栄生町の玄関口名鉄栄生(さこう)駅からすぐ近くの屋根神さまを後に、名鉄病院方向へ5分程歩いた東側に鎮座する栄生稲荷社に向かう。
個人的に普通に「さこう」と呼んでいますが、町名の由来は明暦年間(1655~58)頃からは栄(さこ)村住民が商いをするようになり、栄町(さかえまち)と称するようになっていたそうです。
現在の中区栄の旧町名「栄町」が成立したのは明治11年(1878)なので、栄の地名の本家は栄(さこ)村になる。
「さこ」とはもともと「狭いところ」を現すようですが、栄の字を「さこ」とはなかなか読めないもの。
上は明治31年当時(左)の愛知郡栄村と現在の地図(右)を見比べたもので、赤い線は美濃街道(県道67号線)。
栄生稲荷社は東海道本線東側の集落や道もない田んぼの中に位置し、地図上に碑らしき印が描かれていますが鳥居の姿はありません。
駅舎のある西区には「さこう」と書かれていますが、仮に線路の西側に入口があれば「さこ」と云う事になるのか。
個人的に線路を境に呼び分けを意識した事はなく「さこう」なんだが、それではいかんのだろう。
昔、この辺りで小さな焼き鳥屋を営む方が臨時職員として訪れ、その方は「さこ」に拘り、「栄生(さこ)○○」と屋号にまでしており、「さこうね」と云うと「さこなんですよ」と良く訂正させられたことを思い出す。
懐かしさから、記憶を頼りに本陣から西区まで歩いてきたが、さすがに時が過ぎて見付ける事は出来ず、ここ「さこう」まで来てしまいました。
西区栄生2「栄生稲荷社」社頭。
社地は南北に奥行きがあり、西側には朱の明神鳥居があり、社殿は南向きに建てられています。
社地南側にも石の明神鳥居を構えており、社殿配置から見ると南側が正参道になるのかもしれません。
玉垣にある住所表示は「栄生(さこう)2丁目20」
西参道から見る境内、奉納鳥居の立ち並ぶ先の建物が社務所のようで、参道はそこから左に折れた先が社殿となります。
栄生稲荷社の額。
南側の正参道と思われる社頭全景。
右手に「稲荷社」社標とその後方が手水舎。
石の明神鳥居から続く奉納鳥居の先が拝殿。
手水舎手水鉢。
住宅地にあって周囲に大きな建物がないため比較的明るい境内。
大きな樹々が聳え、なかには桜もみられるので春には綺麗な花が見られそうです。
拝殿は木造瓦葺切妻造の妻入り。
三方をフェンスで厳重に囲われた本殿域は銅葺屋根の一間社流造、本殿前に一対の狛狐の姿があります。
社殿後方から全景。
拝殿から屋根が続きと本殿まで繋がっています。
社地東側の社務所と民家の間に細い通路あり、その奥に小さな社の姿があるようですが、断りなく立ち入っていいものか分からず今回は見送りさせてもらいました。
こちらの栄生稲荷社の由緒は現地で見ることが出来ず、地史に目を通すもそれらしい記載は見当たらなかった。
寄進物は南の社標が昭和5年(1930)で、鉢や鳥居など見ていないので創建がいつ頃なのか想像できませんが、冒頭の地図の鳥居を見ていくと初見は昭和7年からなので、祭祀形態はともかく、古くても江戸時代はなさそう。
恐らくこの辺りに集落が集まりだした、明治から大正頃の創建だろうか。
六生社を訪れた際、慶長8年(1603)にこの辺りから遷座したとありました。
田んぼが広がるこの辺りから、入れ代わるように栄生稲荷社が創建されたとは思えない。
拝殿左の忠魂碑。
新しい年を前にして、境内の枯れ葉が氏子の手により綺麗に纏められていました。
この頃はまもなく訪れる新しい年が、よもやこのようになるとは想像できなかっただろう。
今できる事はふるさと納税とボランティア登録、そして毎日できることは能登の酒を飲むことくらいか。
明日は我が身と心得て装備を確認しよう。
栄生稲荷社
創建 / 不明
祭神 / 宇迦之御魂神
所在地 / 名古屋市西区栄生2-20-19
参拝日 / 2023/12/08
屋根神から栄生稲荷 / 名鉄病院方向へ徒歩5分程
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