西国三十三所第14番「園城寺(三井寺)」

琵琶湖西岸の大津市南部の長等山中腹に鎮座する天台寺門宗の総本山。
山号を長等山と号し、正式名は園城寺三井寺として知られ、三井寺西国三十三所第14番札所でもあります。
先に掲載した三尾神社から、北へ3分程の園城寺前交差点を左折すれば三井寺になります。

三井寺総門。
駅から訪れるとこの総門にたどり着きますが、私達はこのまま直進し園城寺前交差点から仁王門に向かいました。

石垣沿いの歩道を歩いて行くと、左手に三井寺の鎮守社のひとつで鬼子母神を祀る護法善神堂へ続く小さな門が現れます。
更に直進し園城寺前交差点を目指します。

交差点を左折すると仁王門が現れます。
左が駐車場で、更に進むと護法善神堂に至ります。
ここでひとつ、護法善神堂の参拝は仁王門をくぐる前に済ませておかないと、後回しにして観音堂まで行くと戻るのが厄介になり、結局参拝せずに終わてしまいます。

三井寺境内マップ。
マップのように広大な境内には多くの伽藍が点在するので、帰りの電車を気にしながらだと回り切れないかもしれません。

西国14番札所園城寺(三井寺)表門の大門(仁王門)。

宝徳4年(1452)の建築とされ、もともと湖南市西寺鎮座の常楽寺の門で、秀吉により伏見城に移築、後の徳川家康が慶長6年(1601)に園城寺に寄進した入母屋檜皮葺で三間一戸の楼門。
両脇の間には康正3年(1457)に制作された金剛力士像が安置されています。

門前から境内の眺め。

左右の間に安置されている金剛力士像は、運慶作ともされるようですが、康正3年(1457)制作となると運慶は作れないような。
作者はともかく、網の向こうの像の表情は力強く、一部に彩色の跡も残っています。

参道右の食堂。
桁行七間、梁間四間の入母屋檜皮葺の建物で、正面からの眺めは安定感のある姿をしています。

解説には
本尊は清涼寺式釈迦如来立像を祀り、須弥壇室町時代のもので、建物は文政13年(1830)に唐破風向拝が増築されたもので現在は釈迦堂と呼ばれています。
宮中の清涼殿を三井寺に移築したものとされます。

清涼寺式釈迦如来立像解説。
清涼寺式とはなんぞやと思ったが説明されていました。
「着衣は袈裟を通肩に着し、上半身は首元からさざなみが広がるかのように同心円状に衣文を表し、下半身は大腿部の隆起に沿って茶杓状に衣文を交互に配しています。
下半身には裳を二段に着しています。
右手を施無畏印、左手は与願印とし蓮華座上に直立しています。
このような図像を持つのが京都市清涼寺に伝わる木造釈迦如来立像です。
東大寺僧然が入宋中にインド伝来という釈迦如来を模してさらに我が国に請来した像で三国伝来として有名な像です。
この生身の釈迦ともいわれるこの像を模刻したのが「清涼寺式 釈迦如来」とよばれる。」

堂前から堂内方向の眺め。
正面が清涼寺式釈迦如来立像。

食堂左の辨財天社。
天和三年(1683)の建立、学問・技芸の御利益がある。

食堂から先の参道は石段の左に手水舎、正面の石段の先が三井寺金堂。

手水舎。

金堂水由来
園城寺金堂は白鳳8年、天智弘文天武勅願により建てられ、本尊は弥勒菩薩で、金堂畔の閼伽井屋には三井の霊泉が今も湧き続けている。

龍口。
天智、天武、持統の3代の天皇の産湯として三井の霊泉が用いられたことから「御井(みい)の寺」と呼ばれ、後に智證大師円珍が三部灌頂の法水に用いたことから「三井」と呼ばれ三井寺と変わっていったようです。

石段の脇には城壁のような石垣が続き、この石段を上れば金堂です。

境内右手の金堂後方にある教待堂。
教待和尚の御像を安置しており、教待和尚は智證大師入山まで当寺を護持していた老僧で、 大師を迎えるとともに、石窟に入り姿を隠したといいます。
のちに大師はこの石窟上に一宇を建て廟としたもので、この堂は慶長四年に再建されたものという。

境内左手に近江八景「三井の晩鐘」で知られる鐘楼があります。
切妻檜皮葺で、周囲は腰板で囲われ、その上には縦格子が入れられた特徴のある建物です。

吊るされる梵鐘は、慶長7年(1602)に当時の園城寺道澄師の発願によって「弁慶の引き摺り鐘」を模鋳した二代目という。
この梵鐘には弁慶に纏わる伝説や不思議な言い伝えが残ります。

金堂(本堂)全景。
現在の金堂は慶長4年(1599)、北政所により再建された、入母屋檜皮葺で三間の向拝を持つ重厚な建物で、内部は外陣・内陣・後陣の三区画に別けられています。
本尊の秘仏弥勒菩薩は内陣に安置されています。
伽藍は金堂の西側に閼伽井屋、一切経蔵、唐院潅頂堂、裏側に教待堂、熊野権現社。南に微妙寺、西国14番札所観音堂と鎮座します。
三井寺の創建は定かではありませんが、7世紀に大友氏の氏寺としてはじまったようです。
平安時代の第五代天台座主・智證大師円珍和尚により、天台別院として中興され、源平の争乱、南北朝の争乱等の焼き討ちに遭いましたが、都度復興され不死鳥の寺として今日に至ります。

現在の金堂は、豊臣秀吉正室北政所によって慶長4年(1599)に再建されたもので、重厚さのなかに檜皮葺の屋根が美しい建物で、堂内は、外陣・内陣・後陣に区切られ、秘仏の本尊・弥勒仏を祀る内陣中央は、床を張らず一段下げて土間にするなど、天台系密教仏堂の形式を伝えています。

金堂の正面に建つ石灯籠「堂前灯籠」
天智天皇大化の改新で曽我氏一族を滅亡させ、その罪を消すため天皇自らの左薬指を切り、この灯篭台座に下に納められている。
燈籠の別名を円城寺金堂無名指燈籠というようです。

金堂左から閼伽井屋(左)の眺めと金堂向拝の意匠。

金堂左の閼伽井屋。

閼伽井屋正面の蟇股に施された左甚五郎作の龍の彫刻と霊泉。
耳をすませば、ボコッ・ボコッと地下深くから湧き出る霊水の音が今も聞こえます。

金堂後方の智證大師円珍像。
 弘仁5年(814)、現在の香川県善通寺市に生まれ、弘法大師空海の姪にあたります。
15歳で比叡山に登り、延暦寺の義真に師事、12年間の籠山修行にはいられ、後に延暦寺の学頭となる。
 仁寿3年(853)、新羅商人の船で入唐、同年8月に福州の連江県に上陸。
以後、天台山国清寺に滞在しながら求法に専念。斉衡2年(855)には長安を訪れ真言密教を伝授された。
 天安2年(858)、四百四十一部一千巻の貴重な経典をたずさえ唐商人の船で帰国。
帰国後、一時故郷の香川県に居住、後に比叡山の山王院に居住し、貞観10年(868)に延暦寺第5代座主となる。
 これに先立つ貞観8年(866)に三井寺の長吏に補任され、三井寺を伝法灌頂の道場とした。
寛平3年(891)10月29日、78歳をもって入滅される。
 24年間の長きにわたり仏法の興隆に尽くされました。
その門下には5百余人の弟子が育ち、教えを受けた人々は三千余人といわれています。
 三井寺には国宝の智證大師像など多くの像を所蔵しています。

金堂後方から大日如来坐像の眺め。
像高は約95㌢、ヒノキの寄木造の像で、以前は境内の長日護摩堂に安置されていたといいます。
堂内は拝観できますが撮影禁止で間近で拝観でき、天眼鏡はOKです。
拝観後金堂後方に廻ってみたところ、開け放たれ扉の先に大日如来坐像を眺められました。

熊野権現社。
檜皮葺で桁行3間、張間2間で正面に3間の向拝が付くもので、神仏習合時代の名残を留めています。
「智證大師が入唐求法され法華、密教の奥儀を究め、大峯・熊野三山の入峯練行された事跡に則り、平治元年(1159)当地に熊野権現を勧請、三井修験道の鎮神とされた。
現社は天保8年(1837)の再建」とあります。

霊鐘堂。
熊野権現社から左に進んだところにあり、奈良時代に鋳造された初代梵鐘(弁慶鐘)が公開されています。

この鐘には伝承があり、その昔、承平年間(十世紀前半)に田原藤太秀郷が三上山のムカデ退治のお礼に琵琶湖の龍神より頂いた鐘を三井寺に寄進したいう。
その後、山門との争いで弁慶が奪い比叡山へ引き摺り上げて撞いてみると「イノー・イノー」(関西弁で帰りたい)と響いたそうだ、 弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか!」と怒り、鐘を谷底へ投げ捨ててしまったといいます。
鐘にはその時のものと思われる傷痕や破目などが残っています。

霊鐘堂から南に進んで石段を上ると一切経蔵に繋がります。

三井寺唯一の禅宗様建築で、慶長7年(1602)に毛利輝元により、山口県の国清寺(現在の洞春寺)の経蔵を移築したもの。
宝形の檜皮葺で二層のように見えますがひとつの空間になっており、内部に一切経を納める八角形の輪蔵が据えられています。

一切経蔵から南を眺めると目の前に三重塔が聳えています。
慶長6年(1601)に徳川家康が寄進したもので、もとは奈良県吉野の比蘇寺(現世尊時)の東塔で、豊臣秀吉伏見城に移したものを再び移建したもの。
高さは25㍍で高欄が付き、組物は三手先。

唐院潅頂堂(手前)と長日護摩堂。

唐院は、三井寺の開祖・智證大師の御廟として三井寺のなかで最も清浄な聖域です。
その名称は、大師が唐からもたらした経典・法具類を納めるため、清和天皇(850-881)から御所の仁寿殿を下賜され、伝法潅頂の道場としたことに由来するという。
現在の建物は慶長年間(1596-1615)に大師堂の拝殿として、また密教の奥義を伝える伝法潅頂の道場として再建された入母屋檜皮葺で、正面に軒唐破風が付く。
後方には唐門を構えた太子堂があり、潅頂堂はその拝殿的役割を持つようです。
長日護摩堂は灌頂堂と渡廊下でつながる3間四方の瓦葺宝形造りの小堂で、後水尾天皇(1611-1629)の寄進により、寛文6年(1666)に建立されたもの。
堂内に不動明王童子像を祀り、人々の所願成就を祈願し護摩法が行われる。

唐院潅頂堂の四脚門。
解説板の内容は以下。
「江戸時代(寛永元年1624) 檜皮葺。
 現在の唐院は、正面に土塀をめぐらせた区域に四脚門を建て、西側の山手に向かって潅頂堂、唐門、大師 堂が一直線上に建ち並びます。
四脚門は、寛永元年(1624)に建築され、当初は棟門形式でしたが造営後に控柱を添えて四脚門に変更したものです。
 門前の石畳の参道に配された探題灯籠とともに聖域への入口として清浄な雰囲気をかもし出しています。」とある。


四脚門から潅頂堂の眺め。

参道に配された灯篭は歴代探題によって奉納されたもの。

村雲橋。
唐院潅頂堂の参道前から南に向かったところにある石橋。
智證大師がこの橋を渡っている時に、中国の青龍寺が焼けていることを悟ったとされ、閼伽井の水を撒いたところ、橋の下から村雲が湧き、中国に向け飛び去ったという。
翌年、青龍寺から鎮火御霊の使者訪れたという。
携帯もSNSもない時代のことだ。

参道突き当りの微妙寺。
正暦5年(994)、慶祚阿闍梨による開基で本尊に十一面観音を祀る。
「微妙寺は三井別所のひとつ。
 別所とは、平安期以降広く衆生を 救済するため本境内の周辺に設けられた別院で、水観寺、近松寺、尾蔵寺、常在寺があり総称して「三井寺五別所」という。
 往時に、除病、滅罪、開運の利益を求める参詣者が境内には溢れ、頭にかぶる笠が破れ脱げるほどであったことから「笠ぬげ観音」、「ばづれ笠の観音」として知られる。」

創建時は本堂、薬師堂、三重塔の伽藍を有し、後に園城寺南院の別所寺院となる。
現在の本堂は安永5年(1776)に再建された入母屋瓦葺の建物で、昭和54年(1979)長等公園の頂から三井寺境内のこの地に移転されたもの。

本尊の十一面観音は平安頃のものとされる。
秘仏金色不動明王は承和5年(838)、比叡山で修業中の智證大師の前に出現したもので、日本三大不動のひとつとされます。
向かいの三井寺文化財収蔵庫(@600)では、十一面観音はじめ勧学院客殿障壁画や訶梨帝母倚像、智證大師坐像などの重要文化財の絵画や仏像が収蔵されている。

本家力軒。
微妙寺から観音堂に向かう途中にある創業1810年の茶屋。
写真はこちらで出されている辨慶力餅。
かみさん曰く「これを食べるため…」という事らしい。
求肥餅にきな粉と抹茶、和三盆糖をまぶした柔らかい餅で、見た目ほど甘々ではなく二本は無理かなと思っていたが、ペロリとたいらげられる。
タップリとまぶされた抹茶がポロポロ落ちるので食べ方には要注意。
茶屋から右手に向かい西国三十三所14番札所観音堂に向かいます。

毘沙門堂
観音堂に向かう参道の右側には、写真の毘沙門堂と十八明神社が鎮座します。
毘沙門堂は境内の伽藍の中では珍しく、朱塗りで色鮮やかに彩色された建物。

正面一間 側面二間の桧皮葺の宝形造で本尊は毘沙門天
元和2年(1616)に三井五別所のひとつで、尾蔵寺の南勝坊境内に建立され、明治42年(1909)に三井寺南院に移され、昭和31年(1956)に解体修理に伴いこの地に移築されたもの。
桟唐戸の花狭間などの意匠が桃山時代の様式を留めており、現在の彩色は平成元年(1989)に復元されたもの。


十八明神社。
三井寺の鎮守社のひとつで「ねずみの宮」とも呼ぶこともあるようです。
その由来は、三井寺戒壇道場の勅許を得たところ、比叡山延暦寺の宗徒の横槍により取り消されてまった。
これを怨んだ頼豪阿闍梨が21日間護摩を焚き、比叡山に向って強く念を送り続け遂には果ててしまった。
その後、この怨念が8万4千の鼠となり比叡山を駆け上り延暦寺に押し寄せ、多くの堂宇や寺宝、経典などを食い荒らし、いつしか、十八明神社をねずみの宮と呼ぶようになったと伝えられています。
現在の社は天保7年(1836)に再建されたもので、社の正面は延暦寺に向け建てられています。

参道の先に写真の石段が現れればその先が観音堂です。
石段上り口から見上げると左側に見えるのが百体観音堂で舞台造りの建物は観月舞台。
樹々で隠れていますが右手に鐘楼があります。

上、手水舎。
石段を上り切ると正面に6角形の手水舎があります。
明治14年(1882)に建てられたもので、屋根の上の露盤から下は水鉢を含めて全てが6角形。
下、絵馬堂。
絵馬堂は寛政13年(1801)に建てられた桁行3間、梁間2間の入母屋瓦葺で、四方は吹き放しの建物。
名の通り絵馬を掲げるための建物で、ここから東には大津の街並みの先に琵琶湖が一望できる。


石段の右側に建つ鐘楼。
文化18年(1814)の建立で、入母屋檜皮葺きで腰袴の付く立派なものです。

鐘楼内から梵鐘を見上げる。
 かつては「童子因縁之鐘」と呼ばれる、不思議な伝承が伝われ梵鐘が釣られていました。
「その鐘を鋳造する際し、当時の僧たちは大津の町々を托鉢行脚しました。
 とある富豪の家に立ち寄り勧進を願ったところ、その家の主は「うちには金など一文もない。 子供が沢山いるので子供なら何人でも寄進しよう」との返事、しかたなくそのまま帰ってくるということがあった。
いざ梵鐘が出来上がると、不思議なことにその鐘には三人の子供の遊ぶ姿が浮かび上がっており、 その日に富豪の子供三人が行方不明になったという伝説が伝わっています。 その童子因縁之鐘は先の大戦で供出され武器に姿を変えていった。

上、百体堂。
宝暦3年(1753)に建立された瓦葺の宝形造で、右手回廊で観月舞台と繋がっています。
三井寺観音堂の本尊と同じ如意輪観音像を安置し、左右に西国礼所の三十三観音像が二段に祀られています。
また、坂東三十三箇所秩父三十四箇所の本尊を安置する事から、百体堂と呼ばれるそうです。

下、観月舞台。
嘉永3年(1849)の建立された檜皮葺の入母屋造で北側は舞台造りになっていますが普段は立ち入りできません。

桜の時期には予約が取れさえすれば舞台に上がることができ、床のアクリル板に写り込む桜と眺望が美しい所でライトアップも行われます。
予約制の瑠璃光院の事を思い出すと、ハイシーズンに訪れる踏ん切りがつかないところです。
傍らには謡曲三井寺」と観月舞台なる解説が立てられていました。
駿河の国清見が関の女が京の清水観音に参籠し、行方知れずになった我が子千満丸との再会を祈るうちに霊夢を得て近江の三井寺に来た。
 折しも中秋名月の夜、鐘の音にひかれて夢中で鐘楼にのぼり、鐘をつきながら鐘の功徳をうたい、月に浮かれてたわむれつつ、 子を求めて心乱れる母親を、はからずも寺僧に伴われて月見に来ていた我が子に見出され共に郷里に帰ることが出来た。」という物語が謡曲三井寺」である。
観音の加護による仏法の尊さを、湖水を渡る鐘の音に月を配して創られた詩情豊かな曲として名高い。
 観月舞台は月見の絶好の場所で、謡曲三井寺」を謡いながらその脳裡に様々な場面を描くことであろう。」

西国三十三所第十四番札所 観音堂
解説は以下。
「江戸時代(元禄2年1689)
札堂
 桁行9間、梁間5間、二重入母屋造、向拝3間、本瓦葺。
合の間
 正面14.3㍍、奥行5.9㍍、一重、両下造、桟瓦葺。
正殿
 桁行3間、梁間3間、一重、宝形造、桟瓦葺。
西国三十三所観音霊場の第十四番札所です。
 琵琶湖と大津市街を一望する景勝地にあり、古くから文人墨客に親しまれ てきました。
観音堂は、南院札所伽藍の中心建築で、 後三条天皇の病気平癒を祈願して延久4年(1072)に創建されたと伝えます。
 その後、現在地への移築と焼失を経て、元禄2年(1689)に再建されました。
本尊で重要文化財如意輪観音坐像は三十三年ごとに開帳される秘仏です。
 本尊をまつる「正堂」と外陣に相当する「礼堂」を「合の間」で繋ぐ本瓦葺の大建築で、堂内には元禄期の華やかな意匠を施しています。」
内部には多くの絵馬が奉納されており、その中には観音堂再建の様子を描いた「石突きの図」や、その「落慶図」も残されています。


観音堂境内からは眼下に大津の町と琵琶湖の眺望が広がります。

世継地蔵堂
絵馬堂から下に続く石段の途中に鎮座する宝形の堂で、文政2年(1819)に建てられたもの。
内部には子授け、安産祈願に御利益があるされ、庶民から崇敬を受ける中坂世継地蔵が祀られています。

この石段を下ると右側に馬身神社、長等神社の横に至ります。
三井寺の全てを巡拝できていませんが、石段を下って大津の町に向かいました。