西国三十三所十八番札所 頂法寺

第十八番 紫雲山 六角堂 頂法寺
鎮座地は本堂の三方にビルが迫り、エアポケットの様な空間に寺が鎮座しています。

六角通に面した第十八番 紫雲山 六角堂 頂法寺山門。

長禄・寛正の飢饉で京は飢饉となり、この山門には人々が集まり、六角堂門前で炊き出しがおこなわれたという。
京は朱雀大路を中心に左京(東京)と右京(西京)の左右対称の町が作られましたが、右京は土地が湿って住居に不適当だったことから衰退し、人家は左京に集中するようになり、左京の市街地は南と北に延びはじめ、結果、北の方を上京、南の方が下京というように左京の町を二分する概念が生まれ、六角堂は下京の町堂として崇敬を集め、町衆のコミュニティーの場とした役割を担うようになった。
江戸自体末期まで、京都を彩る祇園祭山鉾巡行の順番を決めるくじ取り式が六角堂でおこなわれ、六角堂は京都の中心といわれるようになりました。

山門前の六角堂解説より一部のみ抜粋。
 「紫雲山頂法寺と号する寺で、本堂が六角宝形造である事から、一般に六角堂の名で人々に親しまれている。
はじまりは、淡路島に漂着した観音像を聖徳太子が念持仏としたことによる。
 用明天皇2年(587)に四天王寺建立用材を求め、京都を訪れた際に、池で身を清めるため、念持仏を木に掛けたところ動かなくなり、この地で人々を救いたいと太子に告げたため、六角形の御堂を建て安置したのが寺のはじまり。
弘仁天皇13年(822)嵯峨天皇の勅願となる。
 長徳2年(996)花山法皇り御幸があり、西国三十三所観音霊場となる。
建仁元年(1201)親鸞上人百日間参篭、真宗開宗の根源となった。」

山門から礼堂の眺め。
切妻瓦葺の薬井門で太い角の本柱と冠木が載せられ、二本の控え柱を持つもの。
寛永18年(1641)本堂・山門など復興されたと由緒にありますが、現在の門が当時のものか定かではありません。
千社札厳禁の寺が多くなり、今どき流行らないと思うが、千社札が貼られている事から文化財ではないのか、それとも寛容なんだろうか。
訪れた時だけかもしれないが、インバウンド客は皆無で大撮影会の光景は見られなかった。

なぜ三十三ヶ所なのか
「観音信仰の基礎となるのが「妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五」で俗にいう観音経です。
 その中には、観世音菩薩は人々が真心をもって観音様の御名を唱えれば、悩める私たちの求めに応じて様々な姿に身を変えて説法してくれるとあります。
観音様には聖観音・千手観音・如意輪観音など様々なお姿がありますが、観音様が人間世界に現れるときには 「南無大慈大悲觀世音菩薩」とお称えするように、慈愛溢れる性格から年齢・性別を問わず、三十三の身近な者の姿に変化して私達を救って下さいます。
 観音経の中にもその変化の姿が三十三数え上げられ、この数にちなんで全国各地に三十三ヶ所の観音霊場が開かれています。」
当寺はその第十八番にあたります。

頂法寺礼堂。
本尊は如意輪観音
伽藍は本堂右手に親鸞聖人像や親鸞堂、左に不動堂があり、本堂後方には太子堂がある。
礼堂は入母屋瓦葺の平入で千鳥破風と軒唐破風の付くもので、後方の宝形の本堂と一体になったもの。

「六角堂由緒
紫雲山
草創
 用明天皇2年(387)聖徳太子建立。
太子 大阪四天王寺建立のため用材を求めこの地に入られた時、夢に霊告をうけ、杉の大樹によって六稜の堂を建て自らの護持仏をここに安置された。
 本邦伽藍建立の際初なるところから頂法寺という。
天治2年、初めて炎上其後度々類焼し寛永18年の再建には朝廷より陣屋御殿の御寄附を得て本堂・山門・築地等を復興した。
 今の御堂は明治9年に再建、創建以来1400余年。
本尊
 如意輪観世音菩薩。
聖施太子の護持仏で六角堂定立の後は本尊として祀り其の守護を小野妹子大臣に命ぜられたと伝える。妹子は入道して専務といい太子沐浴の池のかたわらに坊を営んだので坊号を池坊という。
 以来子孫が当寺住職として守護、今日に到っている 。
本尊脇仏には木像地蔵菩薩像、毘沙門天立像(藤原時代作・重要文化財)等安置する。
西国霊場
 長徳2年(996)正月、花山法皇当寺に行幸される、これが西国巡礼の始りで、当寺は現在西国第一八番の霊場です。
後冷泉天皇諸国の大寺に仏舎利一粒ずつを納るにあたって、当寺より始められたと伝えられ、今も舎利塔が現存する。
太子堂
 聖徳大師御作二歳像(南無仏)を祀る。
見真大師像(夢想の後)建仁元年、大師夢想の内に四句の役を授かり給う御姿(本堂安置)
 見真大師像(草鞋の像)建仁元年、大師比飯山より御参篭の御姿(親鸞堂安置)
鐘楼堂
 慶長10年豊臣秀吉の臣、堀尾吉晴の息忠氏が寄進。
昔は水難・火難の際この鐘をついて急を知らせたという、鐘は第二次世界大戦に献納、現存のものは昭和29年に再鋳復元。
鎮守堂
 明星菩薩(唐埼明神)を祀る。
へそ石
 本堂古跡の石ともいい、京都市街の中心石として伝わる。
聖徳太子木浴の古跡
 太子堂周辺に枯山水の庭となって、その面影をとどめている。
華道家池坊
 小野妹子(専務)は太子の教えに従って朝夕宝前に花を供え、代々の住職はこれを伝え、いけ花の名手を輩出した。
室町時代(足利義政の頃)には専慶が立て花の名手と称えられ、室町後期には専応が出て、いけ花の理念を確立した。
 いけ花発祥の地といわれる所以である。
いまや池坊いけ花は、ここを拠点として発展し日本国内にとどまらず世界を結ぶ文化として重要な役割を果しつつある。」 

山門をくぐり本堂に続く参道右側の縁結び柳の右に「へそ石」があるが、嘗ては六角堂のこの辺りが京都の真ん中と云われていたようで、その証が「へそ石」なんだとか。
へその由来は体の中心にへそがあるように、今日の中心なのでへそ石と呼ばれるようになったとか。
門前の六角通りにあったものを、明治時代初期に門内に移されたものだそうです。

観世音菩薩と書かれた赤い提灯には輪宝紋が入る。
内陣右に見真大師、左に聖徳太子の額が掲げられています。

内陣。
如意輪観音のお前立、本尊の聖徳太子御持仏の如意輪観音像の大きさは御丈1寸8分(約5.5㌢)とされる秘仏

礼堂左から六角堂方向の眺め。

礼堂左の二つの祠は左が不動明王、右が石ふ動。

左の不動明王堂内の火焔光背のシルエットは正に不動明王

正面の石ふ動。
大日如来が一切の悪魔を降伏させるために姿を変えたのが不動明王で、煩悩を焼き尽くす火焔光背と怒りの形相をした姿をしています。
こちらの石不動は安永9年(1780)刊行の「都名所図会」にも描かれている。

六角形の宝形の本堂。
六角形の宝形の意味は、人の眼・耳・鼻・舌・身・意によって生ずる六欲を指し、これらを捨て角の取れた円の姿になる「六根清浄」への願いが込められた形だという。

礼堂の裏側の面にも複数の仏像が安置され、小窓から拝めるものの内部は暗く良く分からなかった。

六角堂後方の太子堂・沐浴の古跡、手前の水盤の中にある二つの石は、天明八年(1788)に焼失したとされる、当時の六角堂の礎石とされています。

太子堂
六角堂を創建した聖徳太子を祀り、開山堂とも呼ばれる宝形の堂で、内部には聖徳太子2歳の頃の像、16歳像、物部守屋と戦った時の姿とされる騎馬像が安置されている。

礼堂外陣に安置されている賓頭盧尊者像。

礼堂右の手水舎と十六羅漢

頂法寺の龍口。

手水舎から更に奥には、右の一言願い地蔵と右手に親鸞上人像、正面の親鸞堂、六角堂の鎮守社唐崎社があります。
地蔵の姿は頭を傾げ、参拝に訪れた方の願いを叶えるか否か考えている姿なんだとか。
信心次第で欲張らずにひとつだけ願うと叶えてくれる、かも。

親鸞堂。
建仁元年(1201)、親鸞29歳の時毎夜比叡山を下り、この六角堂に百日参篭し真宗の開祖となった。
内部には親鸞が夢のお告げを聞いている姿の像「夢想之像」と参篭時の姿を自ら彫った「草鞋の像」が安置されています。

親鸞堂の右奥に朱の鳥居とその先に二社祀られています。

唐崎社(右)。
六角堂の鎮守社で、祭神は唐崎明神を祀る。
近江八景の一つ唐崎の松で知られる滋賀県大津市の琵琶湖湖畔に鎮座し、持統天皇11年(697)に創建された唐崎神社の神様が祀られています。
唐崎神社は日吉神社の摂社で比叡山延暦寺とも関係が深い神社。

左は日彰稲荷。

額には「唐嵜社・祇園社天満宮」とあり、八坂神社と北野天満宮の祭神も合祀されている。

親鸞上人像から見る礼堂・本堂(六角堂)の眺め。
現在の本堂は明治10年(1877)の再建で、確かに六角形の形をしているようですが、もっとはっきりとはっきり宝形の見たいなら、境内左のwest18ビルのエレベーターに乗れば、高い位置から六角堂を眺めることができます。

親鸞像の姿は、比叡山から本堂に参篭し、再び比叡山に戻る際の姿だという。

west18の左側のEVで9階まで上がり、エレベーターホールから見た六角堂の全景。
右手の礼堂と六角形の二重屋根の本堂が複雑に繋がったもので、本堂の内陣に如意輪観音、左側に毘沙門天立像、右側に不動明王が安置されています。
本堂左上の小さい朱色の六角堂が太子堂、礼堂上方に見えている六角堂が親鸞堂になります。
自分でいうのもなんですが、若い頃と比べれば、多少角も取れた方だと思いますが、まだまだ円の姿までは程遠いか。

これで5/11巡拝。