『岩村城跡』岐阜県

紅葉にはまだ早い10月26日
岐阜県恵那市岩村城跡を訪ねる事にしました。

岩村城跡は小高い山の頂にあった山城
標高は717mと山城の中では最も高い
築城は1221年以降(鎌倉中期)とされ1871年(明治4)に解体されています
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岩村の上町常夜灯から左に折れ、案内板に従い登り始めます
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温故の井を右手に見ながら高度を上げていきます(上段左)
知新館跡のほど近く、聳え立つ太鼓櫓(下段左)は藩主邸跡地に藩主邸の一部、表御門、平重門と共に1990年(平成2年)に資料館として復元されたもの。
下田歌子勉学所(下段右)、趣のある古い門、その奥は実践女子学園の創設者の下田歌子の勉学所。
知新館の教授を父に持つも女性故に、知新館で学ぶ事が許されず、父親の書斎で独自に勉学した場所とされます。
勉学所を過ぎてからが本番、杉や檜に囲まれた石畳の坂を上り高度を上げます
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要所要所に解説板も設けられ訪れる人にはとても親切です
・・・・・結構な上り坂は優しくない、ここは城、優しい訳ないか?
一ノ門あたりから石垣も顔を見せ始めます
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土岐門
このあたりから石段となり斜度も更に強く、道は曲がりくねり、荒れています
土岐門は移築され徳祥寺山門として現存しているようです(上段)
畳橋付近の石垣、急峻な地形によくぞ作ったものです、これは容易に攻め込めない(下段)
石段は杉の枝が落ち滑りやすいので要注意です(・・・・・何かにバッタリ遭遇しそうな雰囲気)
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追手門の案内坂までくると再び石畳に変わり視界が少し開けてきます。
三重櫓の跡の井戸
岩村城は他の山城に比べ圧倒的に多い17箇所もの井戸があったと云われています。
ここまで観光気分で上がって来たものの、もはやトレッキングです、なまりきった脚に結構きています。
馴染んだ靴で足元を固め、飲み物を持参しましょう。
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霧ヶ井
ここまでくれば本丸はあと僅かです
岩村城は別名「霧ヶ城」とも呼ばれます、その由来となった井戸がこの霧ヶ井。
敵に攻められたとき、秘蔵の蛇骨をこの井戸に投げ入れるとみるみる霧が湧き立ち城を守ったという。
蛇骨は二の丸の宝蔵に収蔵され、虫干しをした記録も残されている。
(この近くに霧が城神社が鎮座しています)
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霧の井を過ぎると道は大きく右に回り込み日差しが差し込みます。
その先には何段にも折り重なる様に組まれた石垣「六段壁」が見えてきます。
六段壁は当初一段の高石垣から始まり、崩落防止の補強を繰り返した結果が六段の石垣となりました。
ゴールは近い
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長局埋門
本丸への最終関門、狭い通路の両脇を急な石垣が囲み、何度も折り返しを強いられる、やっとの思いで辿り着き、更にこれでは攻め入るにも厄介そのもの。
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目的地、岩村城本丸到着です
六段壁正面から望む御嶽
秋空の下、雪でうっすら化粧したその姿を眺めて下さい、最高のご褒美です。
岩村城跡の標柱からは岩村城下町を見る事が出来ます。
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岩村城跡標柱と昇龍の井戸
山城でありながら、水が枯れることは無かったといわれます。
本丸までの道すがら幾つも井戸があったように、戦の時には心強い。
これも豊かな森のおかげでしょう、岩村城下町では疎水として、​酒の仕込み水​として今も絶えることなく供給されています。
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700年の歴史誇った城は時の流れで取り壊されたものの、この険しい山の地形を生かして築城した技術とエネルギーは敬服に値する。
東洋のマチュピチと称する事もあるようです、この石垣は充分それに値する。
朝霧に包まれた城跡はきっと幻想的でしょう。



霧が城神社、岩村城弁才天社を参拝、得体の知れぬキノコを見がてらコースタイムは50分でした。
因みに、本丸の下の駐車場まで車でショートカット可能です。
(この間イノシシ、クマと遭遇する事はありませんでした)

 住所 / ​岐阜県恵那市岩村町字城山
アクセス / 明知鉄道岩村」駅下車(岩村歴史資料館まで徒歩約30分)