牧野ヶ池緑地から今回の目的地野方神明社へは、車で南東に15分かからない距離に鎮座します。
日進市役所の西方に位置し、天白川左岸に広がる田園地帯の、こんもりとした森の中に社殿があります。

野方神明社の社地全景。
見通しのいい田園地帯にあって、この森の存在は、日本の原風景を感じさせる佇まいです。
手前の田んぼは神社の御神田のようです。

上は明治と現在の地図の比較で、赤枠が鎮座地になります。
当時の地図では、鎮座地南は飯田街道が東西に延びており、街道沿いに野方東、街道北側に野方西集落が点在しています。
現在の鎮座地も当時と大きく変わる事はなく、天白川沿いに田畑が多く残っています。
野方神明社は当時の地図にも記されており、新田開発に伴い鎮守として祀られた神社と思われます。

社地は南の道路側に社頭を構えており、参道の奥に鳥居が建てられています。
駐車場は社頭から参道を少し進んだ右側に駐車場がありますが、社頭入口は間口が狭く、小回りの利かない自分の車は一発で入れないので、東側の田んぼ脇の路肩に車を停め社頭へ向かいました。

社頭から参道の眺め。道路を沿いに神明社の燈籠が目印で、右側が駐車場です。
普通の車なら何ら問題なく入れるでしょう。

参道から鳥居方向の眺め。
年明け間もないこともあり、野方神明社の神社幟が立てられています。

鳥居前から境内の眺め。
左に社務所があり、正面の社殿とその右側に境内社が祀られています。

境内右手の手水舎。
手水鉢には龍のシルエットが浮かんでいます。

シルエットの主はこの方。

手水鉢の背面には寄進年の元文5年(1741)と刻まれていました。
鎮座地の野方の名の由来は「野を起こして畑に開拓」したことから付けられたようで、この辺りの新田開発の歴史は調べていませんが、岩崎城近隣の新田開発が慶安元年(1648)に始まっていたようなので、同時期には人の手が入り、元文5年には集落は作られ、村中安全のために神社が必要とされたようです。

拝殿・幣殿・覆屋と右手に境内社が祀られています。
愛知県神社庁に登録があり、野方神明社の内容は以下のようなものでした。
「神明社
とだけ書かれていました。
当神社は神職はおらず、普段は氏子の手により維持管理され、東郷町春木狐塚に鎮座する富士浅間神社が祭祀を兼務するようです。
富士浅間神社のHPには、兼務神社の詳細が記されており、野方神明社の内容は以下のようなものでした。
「野方神明社
御祭神 天照大御神、豊受大神、菅原道真。
創建は明らかではないが、寛文覚書に「神明」と記されている事より江戸時代初期には既に祭られていたと考えられる。
社蔵の棟札には元文5年(1741)、天照大御神、八幡大菩薩、春日大明神と記され、尾張誌、徇行記にも同様に記されている。
この点現在と異なっている。
恐らくは明治後年の強引な合祀令によるものと思われる。
近年神明社では隣の田んぼにもち米を育て「御神田」として、秋には其れで餅つきをしている。
野方町氏神 香具山氏神。」
元文5年(1741)の棟札が残り、手水鉢にもその年号が見られるため、それが創建時期とはいえないまでも、江戸時代初期にはこの地の守り神として崇敬され、代々受け継がれて来たものと思えます。





台座に文字が刻まれていたが判読できなかったが、昭和・大正時代のものではなさそうです。

覆屋の中に祀られている本殿は千木が内削ぎなのは分かりますが、造りや鰹木などは分からなかった。

6社祀られており、右から津島社、山神社、知立社、洲原社、天神社と並び、大きい板宮造りの社の社名は分からなかった。
ひょっとして火伏の神だろうか。

右から日清日露戦役記念碑、殉国の碑、招魂社が祀られています。


鳥居は昭和59年(1984)に寄進されたものでした。