagoya55:20210911172425j:plainその杜に包まれた境内に瓦葺で入母屋の屋根が見えてきます。

f:id:owari-nagoya55:20210911172440j:plain嫩桂山久昌寺境内全景。
寺号標の左に小さなお堂、右手に江南市教育委員会による久昌寺の解説板が置かれている。
その奥に本堂と右手に庫裏がある。

f:id:owari-nagoya55:20210911172454j:plain解説
「久昌寺は嫩桂山と号し、曹洞宗大本山総持寺の直末である。
中興開基は、久庵桂昌大禅定尼(𠮷乃の方、信長室)で開山は雄山源英和尚(万松寺六世)です。
久昌寺の縁起によると、至徳元年(1384)禅喜寺を草創、途中、嘉慶元年(1387)寺号を慈雲山龍徳寺と改めています。
生駒氏が大和より移住したとき開営し、菩提寺としました。
三代家宗の代になり、その娘お類(吉乃の方)が織田信長の室となり、信忠、信雄、五徳(徳姫)を生みましたが、永禄九年(1566)五月一三日病没、この時から現在の寺名に改められています。
吉乃の方は小折村新野(今の田代墓地の南西)で荼毘に付され、久庵桂昌大禅定尼と号し、この寺に祀られています。
この寺に嫩(どん)の桂があり、久しく昌えるという意味から、嫩桂山と名付けられたといわれています。
信長は、信雄に命じて香華料として五明村六百六拾石を付したといわれ、図(尾張名所図会)の如く寺廓の整った寺の様子がうかがえます。
久昌寺の本堂の西に墓地があり、生駒氏代々と一族、歴代住職の墓標が林立しています。
その他、略図のごとく生駒氏に関る人々の墓地があります」

戦国時代の流れを左右するひとつの舞台となった久昌寺、その寺が来年には取り壊されると聞き、姿を収めておきたくて訪れる事にしました。

f:id:owari-nagoya55:20210911172510j:plain赤い屋根の小さな堂、内部に一体の石仏が安置されている。

f:id:owari-nagoya55:20210911172526j:plain蓮華座の上にあぐらをかくこの石仏、由来や年代は明らかではない、角の取れた石に彫られた像の表情はよくわからない。

f:id:owari-nagoya55:20210911172544j:plainこうして見る限り、荒れ果てた廃寺の印象はない。
お堂の左から本堂へ続く参道は右側は綺麗に保たれているが、左側はお世辞にも手入れがいいとは言えない。
それもそのはず、この寺の専属の住職は彼是60年前からおらず、檀家も数えるほどしかいないという。
寺は既に精算業務を終えているというが、それでもこの状態で保たれているのはボランティアの方々によるもの。

f:id:owari-nagoya55:20210911172600j:plain参道左側の木々と雑草が生い茂る中に赤い社があるが詳細は分からなかった。

f:id:owari-nagoya55:20210911172614j:plain更に奥に進むと、草むらの中に赤い鳥居がありその先にも社がある、こちらも詳細は分からなかった。

f:id:owari-nagoya55:20210911172631j:plain久昌寺は尾張七福神の「弁財天」のお寺としても知られている。

f:id:owari-nagoya55:20210911172646j:plain本堂
現在の本堂は1925年(大正14)に建て替えられたもので、建物としては特別古い物とは言えないかも知れない。
入母屋瓦葺で向拝を持ち大棟には嫩桂と山号瓦が乗っている、解体が決まったいま、それが妙に寂しく見えてくる。
解体の最大の要因は檀家の減小もあるだろうが、大正以降の維持管理が出来なかった様だ。
近くで見ると下り棟の瓦などは無くなっていて、老朽化した部分が見えてくる、恐らく内部には雨も漏れているだろう。
軒下にあるはずの額は既に取り外され、壁には白い額の跡が露わになっていた。

f:id:owari-nagoya55:20210911172703j:plain向拝
向拝を支える向拝柱や桁など躯体の木材はしっかりしているのだが。

f:id:owari-nagoya55:20210911172721j:plain斗供や木鼻も綺麗なものです。

f:id:owari-nagoya55:20210911172736j:plain手挟の飾りも老朽化は見られない。

f:id:owari-nagoya55:20210911172753j:plain緑色に染まった軒下の梵鐘と使い込まれた突き棒。
鐘の音が最後になったのはいつの事だろう。

f:id:owari-nagoya55:20210911172812j:plain池の間に銘文が刻まれていたが読み取れなかった、唯一「久〇寺」とは読めるが、右側が読めない。
いつ頃鋳造されたものか不明ですが、突き座は結構すり減っています。

f:id:owari-nagoya55:20210911172847j:plain拝殿から庫裏方向の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20210911172903j:plain本堂は施錠され、中の様子までは見ることが出来なかった、境内整備をされていた方によれば「本尊や吉乃と信長の位牌などは既に他の寺に移され何も無いよ」と教えてもらう。

f:id:owari-nagoya55:20210911172919j:plain秋めいてきた。

f:id:owari-nagoya55:20210911172936j:plain本堂後方。
久しく昌える嫩の桂とはどれだろう、丸い葉っぱは目に付かなかった。
取り壊し後は公園となるようですが、過去を語り継ぐ掲示物が整備されるといいのだろう。

f:id:owari-nagoya55:20210911172956j:plain本堂西側の生駒氏代々の墓碑と歴代住職の墓碑群。
ここは文化財に指定されているので伽藍取り壊し後も保存されるようです。

f:id:owari-nagoya55:20210911173012j:plain解説からの抜粋
「生駒氏は、家譜によれば藤原氏の流れで、もとは大和國生駒郷(現在の奈良県)に住み、文明・明応(1469~1500)の頃に初代家広が小折村へ移り住んだと云われています。生駒家歴代の墓碑は平成二十五年に市の文化財に指定されました」

f:id:owari-nagoya55:20210911173028j:plain一面草に覆われた墓碑群。
この一画に久庵桂昌大禅定尼(吉乃の方)の墓碑がある。

f:id:owari-nagoya55:20210911173044j:plain吉乃の方の墓碑(左から4基目)

f:id:owari-nagoya55:20210911173105j:plain本堂から境内の眺め、庭木は今も綺麗に剪定されていました。

f:id:owari-nagoya55:20210911173124j:plain庫裏から眺める本堂。

f:id:owari-nagoya55:20210911173210j:plain庫裏全景。
詳細は不明ですが一説には江戸末期のものとされています。

f:id:owari-nagoya55:20210911173233j:plain越屋根。

f:id:owari-nagoya55:20210911173250j:plainこちらの庫裏も施錠されているようで、境内全体は静まり返り物寂しさが漂う。

f:id:owari-nagoya55:20210911173331j:plainこうして伽藍を眺められるのもそれほど長くはない。

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尾張名所図会「久昌寺」
江南市の解説内容はほぼここから来ているようです。

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尾張名所図会「久昌寺」
これによれば本堂の参道左に禅堂、庫裏の横に鐘楼、南に弁天(現存せず)、その先に表門を構えた様子が描かれ、現在目にする伽藍より規模は大きなものだったのが分かります。
右下の神明社や左上の八大龍王社は現在も受け継がれています。

当時の面影は薄れているけれど、稲田の中に佇む浮島様な風景のジグソーパズルから、大きなピースがなくなる。

「久昌寺」
山号 / 嫩桂(どけい)山
寺号 / 久昌寺
創建 / 至徳元年(1384年)
宗派 / 曹洞宗
本尊 / 木造釈迦如来
所在地 / 江南市田代町郷中47
公共交通機関アクセス /  名鉄犬山線布袋駅から南東に徒歩20分程
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すべては牛毛海岸に漂着した御神符から始まった「牛毛神社」

名古屋市南区元鳴尾町「牛毛神社」

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天白川右岸堤防道路沿いに鎮座し、社頭正面には東海道新幹線東海道本線が走り、天白川を渡る架橋の基礎が壁の様に聳える。
堤防で見えませんが、その先には扇川が並行して流れ、二つの大きな河川の合流による水位を制御しているようだ。

f:id:owari-nagoya55:20210909175506j:plain天白川上流の眺め、平時でこの水位なので左の元鳴尾町方向の海抜は高いとはいえない。
神社の社地は天白川河川堤防の上にある。
現在は元鳴尾ですが少し前は鳴尾村、更に遡ると牛毛村で尾張名所図解や尾張史にもその地名が見つかります。
海岸線が近かったころは「海潮池」(うしおいけ)呼ばれたようで、時の経過によりいつからか「うしげ」と変わっていったようです。

f:id:owari-nagoya55:20210909175523j:plain明治の頃の地図しか用意できなかったけれど、新田開発により海口は沖に伸びていきます。
天白川砂州が発達しその上にできた集落が牛毛と呼ばれていた頃は、海が迫りこの辺りは牛毛海岸と呼ばれたようです。赤い矢印が牛毛神社。

f:id:owari-nagoya55:20210909175538j:plain新幹線の高架沿いを細い道が堤防に続き、社頭はその道沿いにあります。
社頭前の道は車が通れる幅はなく、周辺には駐車余地がない事を予め書いておきます。
社頭右に二つの石標があり、これが目印になるかも知れません。

f:id:owari-nagoya55:20210909175551j:plainここには「聖徳大師」、「庚申塚」が安置されていますが、年代や詳細は分かりません。
造花とはいえ色鮮やかな花が供えられていました。
この写真を撮っている時に一人の年配の女性の方が通り過ぎ、堤防の上がり際で立ち止まり手を合わせていく姿を見かける、早朝散歩の日課の様だ。

f:id:owari-nagoya55:20210909175607j:plain堤防脇のその場には一体の石像が祀られていました。

f:id:owari-nagoya55:20210909175621j:plain像は風化により姿はよく分からず、背後に回ってみてもげ元号らしきものも見当たらない。
謂れを聞けばよかったが既に後の祭りだ。
しかしこうしてお参りに訪れる姿を見ると、この神社が身近な存在なのがよく分かる。

f:id:owari-nagoya55:20210909175637j:plain境内は左に社号標、常夜灯の先に神明鳥居が建ち、拝殿は更に奥にある。

f:id:owari-nagoya55:20210909175651j:plain社号標後方に牛毛神社由緒。
「宗教法人神社本庁十三級社
名古屋市南区元鳴尾町二一八番地
牛毛神社
御祭神 須佐之男
創建 文政五年(西暦1823)
御由緒 昔から傳わるには津島神社の御神符が毎年のように当時の牛毛海岸に流れ着きしを村人は之を神の御神意と解してこの地に奉遷して氏子の守護神として現在に至っている。
例大祭 毎年十月の第二日曜日
境内神社 伊勢神宮 祭神 / 天照皇大神、 創建 / 大正十三年、 祭礼日 / 十月第二日曜日
津島神社 祭神 / 須佐之男命・大国主神、 創建 / 〃 、 祭礼日 / 七月第四土曜日
金刀比羅宮 祭神 / 大国主神崇徳天皇、 創建 / 〃 、 祭礼日 / 十月第二日曜日
多度神社 祭神 / 天津彦根命、 創建 / 〃 、祭礼日 / 十月第二日曜日

f:id:owari-nagoya55:20210909175710j:plain鳥居から境内の眺め。

f:id:owari-nagoya55:20210909175725j:plain左に手水舎、社務所、正面に社殿の伽藍。

f:id:owari-nagoya55:20210909175740j:plain手水舎と手水鉢。
由緒には文政五年(西暦1823)の創建とあったが、手水鉢には「明和6年(1769年)、牛毛村若者」と刻まれ、多少年代に多少食い違いがあるようです。

f:id:owari-nagoya55:20210909175757j:plain拝殿正面の眺め。
瓦葺の切妻妻入り拝殿とその前を守護する狛犬大正12年(1923)生まれ。

f:id:owari-nagoya55:20210909175812j:plain巻き髪が強調され、肉付きの良いフォルム、思いっきり大きく口を開けている。

f:id:owari-nagoya55:20210909175829j:plain拝殿内、正面に由緒書きと思われる額が掛けられている。
起こりは牛毛海岸に幾度となく御神符が流れ着き、当時の村人が神の神意と捉え創建したとあるように、そうした事が繰り返し起これば、何かしら不思議な縁のような物を感じたのも無理はないかもしれない。
それを形にするエネルギーと、それを守護神として崇め続けてきた牛毛村の人々の信仰心の厚さが、今もこうして神社として残っている。
参拝。

それにしても焚き上げもせず御神符を流す、その出所はどこだ?なんて考えてはいけないものかもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20210909175846j:plain拝殿左から牛毛神社本殿方向の全景。
拝殿後方は透塀で囲まれ、見通せそうで見通せない。
神門と吹き抜けの幣殿、本殿が祀られています。
拝殿後方の一本の老木は御神木のムクノキ。

f:id:owari-nagoya55:20210909175904j:plain本殿後方から本殿域を眺める。
本殿は一間社流造で、後方を除き縁と脇障子が付く、高欄には金色に輝く擬宝珠が施されていた。

f:id:owari-nagoya55:20210909175932j:plain本殿域後方の境内社
金刀比羅社、多度社、津島社、天照皇大神、一社だけ離れて御霊社が祀られています。
境内社左には脇参道がある。

f:id:owari-nagoya55:20210909175950j:plain南側から本殿域の眺め。
南側は堤防沿いに歩道が整備されています。

f:id:owari-nagoya55:20210909180011j:plain歩道側から社殿が良く見渡せるかというと、イチョウなどの杜が視界を遮り意外に見通せない。

遥か昔は波打ち際で、自然に任せどからともなく流れ着いた御神符。
今は穏やかに流れる天白川とその上を走り去る新幹線の速さの対比が面白い。
出張で幾度となく利用はしたが、速攻爆睡で車窓の外など気にも留めなかった。
牛毛神社、新幹線の車窓から意外に見えるのかもしれない。
これがリニアになると寝る事も外の景色を楽しむことも出来なくなる、そこまでの速さで移動する事が必要なのか常に感じる。
2021/08/22

牛毛神社
創建 / 由緒書 : 文政五年(西暦1823)、手水鉢 : 明和6年(1769年)
祭神 / 天照皇大神
境内社 /   金刀比羅社、多度社、津島社、天照大神宮、一社離れて御霊社
所在地 /  名古屋市南区元鳴尾町218
公共交通機関アクセス / 名鉄名古屋本線「本星﨑」駅から徒歩で南へ25分程

鳥居松町3「神明社」

春日井市鳥居松町3「神明社

春日井市の西部に位置し春日井市役所などあり、春日井の中心といってもいいでしょう。

f:id:owari-nagoya55:20210907164112j:plain南に下街道が東西に続き、北に平行して国道19号線が伸びる。
鳥居松町3「神明社」は国道19号と下街道に挟まれた中央公園の道路を挟んだ南側に鎮座します。
上の絵の左は1891年頃の当地、緑のラインは下街道で、現在の国道19号線はまだ整備されていない。
この年代にして鳥居が描かれているので建立は古そうです。

町名の「鳥居松」も何か意味深。
由来は幾つかあるようで、その昔この辺りに権現さまの鳥居跡があり、その傍らに松があった事から「とりいまつ」とついたとか、街道沿いに松並木があった事から「とおり まつ」からきているとか諸説あるようですが、現在の鳥居松の街並みで松はお目にかかれない。

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訪れたのは8月16日、晴れたいのか雨を降らしたいのかよく分からない空模様。
中央公園南側から「神明社」社地全景。
車の場合駐車場に困るかもしれない、因みに慈眼寺を参拝しそのまま歩いて訪れました。
社頭は下の写真右の細い路地にあり、境内は東西に長い社地。
春日井の中心にあって豊かな杜が残されています。

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社頭から境内の眺め。
神明鳥居から参道は真っすぐに伸び、狛犬が守護する拝殿が見通せます。

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鳥居右の社号標と由緒標。
由緒標、石の模様が強く、刻まれた文字は見ずらいものがあります。

當神社祭神由緒標には以下の様に刻まれていました。
「 神社名 神明社
祭神 天照大神・豊受比女命
相殿 大山祇命(山神)、祭神 明治大帝(明治神宮)
社格 旧村社
建立 1562年(永禄5)清州神明社勧請
1620年(寛永4)社殿再建
1710年(寛政12)社殿再建
1909年(明治42)字宮西村社祭神天照大神を合祀
1965年(昭和40)都市計画事業に伴い社殿境内地整備
例祭10/17春日井市鳥居松町3丁目 」

とある、かれこれ5世紀に渡りこの地を見守り、人々の崇敬を受け続けて来た神社。

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境内全景。
瓦葺の切妻、妻入りの四方吹き抜けの拝殿と右に手水舎、本殿左右に末社の姿が見える。

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手水舎から見る境内、右側にも小さな社がある。
手水舎の先には右の末社に続く参道。
鉢は大正12年のもの。

f:id:owari-nagoya55:20210907164431j:plain手水舎右の社。
残念ながら詳細は不明、境内社の事が由緒標に記されているとありがたいものです。

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妻飾りや鬼瓦には五三の桐紋が入る。
境内は杜に囲まれているが風も通り、空気の淀みのような感じのない明るいもの。

f:id:owari-nagoya55:20210907164503j:plain拝殿前の狛犬は目つきの鋭い精悍なもの。

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右の境内社
神明鳥居の先に、幣殿から続く石垣の上に並ぶように鎮座する。
社名札ははなく詳細は不明。

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左の境内社
こちらも右と同様の造りで、詳細は分かりません。
鳥居の建之は昭和40年とある、社殿整備時に建てられたようだ。

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拝殿額は賴威靈とある。
伽藍全体に言える事ですが、人目を引き付ける派手さはないけれど、飾り金具などに拘りが感じられます。

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拝殿から幣殿、本殿の眺め。
拝殿内右に由緒らしき額があるが今一つ読み取れなかった。

幣殿前には玉取りと子取りの狛犬
こちらは拝殿の前の狛犬より一回り小さいが、全身は苔の緑に包まれようとしている。

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社殿の眺め。
神明造の本殿と瓦葺切妻で平入の幣殿、その先の拝殿が見える。

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社頭の鳥居は明治41年の建之。
こうして見る参道は以前はもっと西に延びていた様な印象を受けます。
由緒標にある宮西の神明社もどこなのか定かではなかったが、明治24年の地図にはここから少し西に鳥居が記され、大正に入るとそれは消えていました、現在この辺りには神社は存在していません。
ひょっとすると合祀した宮西村社とはここを指すのかもしれない。

5世紀に渡り受け継がれてきた神社。
その間、周囲の景観は目まぐるしく変貌し続けています。

春日井市鳥居松町3「神明社
建立 / 1562年(永禄5)
祭神 / 天照大神・豊受比女命
相殿神 / 大山祇命(山神)、明治神宮
境内社 / 三社(不明)
所在地 / 春日井市鳥居松町3-26
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慈眼寺から徒歩ルート / ​北東に10分程

戸隠神社 「宝光社」

「火之御子社」の夫婦杉から左に続く神道を宝光社に向かいます。
神道は宝光社、火之御子社、中社の三社を結び、杉の古木と落葉樹の森に包まれた道。
宝光社へは緩やかな下りが続き、過酷な道ではないですが雨後などは足元が滑りやすい場所もありサンダルとかは避けた方がいい。
道標も整備され道に迷う心配もなさそうです。

f:id:owari-nagoya55:20210904210611j:plain火之御子社からクマ除けの鈴の音とウグイスの鳴き声を聞きながら神道を5分程下ります。
右手に大きな杉の大木、その根元には注連縄が巻かれ、手前に石碑が見えます。

f:id:owari-nagoya55:20210904210628j:plain伏拝(ふしおがみ)
室町時代の古書に「御正体飛来の処、伏拝と称す」と記しています。
950年頃(天歴年中)の祝部(神主)が、宝光社の御祭神・天表春命を奥社に合祀しました。
1058年(康平元年)天表春命の御正体がこの地に飛来「奥社は女人禁制にして、冬は登拝が困難である。
この地は四季を通して老若男女がお参りできる社を建て我を安置せよ」と申されました。
里の人々は御神意によって宝光社を建立し、御正体をお祀りしたと伝えられている。」

その昔はこの先から女人禁制、奥の院御神体戸隠山はここで拝みなさいという事。
今は樹々が生い茂り拝み見る事は出来ない。

f:id:owari-nagoya55:20210904210645j:plain根元の二つの石標。
上「NHK小鳥の声放送記念碑」
なんで?
この戸隠の森は野鳥の宝庫のようで、NHK長野放送局が1933年(昭和8)に日本で初めて野鳥の鳴き声を全国に中継したそうで、 その場所がここだという事で、それを記念した建てられた碑のようです。
下「伏拝所」石標
角がとられた一枚の岩に梵字一字と伏拝所と記され、右にも何か彫られているように見えますが風化により定かではありません。

伏拝から宝光社までは10分程の道のり。
明るい森に続く神道ではすれ違う参拝客はなくとっても心細い、「熊出没注意」の看板はそれに拍車をかける、熊とご対面だけは勘弁願いたいと嫌でも感じる。
「パン〃」柏手の音が森に響く。

f:id:owari-nagoya55:20210904210703j:plainやがて神道は宝光社の神輿庫の横に出る。
目の前には拝殿と神輿庫が視界に入ってくる。

f:id:owari-nagoya55:20210904210721j:plain神輿庫
中には新旧二基の神輿(しんよ)が保管されています。
右の御神輿は1804年(文化元年)、奥社、九頭龍社、中社、宝光社に配すべく四基製作され、現存する唯一の一基で2015年に修復が施されたもの。
左のものは1991年(平成3)に新たに作られた神輿です。

f:id:owari-nagoya55:20210904210741j:plainガラス張りの神輿庫、内部に置かれた解説と、右の神輿を撮ってみた。
左の神輿は撮っては見たが周囲の人の映り込みが激しくお見せできる代物ではなかった。
二基安置され、一基は新調とあるけれど、ぱっと見では派手〃のこちらが新調されたものに感じるけれど、色鮮やかな神輿が残存する結一の一基、修復技術には驚くばかりだ

f:id:owari-nagoya55:20210904210757j:plain神輿庫から眺める「宝光社」社殿と社務所
木材の色合いを生かすため、塗りが施されていない素木造りの社殿は、周囲の自然に溶け込み落ち着いた趣があり個人的にとても魅かれる。

戸隠神社は1847年(弘化4)の善光寺地震により大きな被害に見舞われ、宝光社も被災しています。
権現造りの社殿は戸隠五社に中では最古のものといわれ、被災後の1861年(文久元年)とされる。

向拝から軒にかけて見事な宮彫りが施され目が奪われる。
屋根は入母屋造りの妻入りで唐破風向拝を持つ。

f:id:owari-nagoya55:20210904210814j:plain木鼻の獅子や象を始め、虹梁や蟇股には龍や麒麟、向拝懸魚の鳳凰など生き生きと描かれています。

f:id:owari-nagoya55:20210904210831j:plain外観にマッチしたシンプルな額ですが、その周辺は見事な彫が溢れている。
彩色され直球ど真ん中で勝負してくるものに対し、外角低め一杯に超スローカーブを投げ込むような味わいのあるものだ。

f:id:owari-nagoya55:20210904210847j:plain拝殿内と社殿解説板。
それによれば宮彫りは江戸末期から明治期に活躍した宮彫師の北村喜代松(1830~1906年)の作とされるようですが諸説あるようです。
祭神は天表春命を祀る。
式年大祭は7年に一度行われる戸隠神社最大の式典で、今年(2021年)がその年だったようです。
大祭では、先に見た御神輿で中社に渡り、父神の天八意思兼命と対面し再び戻ってくるのだそうだ。

f:id:owari-nagoya55:20210904210907j:plain参拝を終え再び上を仰ぐ。
参拝時には気付かなかった虹梁下側に錫杖が彫られ、その錫杖に龍が巻き付いている。
時間をかけ細部を見て行くと他にも気づきがあるやもしれない。

f:id:owari-nagoya55:20210904210928j:plain拝殿左の社務所
社頭へは左の女坂か拝殿正面の男坂を下りていく事になります。

f:id:owari-nagoya55:20210904210946j:plain社務所後方には境内社が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20210904211002j:plain女坂沿いには苔むした手水鉢置かれ、山から湧き出た清水が鉢に注がれていました。
ここから境内社に向かってみます。

f:id:owari-nagoya55:20210904211020j:plain斜面に祀られた社と石灯籠?

f:id:owari-nagoya55:20210904211043j:plain
いや、燈籠ではなくこれは石の社、〇に金の紋が入る事から金刀比羅神社

奥の社は中には石像が安置されていますが、詳細は不明。

拝殿前に戻り男坂から社頭に向かいます。

f:id:owari-nagoya55:20210904211104j:plain男坂から下の眺め。
ここから社頭前の県道36号線までは290段ほどの石段が続きます。

f:id:owari-nagoya55:20210904211125j:plain石段中ほどの左側に境内社が祀られています。

f:id:owari-nagoya55:20210904211143j:plain石段途中から本殿へ続く参道がありますが、もう少し降ると左に鳥居があり、そこから本殿に続いています。
本殿左に社名札が掛けられ、二文字記されているようですが、青はなんとなく読めるけれど下が読み取れません。青龍? 詳細不明です。

f:id:owari-nagoya55:20210904211205j:plainその鳥居です。
神明鳥居と正面に石の社が三社見えています。

f:id:owari-nagoya55:20210904211228j:plain石段を上がると傾斜地を切り開いた社地が広がり、そこには見えていた三社以外にも複数の石の社と石仏が安置されています。
石仏のいくつかに頭部のない物もあり、神仏分離の影響?と勝手に想像してしまう。
このエリア全く分かりませんでした。
先程の不明社へは左側に参道が伸びています。

f:id:owari-nagoya55:20210904211247j:plain男坂も間もなく終わり、鮮やかな緑のトンネルの先に狛犬と鳥居が見えてきました。

f:id:owari-nagoya55:20210904211311j:plain宝光社の狛犬
年齢不詳ですがとても愛嬌のある顔つきです。

f:id:owari-nagoya55:20210904211329j:plain手水舎。
柄杓はなく、龍から注がれた清水は鉢の外に導かれています。

f:id:owari-nagoya55:20210904211349j:plain男坂上り口から上を仰ぎます。
一本の石段ではなく二カ所の踊り場があり、それ程きついものではありません。
女坂は先に見える燈籠から左に拝殿まで伸びています。

f:id:owari-nagoya55:20210904211412j:plain鳥居から見る男坂、真っすぐ続く石段の先に拝殿が見えています。

f:id:owari-nagoya55:20210904211429j:plain宝光社鳥居と社標。
戸隠神社 宝光社
御祭神 天表春命
御由緒並びに御神徳
御鎮座年代古く、第七十代後冷泉天皇の康平元年(1058年)に奥社遷祀奉斎されました。
御祭神は中社御祭神の天八意思兼命御子神様で技芸、裁縫、縁結、安産、厄除、家内安全などに御神徳があり、婦女子や子供の守り神として御霊験もあらたかで広く萬民に高大なるお恵みを給う大神様です」

f:id:owari-nagoya55:20210904211449j:plain
県道から宝光社の社頭の眺め。石段はここから始まります。

戸隠神社信仰遺跡の解説。

f:id:owari-nagoya55:20210904211511j:plain戸隠神社「宝光社」御朱印
これで戸隠5社の御朱印はコンプリート。

さて、ここから中社までどうやって戻るか?
神道を戻るしかあるまい、再び神輿庫の脇から神道を上り中社に戻ります。

f:id:owari-nagoya55:20210904211531j:plain火之御子社から先の神道
熊笹ぼうぼうは少し不気味ですが僅かな距離です、途中分岐には行先も表示されているので中社を目指せば大丈夫。

f:id:owari-nagoya55:20210904211554j:plainやがて道は舗装になり戸隠道を進めば集落が現れ始めます、集落を流れる渓流に目をやれば、住民の方が大切に守っている岩魚が悠々と泳ぐ姿も見られます。

f:id:owari-nagoya55:20210904211633j:plain写真の時間データで見ると宝光社鳥居から神道➡戸隠道を経て、三本杉が聳える中社鳥居までほぼ40分。
森林の中を歩いたり、熊笹の生い茂る道を歩いたこの時間は、清々しくもあり、心細かったりと楽しい時間を過ごす事が出来ました。
着いた頃は丁度蕎麦屋の開店時間に間に合いました。
2021/6/24

戸隠神社「宝光社」
祭神 / 天表春命
創建 / 1861年(文久元年)
所在地 / ​長野県長野市戸隠2110
徒歩所要時間 / 火之御子社から10分、 宝光社社頭から中社約40分

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笠寺町大門「秋葉神社」

先日掲載した「笠寺天満宮東光院」の続きと云ってもいいかもしれません。
今回は東光院山門から目と鼻の先にある秋葉神社です。

f:id:owari-nagoya55:20210903221740j:plain笠寺観音として馴染みのある天林山笠覆寺(りゅうふくじ)、その仁王門前から南に延びる門前通り沿いに大門町の「秋葉神社」が鎮座します。
写真は北を向いて笠覆寺仁王門方向を見ています。
右手の幟が立つ一画が東光院で、手前左の石垣の上にブロック塀で囲われた一角が「秋葉神社」。
こうして眺めると、神社の存在を示すのは白い石灯篭と本殿の屋根だろうか。
瓦葺の御門は灯篭がなければ民家の玄関とも捉えられる。

f:id:owari-nagoya55:20210903221802j:plain社地は東光院の南にある四つ角の南西角にあり、門や本殿は概ね東を向いている。
さて、ではいつ頃の創建なのかとなると、これがさっぱり分からない。
諸先輩たちが秋葉神社と云われるので、この記事ではそれを尊重させて頂きます。
現地で根拠となるものを探してみましたが見つかりませんでした。
ここから少し南の天満に鎮座する七所神社。
その社地東側にも秋葉神社が鎮座するので、各町内の火伏に祀られた秋葉さんと想像するのは無理な話ではない。

f:id:owari-nagoya55:20210903221823j:plain東光院から見た社地の全景、この細い通りの先に大門の公民館がありますが、ひょっとするとこちらで詳しいことが分るやもしれない。
公民館や集会所と神社、結構セットの場所も見かける。

f:id:owari-nagoya55:20210903221841j:plain御門から本殿域を眺める、板宮作りの社には社名札はなく、玉垣の御門にもシンボルマークは見当たらない。
良く分からんが取り敢えず参拝、賽銭〃っと、あれ?見当たらない、ここは無銭参拝とさせてもらいました。

f:id:owari-nagoya55:20210903221858j:plain本殿全景。
いつ頃ここに祀られているのか、定かではないのですが、やはり気になる。

f:id:owari-nagoya55:20210903221916j:plain上の左は1891年頃、右が現在の笠寺周辺。
旧東海道秋葉神社から七所神社方向にかけて集落が点在している、明治初期頃の創建だろうか。
どちらの地図も神社は記されていないので創建時期には繋がらないけれど、笠寺大地とその周辺の変貌が分かるので載せる事にします。

南区笠寺町大門「秋葉神社
創建・祭神 /  不明
所在地 / ​名古屋市南区笠寺町大門
公共交通機関アクセス / 名鉄名古屋本線「本笠寺」駅降車徒歩10分
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河岸町「秋葉神社」神社は何処に

瑞穂区河岸町秋葉神社

f:id:owari-nagoya55:20210901203439j:plain久しく訪れていなかった。

河川堤防の改修工事が行われていた事は知っていました、今日久し振りに通りかかると、長い事堤防に置かれていたバリケードは撤去され白い堤防が現れていました。
さぞかし綺麗になった事だろうと寄り道してみた。

上の写真は2018年当時の河岸町秋葉神社
山崎川の堤防脇の法面の僅かなスペースに秋葉神社が祀られていました。
改修工事が終わった後の姿が下になります。
河岸町の「秋葉神社」の姿は消え失せていました。

f:id:owari-nagoya55:20210901204404j:plain

山崎川左岸の呼続1丁目の秋葉神社から対岸の河岸町の秋葉神社が鎮座した場所の眺め。
地盤沈降で痛んでいた堤防は白く綺麗に生まれ変わっています。
以前はここから眺めると社の屋根が見え、川を挟んで二つの秋葉さんが互いの町に睨みを利かせていました。

f:id:owari-nagoya55:20210901204339j:plain旧東海道の石標と旧山崎橋の親柱は以前のまま残っていました。
山崎橋を渡り対岸に向かいます。

f:id:owari-nagoya55:20210901204310j:plain山崎橋から下流方向の眺め、強固な真新しい白い堤防が伸びています。

f:id:owari-nagoya55:20210901204242j:plain

橋を渡って河岸町「秋葉神社」が鎮座していた一画の眺め。
以前は右の道路から境内に繋がる階段があったが現状はそれが無くなっていました。

f:id:owari-nagoya55:20210901203746j:plain右岸の親柱は今も残されていますが、以前とは様相が違って綺麗に整地されていました。

f:id:owari-nagoya55:20210901203809j:plain堤防と擁壁の間のこの空間、ひょっとして新たに土が入り再び祀られるのだろうか。
そうあってほしいものです。
取り敢えず現状は河岸町「秋葉神社」はない。暫くたって再び訪れて見よう。
2021/9/1

f:id:owari-nagoya55:20210901203832j:plain左岸の呼続1丁目の秋葉神社は現在も健在だ。

f:id:owari-nagoya55:20210901204136j:plainただ山崎橋から上流は御覧の様に改修が進んでいて、下流側の整備も間近なのかもしれない。
それによってはこの光景も様変わりするのかもしれない。
それにしても立派な堤だ、この地域の平穏な日常はこの堤にかかっている。
気が遠くなるようなプロジェクトかも知れない。

所在地 / ​名古屋市瑞穂区河岸町4丁目
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生駒吉乃が眠る「嫩桂山 久昌寺」間もなく長い歴史に幕を閉じる

早いもので今日から9月。
コロナだ、蔓防防止だの、緊急事態宣言だので今年も振り回されて暮れていきそうだ。
先月末、新聞やweb newsなどで以下の記事を見た。
信長「最愛の女性」菩提寺取り壊しへ 630年以上の歴史に幕

「630年の歴史に幕」妙に魅かれ、このまま訪れる事無く消えゆくのを見送るのも後悔しそうな気がするので車で訪れてきました。
所在地は江南市田代町郷中、名古屋から下道で41号線と県道172号線を経由して50分程だ。
 

f:id:owari-nagoya55:20210901112557j:plain 周囲はまばらに住宅地が建ち、その中に青々とした稲が風になびく長閑な水田が広がる。
久昌寺はそんな環境の中に鎮座する。

以下は記事から久昌寺の抜粋になりますが。
織田信長の最愛の女性、信長との間に後の岐阜城主となる信忠らをもうけたとされる側室、吉乃(きつの)の墓が本堂西側にあり、生駒家歴代当主の墓と共に市文化財に指定されている。
江南市史」などによると、吉乃は地元有力者だった生駒氏の娘。
寺は1384年創立で生駒家の菩提(ぼだい)寺にあたる。

吉乃は生駒家の屋敷で暮らしていた時に信長と出会い側室となり、長男信忠、次男信雄、後に徳川家康の長男信康の妻となった徳姫をもうけたとされる。
信長は正室濃姫との間に子どもが授からず、吉乃は織田家の中で存在感があったとされる。
若くして亡くなったとされ、あの信長がその死に涙を流して惜しんだと伝わる。
信長は香華料として660石を寺に与えたという。

周辺には吉乃と所縁のある龍神社などがある。
 

f:id:owari-nagoya55:20210901112629j:plain 現在の久昌寺(2021/08/31)
本堂や庫裏は遠目には大きな痛みもないように見えるが、瓦葺入母屋造りの屋根の一部は瓦がなくなり、それに伴い内部にも影響が出ているものと思われます。
こうして見る本堂は1925年(大正14)に建て替えられたものという。
庫裏は詳細が不明ですが、江戸末期のものではないかとされる。

境内には二つの社と観音堂があるが、いずれも朽ち果てていた。
既に精算業務を終え、本堂の額は取り外され、額の痕跡だけが残っている状態。
今更遅いが僅かな賽銭を入れる賽銭箱もなく、本堂の扉も固く閉じられていました。

そんな境内を一人清掃活動をされていた方に伺うと「既に堂内には何もなく、吉乃や信長の位牌も移された」とのこと。
なので寺の伽藍外観と存続が決まった生駒家歴代当主の墓を見るだけになる。
 

f:id:owari-nagoya55:20210901112656j:plain 写真は本堂西側の生駒家歴代当主の墓。
後方のこんもりは吉乃と所縁のある龍神社。

檀家や氏子の減少は寺社の存続に大きく影響している。
記事によれば檀家は10軒ほどという、これでは如何に歴史があろうが存続は難しい。

建物の取り壊しを惜しむ声や存続を希望したとして、それらを維持する資金がなければ遅かれ早かれこの道を辿る事になるのだろう。
もはや本業では維持できない、これが現実。
あっちこっち寺社を巡ってみると上手に発信し参拝客を引き付ける小さな寺社も多い。
資金難で喘ぐご時世、もう少し資金調達の策はあったのかもしれない。

龍神社の神職の方と僅かながらお話を交わすと「解体がきまってから当神社に訪れる参拝客が増えた」そうな。

現在の形で解体・廃棄されるようであれば、オークションを開いて貰えれば入札したいものもある。
衰退していく寺社を見ていると、なんとなく将来の日本を見ているような気がしてならない。
青々とした田んぼがひろがる長閑な光景から久昌寺は間もなくなくなる。

山号 / 嫩桂山
寺号 / 久昌寺
創建 / 至徳元年(1384年)
所在地 / ​江南市田代町郷中47