「牧野神明社」名古屋市中村区太閤

名古屋市中村区太閤1 牧野神明社
名駅の東は背の高い商業施設が林立して立っていますが、駅の西側となると以外に駅近くまで住宅街が広がり、視界を遮るような大きなビルが少ない。
個人としては視野の広いこちらの街並みの方が落ちつける。

牧野神明社は先回掲載した須佐之男社・迦具土社から、少し東に向かった大型スーパーの南の区画に鎮座しています。

上は明治時代の笈瀬村、右はほぼ現在の地図の比較。
神社の北側を東西に延びる道は、名古屋と佐屋街道を結ぶバイパスとして作られた柳街道。
笈瀬村牧野集落の東に広がる田んぼの中心が鎮座地で、明治の地図からも鳥居の記は描かれています。
この地域に鎮座する椿神明社、稲穂社、厳島神社、先に掲載した須佐之男社・迦具土社とともに、牧野5社のひとつに数えられ、尾張誌(1844)にも「牧野村神明社二社」として記されており、もうひとつの神明社は椿神明社を指しています。
椿神明社と笈瀬川(お伊勢川)を伊勢神宮外宮・五十鈴川と見立て、牧野神明社は内宮として見立て対になる神社として捉えられていた。

社地東側の太閤1付近から牧野神明社社務所と杜の眺め。
周辺では貴重な緑の森が残されている。

境内入口は社地の南側と北側、そして写真の東側の三方に参道があります。

社地南側の社頭。
鳥居の正面に拝殿が建っているのでこちらが正参道だろう。
杜の木陰に一対の常夜灯と石造神明鳥居はあるが、社号標は見当たらなかった。

神明社由緒。
「御祭神 天照大御神
例祭日 10月16日
由緒
 当所付近一帯に往古伊勢大神宮の神領地区一陽の御厨と称され、お伊勢川を挟んで当所に内宮椿森に祭祀されたものなり。
尾張志にも「牧野村神明社二社ありと載せられあり。
 明治の始め神社改革の際、当社は郷社指定され、近郷一帯の崇敬厚く、明治40年神饌幣帛料供進神社に指定せられる。
昭和20年3月不幸戦災に罹り焼失せしが、昭和27年10月再建を見るに至れり。」

やはりこちらも名古屋空襲の爪痕は残るようで、被害の甚大さは戦前・戦後の航空写真からも見て取れる。

鳥居をくぐった境内西側から社頭の眺め。
容赦のない陽光とアスファルトの照り返しが暑さに拍車をかけるけれど、露わになった地表と緑の杜の木陰の下は都会のオアシスだ。

鳥居の寄進年は大正4年(1915)、常夜灯は昭和6年(1931)に寄進されたもの。
どちらも空襲以前のものです。

この手水石の寄進年は昭和7年のもの。

境内には大きな常夜灯か或いは神馬像と思われる台座だけが今も残されています。

拝殿の正面全景。
手前を二対の狛犬が守護しています。

手前の狛犬は奥の狛犬と比較すると時代が違う様で昭和に入って寄進されたもの。

拝殿前の狛犬は大正初期に寄進されたもの。

石材の種類、デザインなど年代の違いが感じられますが、吽形の後ろ足の欠損は戦災の爪痕だろうか。

拝殿は戦後の再建という事もあり、切妻・妻入りの鉄筋コンクリート造り。
拝殿額は「牧野神明社」で揮毫は愛知県知事によるもの、祭神は天照大御神

古来、牧野の村人は笈瀬川の水を汲み甘酒を醸し溶き、これを甘酒祭の時に牧野神明社、椿神明社や村内に鎮座する他の社にも奉献し、氏子の幸と安全を祈る祭礼が受け継がれているようです。
仕込み水を汲みあげたとされる笈瀬川も時代とともに暗渠化され姿を消したが、今も残るとされる甘酒祭の仕込み水の入手先が知りたいところです。

拝殿から南側の正参道の眺め。

東参道の眺め。

境内西側から社殿全景。
中央の常夜灯は昭和8年に寄進されたものでした。

社殿側面全景。
妻入り拝殿と幣殿が繋がり、神明造の本殿に直線的に連なる。

本殿の鰹木は5本乗っているが、千木の削ぎまでは見えなかった、それだけ濃い緑が残っている。

境内の樹々の根もとの地面には無数の穴。
へび?、いや、これは蝉が這い出て来た穴。
街のなかの舗装化された地域に残る僅かな土壌から、種を残すため地下から這い出てきた痕跡。
道行く人に木陰を提供してくれる杜は、生き物にとっても重要な場所でもある。

境内北側から鳥居の先の眺め。
ここから先は再び上と下から熱気が襲ってくる、携帯の画面も黒くなる訳だ。

牧野神明社
創建 / 不明
祭神 / 天照大御神
境内社 / 
所在地 / 名古屋市中村区太閤1-18-7
須佐之男社・迦具土社から徒歩 / 須佐之男社・迦具土社から​東へ向かいスーパーの南に鎮座、5・6分程​
参拝日 / 2024/08/02
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